嵐の前
学業優秀だった夏目漱石は、一高、東大というエリートコースに進みます。毒親育ちのひとには努力家が多く、成功する人が少なくありません。ただ、その努力のしかたには特徴があります。何かに追い立てられるように強迫的に努力するのです。自分がやりたいからやるというよりも、何者かにやらされているのです。疲れていても体調が悪くても休もうとせず、そういうときこそ反動形成的にがんばろうとします。そして、成功者のまま生涯を終える人もいますが、多くは折れる時を迎えます。
とはいえ漱石は青春を謳歌したようです。多くの友人に恵まれ、下宿生活を楽しみました。淡い片思いも経験したようです。
漱石が文学への志をかためたのは一高から東大へ進む頃だったようです。漱石の親友だった米山保太郎が問いました。
「将来、何になって社会に立つつもりだい」
「工科へ入って建築をやって、大いに金をとろうと思う」
漱石は建築に興味を持っていたようです。すると、米山は色をなして忠言します。
「ばかな、この貧乏国で、どれだけ立派な建築が出来ると思うか。どんなに腕をふるってみてもセントポール大聖堂みたいなものを後世に残すことはできない。それよりか文学をやって傑作を後々に残せ」
しばらくして漱石は父の直克から今後の進路を問われました。
「おまえ学問をするって、いったい何をやるんだ」
「文学をやります」
「なに、軍学をやる?」
直克はすでに老齢でしたから、聞き間違えたとしても無理はないのですが、漱石はすっかり腐り、人に言い言いしました。
「このとおりの分からず屋だからイヤになっちまう」
語学に堪能だった漱石は大学時代に方丈記を英訳するなど、文学的才能を萌芽させました。大学卒業後は英語教師として松山、熊本へ赴任します。小説「坊っちゃん」に描かれたような溌剌とした漱石がそこにいたように思われます。後に胃病で苦しむ漱石ですが、若いうちはむしろ健啖家でした。眼病にかかったりもしましたが、健康状態はおおむね良好で、器械体操が得意でした。漱石の若い心身は、幼い頃に植え付けられた心身の過緊張に耐えていました。
気になる挿話は、鎌倉での参禅です。漱石は悟りを開くどころか、かえって神経を病ませてしまいます。のちに漱石は、このことを小説にも書いており、心中、なにかしら深い悩みを抱えていたようです。おそらく、その悩みの正体をつかめないまま悟りを諦めたようです。
明治二十八年十二月、漱石は見合いをします。相手は、貴族院書記官長中根重一の長女鏡子です。中根重一は娘の結婚相手を物色するうち、すこぶる評判の良い青年を探し当てました。それが漱石でした。漱石と鏡子は婚約し、翌年六月に結婚します。漱石は二十九才、鏡子は十九才でした。
新婚生活は、不幸にも鏡子が流産したほかは、おおむね円満だったようです。お嬢様育ちの鏡子は家事に不慣れで、戸惑うことがたくさんありました。漱石は、それなりの月給を得ていましたが、奨学金の返済や書籍代や実家への仕送りなどで出費がかさみ、家計は決して楽ではありませんでした。
興味深いのは鏡子の朝寝坊をめぐる夫婦間のやりとりです。漱石は鏡子に「朝寝坊を直せ」と言いました。言われた鏡子は素直に早起きを試みます。しかし、無理に早起きすると、なぜか頭が冴えず、頭痛さえし、かえってヘマばかりしてしまいます。それで鏡子はもとの朝寝坊に戻ります。
「なぜ朝寝坊を直さないのか」
問い詰める漱石に対して鏡子は言い返します。
「無理に直しても直るものじゃありません。それに早起きすると頭がボーッとして家事がはかどりません。わたしは朝寝坊をする方がいいんです」
これも一種の夫婦喧嘩なのでしょうが、むしろ微笑ましいのろけ話に類するものでしょう。
鏡子は明治三十一年秋に妊娠しました。つわりがひどく、食事さえとることができず、寝込んでしまいます。その鏡子を漱石は懇切に看病しました。漱石の俳句が残っています。
病妻の閨に灯ともし暮るる秋
翌年五月、無事に長女の筆子が生まれました。漱石は大いに可愛がります。抱いたり、ひざに乗せたりしてあやしました。しかし、筆子が泣き出すと、漱石がいかになだめても泣き止まないため、やむなく鏡子や女中に助けを求めました。
「もう十七年たつと、筆が十八になって、オレが五十になるんだ」
漱石の独り言を鏡子はいつしか覚えてしまいましたが、奇しくも漱石は五十才の時に亡くなります。が、それは後のことです。ともかく夏目家の夫婦関係は良好だったと言えそうです。
その夏、休み期間中に英語を習いたいと希望する学生がおり、ほぼ毎日、夏目家に通ってきました。漱石は無料で教えました。ただ、その教え方は苛烈でした。少しでも学生が間違えると頭ごなしに叱りつけ、怒鳴りつけます。漱石の怒号は家中に響きましたから、鏡子も女中も驚嘆しました。それでも学生は通い続けます。鏡子は、たまりかねて漱石に尋ねました。
「学校でもあんなふうにガミガミお叱りになるのですか」
「いや、学校じゃあんなに叱りゃしないさ」
「それにしても学生さんがあんまり気の毒じゃありませんか」
こんな会話を交わした翌日、漱石は学生に尋ねました。
「ボクがあまり君を叱るので、家内が君に同情しているんだが」
「ボクは平気です」
この時代の教え方は実に厳しかったようです。それが当たり前だったのです。
明治三十三年、夏目漱石は英国留学に旅立ちます。六月、文部省から留学を命ぜられ、七月、準備のために上京し、九月に横浜港を出帆しました。目的は英語研究であり、期間は二年の予定でした。官費留学はエリート青年の出世コースであり、そのことは誇らしくもあり、喜ばしいことのはずでした。
しかしながら、留学から帰国したとき、漱石は人変わりしていました。鏡子は、そんなことが起こるとは夢にも思っていません。