生い立ち
夏目漱石は、慶応三年一月、江戸牛込の名主の家に生まれました。父の直克はすでに五十四才でした。
「いい年をして、子をなした」
直克はむしろ恥じました。また、母の千枝も高齢で母乳が出ませんでした。そこで直克は、漱石を里子に出しました。その先は四谷の古道具屋です。こうしたことは当時としてはよくあることでした。翌年、漱石は新宿の名主である塩原昌之助の養子となります。子のなかった塩原夫婦は漱石を大切に育てました。もちろんですが、まだ嬰児だった漱石は何も知りません。漱石は塩原家の子として成長します。
不幸は三才の時に訪れます。漱石は疱瘡にかかってしまいます。激しい痒みに襲われて七転八倒しながら全身を掻きむしりました。医療水準の低かった当時としてはやむを得なかったでしょう。漱石は命をとりとめましたが、顔にあばたが残りました。
明治七年、幼少期の漱石に精神的な衝撃を与える事件が起こります。事件といっても世間にはよくあることです。塩原家の夫婦喧嘩です。夫の浮気が原因でした。夫婦は激しい喧嘩を漱石の目の前で一年あまりにわたって繰り返したあげく離婚します。漱石はまだ七才でした。
漱石は、塩原家の養父母を実の父母だと思っていましたから、この夫婦喧嘩は他人事ではありません。両親の喧嘩を見せられることは、幼児の心理にとって大きな負荷です。それは生死にかかわるほどの不安と恐怖です。なにしろ子供は親に頼らねば生きていけないのですから。
幼児には独特の心理傾向があります。幼児の心理は、大人の心理とは異なっています。たとえば、幼少期の子供たちは、すべての事象を自分に関連づけて理解する習性をもっています。雨が降ったとしましょう。すると幼児は妙なことを考えます。
(ぼくがイタズラをしたから雨が降ったんだ)
(ぼくが嘘をついたから雨が降ったんだ)
そんなふうに理解するのが幼児です。イタズラや嘘と天気のあいだには何の因果関係もありません。しかし、そこに因果律を感じてしまうのが幼児です。要するにまだ子供なのです。
こうした幼児の心性を大人はあざ笑うかも知れません。あるいは知ろうともしないでしょう。しかし、こうした大人の態度こそ毒親化の原因です。馬鹿にされ嘲笑されれば子供はますます傷つきます。
「そんなことはないよ」
そう言って、やさしく教え諭して幼児を安心させるのが良い親というものです。親の役割とは、幼児に安心と安全を与えることです。叱責したり、嘲笑したり、無関心だったり、強要することではありません。子供を喜ばせ、楽しませ、安心させ、恐がらせないことです。しかしながら、世の親たちは自分のことや仕事に手一杯で余裕がなく、ついつい無神経な言動をしてしまいます。塩原家の夫婦も漱石の目前で修羅場を何度も演じました。こうなると幼児は、夫婦喧嘩を自分に関連づけて考えてしまいます。
(自分のせいでお父さんとお母さんは喧嘩しているんだ)
結果、幼児の心中に自己否定の感情が生まれます。
(ボクなんか居なければいいんだ)
まだ幼かった漱石は、この恐ろしい感情を無意識下に抑圧したと考えられます。後年の漱石の抑鬱や神経衰弱の根本原因は、このあたりにあったのかもしれません。
漱石は、養父母の離婚成立後も塩原家にとどまっていましたが、明治九年、九才の時に夏目家に戻されました。このとき漱石を連れ戻してくれたのは兄の大一でした。
夏目家に戻された漱石は、実の父母を「おじいさま、おばあさま」と呼んで過ごします。そのように教え込まれていたのです。家庭内に秘密が存在することは、けっして良い事ではありません。そこに緊張が生まれます。幼い子供は、その緊張を敏感に感じとりますが、理由がわかりません。意味のわからない漠然とした不安は、こうして生じるのでしょう。
そして、漱石少年は数奇な経験をします。ある夜、座敷に寝ていると、女の声に呼びかけられました。目を覚まして耳をすますと、それは夏目家の女中の声でした。
「あなたがおじいさん、おばあさんだと思っていらっしゃる方は、ほんとうはあなたのお父さん、お母さんなのですよ。さっきね、おふたりが話していらしたのを聞いたから、そっとあなたに教えてあげるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ」
「誰にも言わないよ」
こうして漱石少年は秘密を持ちました。父母も秘密をもち、子も秘密をもつ、という奇妙な家族関係ができあがりました。この秘密がいつ頃、どのようにして秘密でなくなったのかはよくわかりません。
父の直克は、漱石を出戻りの恥かきっ子として疎んじました。このため漱石も父を嫌います。また、末子であり、かつ出戻りの漱石は、兄たちからいじめられることがありました。
漱石が気を許した肉親は母の千枝と長兄の大一だけです。千枝は漱石に優しい言葉をかけてくれました。大一は、漱石を塩原家から夏目家へ連れ戻してくれました。しかし、不幸なことに千枝と大一は、漱石が若いうちに世を去ります。おそらく、そのためでしょう、成人後の漱石は親戚づきあいを嫌いました。妻の鏡子の口述が残っています。
「いったい夏目は生家のものに対しては、まず情愛がないと申してもよかったでしょう。あるものは軽蔑と反感ぐらいのもので」
以上のように漱石の幼少期には、極度の不安と恐怖を感じさせられる状況が多く、漱石はその幼い心身を精一杯に緊張させ、感情を抑圧していたに違いありません。心身を過度に緊張させて生きていくという苦難を運命づけられてしまいました。