*10 深まっていく秋と、二人と
文化祭が終わると、学校は一気に受験モードに入る。うちの高校は割と受験学年が行事に熱心でも口うるさくはない方だったと思うのだけれど、それでも最後のイベントが終わったら、途端に口々に勉強しろと言い始める。あの、鶴賀でさえも。
「いいかー、もうお祭り気分は終わりだからなー。早速来週には模試があるからなー」
夏が所謂、天王山というなら、その後の秋と冬は何と呼ばれるんだろうか。そんなことを、やり直し人生の二十五歳の僕は呑気に考えてしまう。
受験教科の担当でもない鶴賀の言葉は、単語帳や用語集に勝るわけがなく、ほとんど誰も聞いていない。受験に必要なことは個々で違うから、高校受験のようにみんなで一斉に、という感じではないからだろう。
だから、これからは永和と距離を取りやすくなるかな、と考えながら、斜め前の座席の背中を眺める。永和もやはり鶴賀の話を真剣に聞いている風ではなく、頬杖をついて窓の外を見つめている。
窓の外のグランドでは体育の授業のサッカーが行われていて、永和の目はうらやましそうにしているように見えた。
サッカー、やっぱり好きなんだな。進学の動機にするぐらいだし……と、思いながら見つめていたら、不意に永和がこちらをちらりと振り向き、小さく笑いかけてきた。いつもみんなに振りまいている懐っこいそれよりも、一段踏み込んだ甘ささえ感じるそれに、僕の胸が音を立てる。
後夜祭の夜から一週間。あれ以来永和との関係が急速に親密になったのかと言うと、そうでもないようで、時々不意打ちで僕だけにわかるような仕草をしてくることが増えた。
アプローチ、と呼ぶには控えめだけれど、無視できるほどささやかではないし、ささやかなりに僕の心を揺さぶる。僕の方から永和への想いを明らかにしたり、そう取られてもいいような振る舞いをした覚えたりするないはずなのに、永和は僕の本当の下心を見透かすようにつついてくるのだ。
(ワザとなのか、天然なのか……後者なんだとしたら、永和ってすごく人たらしじゃない?)
だからこそ、常に彼の周りには人がいるのだろうし、慕われているのだろうし、僕はそんな自分にはない彼の人の好さに惹かれていたとも言える。
「そうなんだとしたら、永和が僕に構ってくるのって……別に他意はないってことかな?」
休み時間、トイレで一人手を洗いながら呟いていたら、「俺が誰を構うって?」と、聞き慣れた声がし、そしてがっしりと肩を組まれた。鏡には驚いて情けない顔をしている僕と、それをにやりと笑った顔で鏡越しに見つめている永和が映し出されている。永遠な気付いていないのか、僕は耳の端まで真っ赤になっている。
この姿だけを切り取れば、僕らは親友と呼べるほどの仲の良い関係に見えるかもしれないけれど、その実、お互いの家さえ行き来したことがない。鶴賀達の目を誤魔化すための付き合っているふり作戦、とやらを永和から提案されてそろそろ数か月。最近では鶴賀からも鴨井からも声をかけられることすらなくなっているから、いまは特に作戦の必要さを感じていない。
だからもうそろそろ距離をとってもいい気がするのに、こうして、永和は僕と二人しかいない時につるんで来たりするのだ。それも、肩を組んだり抱き着いたりするような事をして。
「翠、今日一緒に帰ろーぜ」
「サッカーの練習は? 試験近いんじゃないの?」
「おう、来週だけど」
じゃあ、僕なんかといるより、筋トレとかしていた方がいいんじゃないの? と、言おうと思ったら、「試験前の息抜きだよ」と、先回りしたようなことを言ってくる。
受験する本人にそう言われてしまうと、こちらはこれ以上強く言えないので、黙るしかない。
「息抜きなら、誰かとカラオケとか行けばいいじゃん」
「べつに俺カラオケな気分じゃねーもん。翠とならいいけど」
「……僕、カラオケはちょっと……」
「だろ? じゃ、なんか駅前で食って帰らねえ?」
「あ、うん……」
最初こそ、作戦の延長上というか、ついうっかり二人だけの時も肩を組んだりしてしまうのかな、と思っていたし、それだとぼろが出ないからなのかなとも思っていたのだけれど……それにしては、演技には見えない、リアルな言動なのだ。
「そういうの抜きにしても、俺は、翠ともっと一緒にいられたらいいんだけどさ」
後夜祭のあの夜の言葉が、こういう振る舞いをされると脳内を渦巻く。あの言葉に込められた意味って、どういう事だろう。それに真意があったとして――僕は、それをそのまま捉えたり受け取ってしまっていいんだろうか?
