DAY
柔らかな緑の原っぱに、五月の陽がさしている。かすかに残った朝露がきらり光り、靴元で弾け、風がさっと通る。その先にはロングの黒髪と白の半袖シャツと藍のジーンズの駒沢さん。ゆらゆら揺れるように、でも意外なスピードで。こちらが肩で息をし立ち止まったのを察すると、くるり面長の顔を振り向かせ、細く愛らしい目でニカリとし。
「ほらほら、しっかり」
相変わらず栗鼠っぽい声だなと思う。言うと怒られそうだけど。
「そう急がなくても、メロンソーダは逃げないよ」
駒沢さんは大げさに表情を崩して、
「んんっ! そういうんじゃなくて」
二人とも息が弾んでいる。雲が一つ、少しだけの影を作った。
「わかってるよ、わかってる」
「うん」
「しっかりしなくちゃ、な」
「うん、しっかり」
先には大きな青い空と、ぽつぽつ白い雲、それにクジラの飛行船。
*
草に埋もれて軽トラが一つ。その前に草原にぽつりテーブルと椅子。ふくよかなオバサンが上品そうにお茶を嗜んでいる。
駒沢さんはジーンズのポケットから紙切れを取りだし、笑いかける。
「はじめまして、こんにちわ」
おばさんは
「どうも、こんにちわ」
と言って大きな虫眼鏡のようなルーペで、紙切れをチェックする。
「ごめんなさいね……あなたのような子が騙すなんて思ってないんだけど、最近ね、多いから、なんというか」
「わかります、良いとこですもんね。東って」
「いいところよ。東は。人も自然も柔らかくて。東のおうどんは出汁が効いてて、美味しいし。お寺が意外と多いのもオススメポイントね。大丈夫よ、心配しないで。きちりとしたお客さんは、きちりとお届けしないとね。それが本社のモットーだから」
おばさんは頬を柔らかくにこりとして
「うん、オーケーオーケー、こまざわのぞみさんね。よい旅を。隣の方はお付き添い?」
少し考え事をしていたので、びくりとしてしまい
「はっ、はい」
と半音高く緊張気味に返事をしてしまった。
「気球船は日没にここを発つから、少しだけね、船内にいられるのは。ちょっとだけだけど楽しんで。あなたも何時か東に行けると良いわね」
生返事でうなずく寸前で引き返して、少し顔を上げて返事する。
「いえ、僕は南に行こうと思ってます。なんか良くわかんないけど、僕じゃ東へは行けないみたいです」
思いきってみたが、駒沢さんは何も言わない。笑いも怒りもしないのが、却って不気味だ。
「あらら、ふられちゃったわね、お嬢さん」
しばらくの間、僕がドラマみたいな展開を少しだけ夢見れるだけの間の後、しかし。
「そうみたいですー」
と駒沢さんはあっけらかんに笑った。
*
おばさんは、車一台ほどもある長っ細いゴムの袋を取り出し、ゴム口を開け、そこから機械でガスを送り込む。
「ガスでね、なになにガスというかは忘れたわ。でも、東でびっくりするくらい一杯採れてね。さて……。注意点1、こちらから絶対にドアを開けないこと、注意点2、酔い止めの薬は今のうちに飲んでおくこと」
駒沢さんとトイレを済ました僕は、茶のゴム製のUFOみたいな船に乗り込んだ。足元のビニールみたいな窓からは徐々に遠く広がっていく草原。軽く手を振っているオバサンはぽつりと一つの点になっていく。
そして僕と駒沢さんはゴムの車船の中で、それが意外と狭くて、もう少しでふれあうような近さで向かい合うことになってしまった。
駒沢さんからは少し甘い香り。はじめてかぐ香水の香り。身体を折り曲げて僕から距離を取ろうとし、でも出来ずに、目線があちらこちらに飛んで、こちらから見てもぜんぜん落ち着いてない。それが可愛らしく、なんならギュッと抱きしめてしまおうか。そう少し思って手を動かしたのだが、思ったよりもびくっと駒沢さんに反応されてしまいなんとなく止めてしまった。仕方なく頭をぽりぽりかく。それから、こちらから切り出さねばと思い、思い切って口にする。
「ごめんな、東に行けなくて」
「なんで黙ってたの」
「なんというかさ、楽しく遊んで過ごして、楽しくさよならして、それで良いかなって」
「そういうのは優しさとは言わない」
「なんとなくさぁ、俺、東には行けないって分かってただろ?」
「分からないわよ。きみ、いつもニコニコしてるから」
「分かってくれよぉ」
「ううん、分からない」
「じゃあさ、うん、そうだ、お詫びのビンタしてくれよ。ビシっとさ。きっとそれで気分済むから」
「分かんない」
「ほら、ここ、ここに、思い切って」
僕は頬を差し出し、人差し指でつんつんと指す。
ぴしっ。
と芯を外した左のビンタ。ははは、すっきりしたかい? と言おうとする間もなく
びしゃっ!
