狂気ふたたび
「夏目漱石が修善寺で重態に陥っている」
との情報が世間に伝わると、多くの関係者が漱石を見舞いに来てくれました。また、多大な援助をしてくれました。文名の功徳です。修善寺の人々も漱石のために尽くしてくれました。
漱石が修善寺を離れたのは十月十一日です。漱石は、修善寺の人たちが造ってくれた寝台に横たわり、馬車と電車を乗り継いで東京の胃腸病院に入院することができました。漱石の病室を整理整頓した鏡子は言いました。
「これから家に帰ります」
漱石は意外な言葉を口にします。
「そうか、どうもいろいろありがとう」
漱石の体力が回復するにつれ、漱石はワガママになりました。食事にケチをつけるだけでなく、散歩のついでに医学書を買ってきて読み込み、医師の診断にケチをつけました。さらに、漱石は病床で文章を書き始めました。周囲は「まだ早い」と止めましたが、漱石は書きました。とはいえ、かつてのような馬力はもうありません。
漱石は人変わりしました。焦燥感が消え、とても穏やかで人なつこくなりました。鏡子に対する態度も大きく変わりました。漱石が退院したのは明治四十四年二月です。修善寺で倒れてからおよそ半年の闘病生活でした。
大病後の二年間、漱石はごく少数の作品しか発表できませんでした。その理由は、身体の具合が必ずしもよくなかったからです。体力がなければ小説は書けません。胃病に加えて痔が悪くなり、手術をしました。また、以前から咽喉の具合も芳しくありませんでした。消化器系全般が弱かったようです。
しかしながら、これと反比例するように神経衰弱がおさまり、漱石は穏やかな父親となりました。子供たちがはしゃいで大騒ぎしてもニコニコ笑って見ており、いっしょになって遊ぶこともありました。夏目家に平和がもどりました。漱石は子供たちと無邪気に過ごす優しい父親として二年間を過ごします。
この間、末子の雛子が頓死するという不幸がありました。明治四十四年十一月のことです。漱石も鏡子も哀しみのあまり茫然としました。
「子供に逝かれるというものは嫌なもんだなあ」
漱石は鏡子に言いました。
大正元年の十二月、漱石の顔が妙にテラテラと赤く火照っていることに鏡子は気づきました。
(まさか)
鏡子は警戒して漱石の様子を見ていました。年内は何事もありませんでしたが、年明け早々、悪夢が始まりました。
「そんなことは言わないでくれ」
漱石が唐突に女中のひとりに言います。
「はあ?なにも申しておりませんが」
女中が答えると、漱石は怪訝な顔をして黙りました。しばらくしてから、こんどは鏡子に訴えます。
「女中にあんなこと言わせちゃ困るよ」
(ついにきた)
漱石の妄想が始まったのです。鏡子は女中と子供たちに注意しました。
「あんまりべちゃくちゃとおしゃべりしてはいけないよ」
漱石の妄想は耳から始まります。人の声が悪口や陰口に聞こえるのです。そうはいっても、女中はともかく、子供たちは何かの拍子にしゃべったり、笑ったりします。すると漱石が怒鳴ります。ときには子供を呼びつけて厳しく叱ります。漱石は、自分が悪口を言われている、自分が笑われていると妄想しているのです。しかし、叱られる子供には理由がまったくわかりません。ただ怖いだけです。
やがて子供たちも静かにするようになりました。賑やかだった夏目家はひっそりと静まりかえりました。家族も女中もできるだけ物音を立てないように何をするにもソッと動きます。漱石はといえば、全神経を集中して聞き耳を立てており、わずかな物音にも反応して「こらっ」と怒鳴ります。まるで音を立てたら負けのゲームをしているみたいです。しかし、ゲームならば楽しいのですが、漱石が妄想にとらわれているため、夏目家は恐怖に縛られました。
「女中がしきりにオレの悪口を言っているが、どうして放っておくんだ。お前が言わせているんだろう」
漱石は鏡子を責めます。鏡子は、なるべく相手にならず、受け流すようにします。言い合いをしても無駄だからです。しかし、漱石は容赦しません。
「そうやってオレひとりにしゃべらせて、オレをバカにしているんだろう」
漱石はカンカンに怒ります。まったく手がつけられません。
その頃、夏目家に電話が引かれたばかりでしたが、この電話の呼び出し音が漱石を刺戟しました。電話が鳴ると漱石は電話口に出て、電話の相手に説教を喰らわせます。
「なんの用だ。ひとの妻君を気安く呼び出すな」
寒い頃のことで女中のひとりがノド風邪をひき、かすれ声を出していました。すると漱石が問い詰めます。
「なぜ、そんな声をしている」
「はい、ちょっとノドを痛めまして」
「ほんとうか?ためしに大きな声を出してみろ」
「はあ、はい。あーっ」
「何だ。声が出るじゃないか。出るのになぜ出さないか。キサマは嘘をついている。小細工をするな。けしからん」
女中にしてみれば、理不尽な叱責です。まったく理解できません。しかし、漱石は大まじめです。まじめという以上に、まるで親の敵を見つけたかのような激情の顔色で女中をねめつけます。