胃病
泥棒のほかにも招かざる客がいました。漱石の文名を聞きつけて、かつての養父塩原昌之助の代理人が夏目家を訪ねてきました。幼少期の漱石は、塩原を実父と信じていました。漱石は可愛がられて育ちました。しかし、この塩原老人の浮気から運命が暗転します。幼かった漱石の眼前で夫婦喧嘩の修羅場がくり返されたのです。
「塩原昌之助の代理の者です」
漱石のトラウマは大いに刺戟されたはずですが、目の前に居るのは代理人でしたので、漱石は平静を保ちました。
「養子にかえってほしいと言っています」
代理人は塩原の希望を口にしました。無理な注文です。漱石は逆上することなく応答します。
「いまでこそ手が切れておりますが、昔の関係もあることですから、ご希望とあらば、おつきあいはいたします。しかし、いまはとても忙しい体になりましたから、いらっしゃるたびにおあいそをしているわけにはいかないかも知れません。それでもよろしければ」
その後、ずいぶんしてから塩原昌之助老人と代理人が訪ねてきました。漱石は対面し、昔話につきあいました。漱石の心中はよほど波風が立っていたと想像されますが、冷静に応対して別れました。
漱石の神経衰弱が緩解したことを鏡子は喜んでいましたが、「頭の病気」と反比例するように、明治四十年九月頃から漱石は胃の調子を悪くしました。漱石は胃が痛むたびに胃薬を飲んでしのいでいました。漱石が胃の痛みに耐えてジッとしている姿を鏡子は頻繁に見かけます。たまりかねた鏡子は医師の診断を受けるよう漱石に勧めました。
「癌になったりするといけませんから、お医者の診断を受けてください」
しかし、漱石は剛情です。
「癌になったらなったでしかたないじゃないか」
明治四十三年三月、鏡子は五女雛子を出産しました。鏡子は生涯で二男五女と七人の子を産みました。この時代にあっては珍しいことではありません。とはいえ、たいへんな苦労だったに違いありません。
漱石が胃腸病院で診断を受けたのは明治四十三年六月です。診断は「胃潰瘍だろう」ということでした。念のためにひと月ほど入院したところ具合が良くなりました。漱石は七月末に退院することができました。
ちょうどその頃、修善寺温泉に滞在している友人から「来ないか」と誘われた漱石は、温泉療養のため出かけることにしました。念のために胃腸病院で診察を受け、「旅行しても大丈夫」との診断をもらい、安心して出かけました。しかし、これがよくありませんでした。漱石は修善寺で寝たきりになってしまいます。旅行前に「旅行してもさしつかえなし」と診断していた胃腸病院は責任を感じ、医師を修善寺へ向かわせました。
鏡子には、修善寺にいる漱石の様子がわかりません。気を揉んだ鏡子は、ご近所に電話を借りて旅館に電話をしました。すると電話に漱石が出ましたので、まずは安心しました。その後、電報で問い合わせると、「来るに及ばず」との返電がありました。
悪いことに関東地方は連日の大雨で洪水が発生し、電車が不通になりました。鏡子は、子供たちを海水浴のため茅ヶ崎に行かせていたので、むしろ子供たちの安否が心配でした。また、鏡子の妹弟が洪水に巻き込まれたとの連絡も届いていました。災難が一度にふりかかってきたような状況です。
電車の開通を待って、鏡子は子供たちのいる茅ヶ崎へ向かいました。すると、追いかけるように電報が来て「修善寺へ急行せよ」とのことです。鏡子が修善寺に到着したのは翌日でした。
漱石は吐血を繰り返し、血便も出ているとのことでした。鏡子が枕頭に座ったとき、漱石の顔面は蒼白でした。
八月二十四日、この日も漱石は顔面蒼白です。食べ物はほとんど喉を通りません。午後の診察を終えた医師たちは自室へもどり、部屋には漱石と鏡子だけが残りました。漱石がつらそうな顔をしているので鏡子が声をかけます。
「気持ち悪いですか」
「あっちへいっててくれ」
と言った途端に漱石は激しくえずきました。
「ゲエーッ」
漱石の様子が尋常ではありません。漱石はいつになく目をつり上げた顔をして起き上がり、鼻血を垂らしながら鏡子にしがみつき、「ゲエ」とえずきます。鏡子は、通りかかった番頭に依頼して医師を呼ばせます。が、間に合わず、漱石は鏡子につかまったまま、おびただしい血を吐きました。鏡子は、全身に吐血を浴びながら漱石を寝かしつけました。医師たちが駆けつけたとき、漱石の脈がなくなっていました。医師たちはカンフル注射と食塩注射で蘇生を試み、なんとか命をつなぎ止めました。しかし、漱石はまったく動けない状態です。医師は鏡子に言いました。
「大喀血がもう一度あったら、絶望です」
幸い漱石の吐血はおさまり、時間の経過とともに快方に向かいました。なにも食べられなかった漱石は、葛根湯、重湯、オートミール、刺身、お粥と徐々に食べられるようになりました。元気になるにつれ、漱石は空腹を盛んに訴えます。しかし、医師は食事を制限しました。これがもとで漱石と医師のあいだで喧嘩になりました。さらに、本が読みたい、新聞が読みたいと漱石はワガママを言いました。
ワガママには困ったものの、漱石が元気になったので鏡子はいったん東京に戻ろうと考えました。なにしろ家のことをほったらかしにして、すでに一ヶ月です。鏡子がそれを言うと、漱石はダメだと言います。
「おまえに帰られちゃ困る」
このあたり、漱石は駄々っ子です。つっけんどんにするくせに鏡子に頼りきっているのです。こうした男のワガママを許すのが、この時代の婦人道だったようです。鏡子はそのまま修善寺に残りました。しかし、家のことが気になってしかたなく、不眠症になりました。