と右手で思いっきりビンタ、いや平手打ちをされてしまった。顔が流されるような可愛くない一撃に驚き、次いで文句を言おうとしたらこれまた言う間もなく。
頭突きが飛んできた。と思ったら、駒沢さんの小さな顔は僕の肩に埋められ、ひしっと抱きつかれ、
「バカッ」
とののしられる。それから「嘘つき、根性なし、ダメ人間、優柔不断、いいかっこしい、ヘタレ、バカ、もうっ、嘘つき」
隠さない涙声でそれらがループして発せられる。僕は何も言えず、そっと駒沢さんの肩に手を置き、ぽんぽんと叩いていた。
がたんと揺れて、空に浮かび続けたゴム車船は軌道を変えた。駒沢さんはふと我に返ったのか、僕から手を放し、思いっきり驚いた顔をした。
「大丈夫だよ、きっと着いたんだ」
「大丈夫よ! 分かってるわよ!」
訳の分かんない返事だ。もう少し二人の時間があっても良かったなと思うのだが、思い通りにいかないのが世の中だ。後悔はない。
揺れが収まり、動きが収まり、ゴム船が固定されたと思ったら、ドアをノックする音がした。なので、こちらからゴムのドアを開こうとした。でも、開かない。
「ああ、しまった、鍵を開けるの忘れてた」
というお兄さんの声がし、がちゃがちゃした後、ドアが開いた。あのオバサン、鍵をつけるなら「絶対にこちらからドアを開けるな」なんて言わなくても良さそうなものだが、それも含めて優しさなのだろう。絶対に降りられない空の下でも、密室に鍵を閉められ閉じ込められる、と知っていたら、気分は暗かったろう。あんなこともなかったろう。そう思えば、感謝だ。
なんて思っていると、駒沢さんが「早くどいて」なんて口を尖らせ、とんとゴム車船から飛び出した。
「こりゃ、驚いた、べっぴんさんだ」
なんてさっきのお兄さんが冗談っぽいニュアンスで口にする。でも、半分本気なのはなんとなく僕には分かる。
ドアから出ると、警備員のようなバイトのようなお兄さんが一人。バックはただっぴろい倉庫のようなところでゴム車船がずらりと並び、それを運んだだろうラジコンを大きくしたような一人乗りのプロペラ機がずらり。
ゴム車船でふわふわと空に浮かび、それを上空のプロペラ機がジョイントし回収。そんで巨大クジラ飛行船に搭乗というわけなのだ。たぶん。
しばらく、飛行船搭乗口に並ぶプロペラ機のメカメカしい姿に見入っていたが、駒沢さんは今度は何も突っ込まなかった。一緒に見入っているんだろうなとそちらを向くと、こっちを見ていた駒沢さんとふと目が合ってしまった。気のせいよ、という風に、駒沢さんはさっと目を逸らしたが、どぎまぎする。
*
布張りのような、意外とふわふわせずにしっかりした気球船の足底の感覚を味わいながら、待ち合いルームに行く。
普通なら、東へ行く人とそこで別れる人は、飛行船に乗る前でさよならをすれば良いのだろう。だが、別れの寂しさや惜しむ思いは普通を乗り越える。だから、このようにお別れをするまでしばらく共に過ごす空間が飛行船内に作られたのだろう。なんて勝手な想像だが、そう思う。
待合ルームは広く、中心に白いテーブルが何十と並び、その周りには土産物屋や軽食屋が取り囲んでいる。
静かな落ち着いた色調の中、それでも別れていく人達は、必要以上に賑やかに笑っている。
僕らも笑っている。
「どう? 美味しい?」
「空のバイキングハンバーグ定食というけど、普通のハンバーグ。80点」
