*1 突然の知らせ、思い出した後悔
大学を出て二年。卒業と同時に就職できたのはよかったけれど、それだけで人生が安泰するほど世の中は甘くない。
「あー……疲れた……やっと週末か……」
溜め息交じりに終電に乗り、身を引きずるようにして自宅マンションに寝に帰るだけの日々を送って二年。くたびれたスーツを脱ぎ、ネクタイをゆるめながら部屋に入っていく。
元々大した取り柄がないので、兎に角正社員にありつければいい、とだけ考えて就職したのがいまの食品会社の営業職だった。コミュニケーション能力が高いわけでも、自分の容を武器にできるほどイケメンでもなく、運動部張りの体力があるわけでもないのに、ただ普通免許だけを引っ提げて就いてしまったのが運の尽きと言える。
おまけに……と、濡れた裸体をタオルで拭きながら、洗面所の鏡に映し出された貧相に痩せた身体を見て溜め息をつく。それから、その上に鎮座する、とても二十五歳には見えない、幼さの残る黒目勝ちな目許に、井地度も染めたことがない青みがかったマッシュヘアーの良くも悪くも幼い顔立ちの自分自身の姿に嫌気がさす。
今日もまた、この顔立ちのせいで飛び込み営業した会社から信頼が得られず、相手にもされなかったのだ。
「今月のノルマ、ヤバいなぁ……あと三件は契約取らなきゃなのに」
週明けのミーティングがいまから憂鬱で仕方ない……と、どんよりとした気分で着替えを取りに風呂場を出て、ベッドの上に放り出していたスマホを手に取る。
画面を見ると、いまどき珍しく、キャリアメールが届いている。メッセージアプリ経由でなく連絡してくる相手なんて、もうほとんど思いつかない。
「誰だろ……なんか詐欺メールみたいなのかな」
メールのタイトルは、『至急連絡をくれ』とあって、なんだか穏やかではない。
普段であればメールを開くことなく削除するのだけれど、差し出してきた相手がスマホのアドレス帳に登録していた、だけどもう何年も連絡を取っていない地元の同級生からだったので、つい、開いてしまった。
メールを開いた瞬間僕の目に飛び込んできたのは、詐欺まがいの文章ではなく、もっと衝撃的な内容だった。
『永和って憶えてる? 鳩羽永和。あいつ、一昨日亡くなったんだって。通夜が明日で、告別式が――』
鳩羽永和。その名前を目にした瞬間、僕の目の前に七年前の高校の教室の光景がよみがえる。
男女問わずいつもクラスメイトに囲まれていて、人懐っこそうな笑みで愛想がよかった彼。僕と同じように細い体つきだったはずなのに、半袖のポロシャツから延びる腕は程よく日に焼けていて薄く筋肉がついていた。
永和と言葉を交わしたのはたぶん数回程度で、挨拶だって交わしていたか記憶が怪しい。でも、彼は他のスクールカースト上位の連中のように、モブな僕をバカにすることはなかった。挨拶をすれば返してくれたし、世間話程度しかしていないけれど、それでも好印象を崩さない、裏表のない人物だったと記憶している。
とは言え、たった数回の会話程度で? と、思われるのも無理はない。それだけで彼のすべてを僕が知っていたわけではないのも確かなのだから、美化している可能性だってある。
それでも僕がそれだけの関わりしかなかったクラスメイトの訃報を受け、立ち上がれないほどショックを受けているのは――僕が、彼のことを好きだったからだ。もちろんこれは、僕以外誰も知らない。
メールには葬儀の場所と日時が書かれていたけれど、僕はまともに読み返すこともできない。返事をしなくてはと思っているのに、スマホを握りしめたままうずくまって出来ないのだ。画面にはあとからあとから涙が降り注ぎ、メール画面をにじませていく。
笑うと、永和の目はサインペンでひいたみたいに線のようになった。永和は、いつもその線になる目で笑っている姿しか、僕は憶えていない。
――いや、違う。一度だけ、いつも線になっている目が大きく見開かれていたことがあった。それは、何故か真っ直ぐに僕に向けられていたんだ。