(永和の言葉の真意……って、言っていた言葉の通りの意味じゃないってことになるのかな?)
永和は誰かを欺くようなことを言ったり、したりするようなやつじゃないと思っているし、実際そうだろう。裏表のない性格だからこそ、みんな慕っているんだろうし。
だとしたら、永和のこういう言動を、やっぱり僕は、額面通りの捉えていいということに――
「翠、帰りって言わないでさ、このままサボらない?」
「え? いま?!」
いたずらっぽく笑う永和の目に、驚きを隠せない僕が映し出される。これじゃあどちらが入試を間近に控えているのかわからないくらいに、余裕のある態度が違う。いいのかな? と、問うような眼差しを向ける僕に、永和は大事ないと言うようにうなずく。それだけでもう賛同を意味するのが、僕らの関係だ。
そうと決まれば、僕らは顔を見合わせ、そのまま教室に向かう。
「あれ? 永和帰るの?」
「うん、ちょっと用事ー」
永和がクラスメイトと話している隙に、僕が鞄を抱えて素早く教室を出ていく。案の定、モブだから誰も僕が出ていったことに気付いていない。
僕が教室にいるかいないかに誰も気づかないのはいつものことで、出席を飛ばされることだってざらだ。
そういうのは別に構わない。ああ、またか……という諦めの気持ち以上のものが湧くことはないから。
でも、今日は違う。存在を無視される退屈な日常から、好きな人と抜け出す特別なひと時が待っている。
「お、来たな、翠。悪い奴だなー、サボるなんて」
「永和だって、そうじゃんか」
校門を出てすぐの角を曲がると、僕を誘った彼が嬉しそうに笑って出迎えてくれた。あの人懐っこい、大好きだと認めざるを得ない笑顔だ。これをいまから僕がひとり占めできる。こんなことがあるなんて夢みたいだ。
もうそこまで永和と親密になっているんだ。そして何より、永和を僕が占領できるのが確定しているのも同然の状況そのものが嬉しくて仕方ない。
「翠って案外思いきりがいいよな、見た目に寄らず」
「見た目に寄らず、は余計だよ」
「だって、翠って真面目でこういうことしなさそうなんだもん」
「そりゃまあ、サボるなんて今日が初めてだけど……」
「マジか! じゃあ、俺が何か奢ってやるよ」
「え、べつにいいよ、そんな……」
サボることを祝われるなんて、気恥しいし大袈裟だと思ったから苦笑していたら、永和は大まじめな顔をしてこう言って立ち止まった。
「よくない。真面目な翠が新たな世界に踏み込んだ記念なんだから」
しかも俺と! とそうニッと笑い、またトイレでした時のように肩を組んでくる。なんだか永和の方が僕のサボりにはしゃいでいるようで、おかしくなってくる。
「記念、って……本当に永和は大袈裟だよ」
だから、つい、くすっとそう笑ってしまったら、永和がいよいよ嬉しそうに頬を寄せるように近づいてくる。永和のよく日に焼けた肌や、その割にシミとかそばかすとかがないところまで目の当たりにして、急激に鼓動が速くなっていく。
顔を反らしたらヘンかな、でも、じっと見ていてもおかしいよね……そんな葛藤が脳内を駆け巡りながらも、永和と僕はゆっくり肩を組んだまま歩いて行く。
どこに何を食べに行こうか、と話をしながら永和とそうして歩いて行きながら、不意に、永和が小さな声で呟くのが聞こえた。
「――ずっとこのまま、一緒ならいいのにな、マジで」
聞き間違えかと思うほど、僕が永和と過ごすたびに願ってしまう、ウトへの願いとは矛盾している言葉に、心臓が跳ねあがるほど驚いた。まさか、そんなことを彼が口にするなんて、。
言葉の真意をどこまで推し測っていいんだろう。どこまで期待していいんだろう。
だけど、期待して、それが嘘だったら――脳裏に過ぎる考えに、足が止まりそうになる。充分にありうることなのに、信じたくない図々しい想いもあって、慌てて首を横に振って打ち消す。期待するな、そんなことなんてない……そう、自ら悦びを叩き潰していく苦しみ。荷が生きん持ちが顔に出てしまわないように、ぐっと堪えないと。
そうしないと、きっと永和が心配するだろうから、振り払うように歩き続ける。まるで、当たり前のようにいままでずっとそうしてきたように。