少し焦げたハンバーグにはケチャップソースが申し訳程度にかけられている。付け合わせにニンジンとポテトとブロッコリー。ザ・普通だ。
「それなら、そこそこ美味しいってことね。ひとくち、ちょうだい」
食い意地の張った駒沢さんの行動を先読みして、あらかじめ取っておいたハンバーグのひとかけをナイフで渡す。
「ねぇ、これからどうなると思う?」
駒沢さんは頬杖をつき尋ねる。傍らにはスカイメロンソーダ。本物のメロンの果肉が入っているらしい。
「きっと、いっぱい、いっぱい、楽しいことがあるよ」
「ううん。わたし、今までいっぱい楽しいことがあったよ。数えきれないくらい」
僕はちょっと嬉しく。
「そうだねぇ、いっぱいあった」
駒沢さんも笑って。
「うん。楽しいことばっかだったね。今思えば辛いことも退屈な時も、楽しいことだった」
「うん、駒沢さんとは楽しい時間を過ごした」
「わたしも楽しかったよ」
「そうだね」
「これからは、二人じゃ、無理なんだね」
「うん、そうだね」
「そっか」
「そう」
魔法瓶に紅茶を詰めて、駒沢さんのサンドイッチでお花見したこと。秋の落ち葉の公園で、二人何も言わずそれぞれ同じ本を繰って、どちらが先に読み終えるか競走したこと。
「ねぇ、覚えてる? 去年の冬」
「うん、珍しく正月に雪が降った」
「珍しいよね、ここでは。何年振りだっけ」
「まだ老猫が生きてた頃だったから、5年ぐらい前かな? 東なら珍しくないんだろうね」
「うん、いっぱい降るって言ってた。雪かき大変だろうな」
「そしたら、カマクラ作れるね」
「カマクラかぁ、良く覚えてたね。わたしの言ったこと」
「駒沢さん、サンタクロースを見るような眼で言ってたじゃない。おっきなカマクラ作って、そこに火鉢を入れて、お餅を食べて、わいわいするのが夢だって」
「そうだねぇ、歌とか歌ったりしてね」
「きっと出来るよ」
「ねぇ」
「うん?」
「最後まで『駒沢さん』なんだね」
「何が?」
「呼び名」
「うーん」
「コマちゃんでも、のぞみちゃんでも、もっと親しい呼び方あっただろうに」
「いやー、駒沢さんは駒沢さんだから」
「なんだかなー」
「それじゃあ、のぞみ……」
「なっ!」
「ははっ……照れてやんの」
「もうっ」
「ははは」
「最後の最後に卑怯だよ」
「きっといいことあるよ」
「そうかな。大変だと思うけど」
「それでも雪は降るよ。ちらちら、ゆらゆら雪が降り積もって、朝になると地面一杯光ってるんだ。朝の日を反射してきらきら。駒沢さんはわって言ってサンダルで駆け出す。誰の足跡もついてない生まれたての雪を愛おしむようにぎゅっぎゅって踏みしめる」
「そんでカマクラを作るのね」
「そう。友達を呼んで一緒に。みんな笑って、あわてんぼうのサンタクロースを歌う」
「でも、きっと寒いだろうなぁ」
「そんなことがあったら僕を思い出して」
「思い出さないわよ」
「そんな殺生な」
「うそ」
「わかってる」
「いつでも覚えてる」
「思い出さなくていい。古びてもいい。でもどっかにしまっといてね」
「一番大切なところにしまっておくわ」
「はは」
「はは」
「なんかお別れムードになっちゃったな」
「まだ一時間くらい残ってるのにね」
「ははは、なかなかドラマみたいに行かないか」
「そうだ、また猫、飼いなよ。わたし、いなくなると寂しくなるよ」
「そしたら『駒沢さん』って名前つけるよ」
「恥ずかしいから止めて!」
「ははっ、うそ」