「……なんで、そんなことを思い出したんだ? 僕は別に、あいつとはそんなに仲良くは……」
そう、僕らは特に仲良くはなかったはずだ。永和はスクールカーストで言うならトップクラスの陽キャで、僕は最下層にも入れないモブ生徒だったのだから、仲良くなんてありえない。
だけどなんで、永和のそんな姿が……そう考えていたら、スマホが震えだした。着信は実家の母親からで、僕は涙をぬぐいながらそれに出る。
『翠? 鳩羽君って憶えてる?』
「ああ、うん……亡くなったんでしょ? いま、高校のやつから連絡来た」
『そうなの……なんかね、ウチにも連絡来てね、母さんお通夜に行ってきたんだけど、あんたは帰って来られない?』
ようやく迎えた、貴重な週末の休み。たいして仲良くもなかった同級生の葬儀に出るために何時間もかけて帰省する時間へと費やすのかと思うと、普段なら二の足を踏んでしまうだろう。母親が通夜に出てくれたのなら、それで面目も立つ気がするし。
でも、僕は断りの理由を述べようと開きかけた口で、まったく逆の言葉を放っていた。
「いまから帰るよ。高速バスなら夜明けにはそっち着くと思うし」
母親としても、まさか普段人づきあいが悪い僕がそんなことを言い出すとは思っていなかったのか、電話口で驚いた様子だったけれど、不義理をしない息子に安堵したらしく、「じゃあ、着いたら連絡してね」と言って電話を終えた。
話を終えて静かになったスマホを手に、もう一度先程のメールを読み返す。やはり、永和の死は現実のようで、僕は別れを告げに行かないといけない。
ようやくの思いで立ち上がり、僕は寝室のクローゼットを開ける。喪服用に買っておいたスーツ、それから黒いネクタイを準備するためだ。
クローゼットを漁りながら脳裏に過ぎるのは、七年前と同じ、糸目の永和の笑顔、そして、見開かれて僕を見つめてくる真剣な表情。
何故そんな表情を思い出すのか、そんな顔をされたのかがわからない。記憶のどこにもそのヒントは見当たらない。
だけど、もう会えないんだ……それがようやく頭に浮かんだ途端、どうして先ほど立ち上がれないほどショックを受けていたのか、その根本を思い出したのだ。
「――もう、永和に好きって言えないんだ……」
覆りようのない現実が突然降って来て、目を反らしていた過去と向き合わされる。
苦しい。でも僕は、好きだった人へ別れを告げに行く準備を始めるしかなかった。
シャワーを浴びた直後に、ほぼ着の身着のまま、喪服だけを手に僕はとりあえず地元へ向かう最終の高速バスへ飛び乗る。
僕の地元は東海地方と近畿地方の狭間にある小さな町で、僕と永和はそこにある良くも悪くもごくありふれた高校で同級生だった。
卒業をして今年で七年。卒業以来、僕は二十歳の集いの頃に開かれた同窓会にも出席しなかったから、永和とは一度も会わないままだった。だから、彼が卒業後どうしていたのかも知らない。記憶が確かなら、地元の大学に進学したはずだ。
(普通に行っていたら、たぶん、どこかに就職とかしていただろうし……もしかしたら、結婚とか……)
それなら、葬儀会場には遺族……配偶者となった女性とか、その人との子どもとかいたりするんだろうか――ふいに過ぎった想像に、余計に気分が重くなっていく。
こんな想いをするぐらいなら、ちゃんとあの頃好きだと伝えて、フラれるならきちんとフラれておけばよかった。もう会えなくなるのがわかっていたなら、絶対そうしていたし、そうしていたなら、こんなに苦しくなることだってなかったはずなのに。次々に浮かぶ後悔は、夜の闇の中に溶けていく。
それでも、溶け切れない感情が胸の奥にわだかまっているのは――やはり、伝えきれなかった想いなんだろうか。
「嘘だろ、夢じゃないのかよ……」
僕の行き場のない呟きは、バスのエンジン音に紛れて見えなくなっていった。