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プロローグ

 明治三十六年三月、二年間の英国留学を終えた夏目漱石は、妻子の待つ東京に帰りました。妻は鏡子、長女筆子は三才、次女恒子は二才でした。その数日後の出来事です。

 漱石は、火鉢のはしの平らなところに五厘銭が置いてあるのを見つけると顔色を変えました。

「こいつ、いやな真似をする」

 と言い、目の前にいた幼い筆子をいきなり殴りました。筆子は大声を上げて泣き、その声につられて恒子も泣き出しました。鏡子は驚愕して問い詰めます。

「いったい、なにをするんです」

 責める鏡子に対して、漱石は理路整然と殴った理由を語ります。しかし、鏡子にはまったく意味が解りませんでした。それもそのはずで、漱石は被害妄想にとりつかれており、その妄想を鏡子に語ったのです。現実ばなれした妄想を聞かされたところで鏡子に理解できるはずがありません。漱石は、英国留学中のストレスから強度の神経衰弱を発症し、そのためもあって帰国したのですが、神経衰弱は治まっていませんでした。漱石の神経衰弱は、強烈な被害妄想を伴っており、神経症の水準をはるかに超え、あきらかに精神病の領域でした。

 こののち漱石の神経衰弱は四年ほど続きます。不幸にもこの頃に幼児期を迎えていた筆子と恒子は、漱石の死後、父の思い出を語り合うたびに言い言いしました。

「その怖いったらなかったわね」

 

 夏目家は子沢山です。長女筆子、次女恒子、三女栄子、四女愛子、長男純一、次男伸六、五女雛子です。

 伸六が五才になったころ、不幸な出来事に遭遇します。緩解していたはずの漱石の神経衰弱がぶり返したのです。その日、漱石、純一、伸六の父子三人は散歩をしていました。見世物小屋の立ち並ぶ境内をブラブラと歩くうち、射的場の前に来ました。

「撃ちたい、撃ちたい」

 と言ったのは純一です。伸六もせがみました。こうして父子三名は射的場に入りました。

「おい、純一、早く撃たないか」

 それまで穏やかだった漱石は、急にするどい声を発しました。すると純一は怖じ気づいてしまい、漱石にしがみつきました。

「はずかしいからイヤだ」

 漱石は、テラテラと赤く火照った顔を伸六に向けると言いました。

「それじゃ、伸六、お前が撃て」

 伸六は、兄と同じように躊躇しました。

「僕もはずかしい」

 その瞬間、漱石は豹変しました。

「バカッ」

 恐ろしい声で伸六を怒鳴りつけると同時に殴り倒し、地面に倒れた伸六の身体を下駄で踏みつけ、蹴り、ステッキを振り回して打ち付けました。その狂態に、純一はもちろん周囲に居あわせた人々も唖然として立ちすくみました。あわれな伸六は泣きわめきました。

 以来、伸六は父をひどく恐れるようになりました。そして、たった一度の不幸な出来事が生涯のトラウマとして記憶から離れなくなりました。


 夏目漱石は明治の文壇において稀有な成功をおさめた小説家です。しかし、数多くの陰鬱な文章を書き残していることからわかるとおり、その生涯には不幸の影が差しています。その主な原因は病気です。漱石は多病でした。若い頃から胃弱と抑鬱症と眼病があり、英国留学以後は神経衰弱、胃病、痔疾などに悩まされました。

 なかでも神経衰弱は精神病の域に達しており、そのことが漱石を苦しめたばかりでなく、妻の鏡子を多大な災厄にまきこみ、夏目家の子供たちを不安と恐怖のどん底に陥れました。まだ幼かった夏目家の子供たちにとって、優しかった父親が突如として憤怒の形相に変貌して怒鳴り散らし、暴力をふるうという事態はまさに恐怖です。漱石は、まさしく妻にとっては暴君であり、子供たちにとって毒親だったのです。


 毒親とは、幼い子供の心に耐え難いほどの不安と恐怖を与える親のことです。子供に虐待を加えるような極悪人が毒親であることはもちろんですが、善良な普通の親たちも様々な要因から無自覚に毒親と化すことが少なくありません。

 幼い子供は、親に頼らなければ生きていけません。そのことを幼児たちは無意識のうちに知っています。だから、親からひどい仕打ちを受けて死に匹敵するほどの不安や恐怖を感じても、それらの感情を抑圧して親に適応しようとします。

 親たちは概して幼児の心身の脆弱性や過敏性に無理解です。そして、「子供はなにもわからない」とか「子供に何をしても感じない」などという俗説を信じています。こうした親の無理解こそが毒親化の原因です。

 たとえ幼児の心身のデリケートさを知っている親であっても、やむを得ぬ事情から余裕をなくし、心ならずも幼児に心理的負担を与えてしまう場合があります。その原因は多様です。様々な病気、経済的な困窮、無知や傲慢やエゴや世間体、嫁舅問題など家族間の葛藤、宗教やイデオロギーへの過剰な没入、仕事上のストレス、ビジネスや職場の論理を家庭に持ち込むという勘違い、子供への過剰な期待、俗悪な教育論やしつけ論の横行など、数え上げれば際限がありません。親がいつも不機嫌だったりするだけでも幼い子供の心には大きなダメージを与えるのです。

 こうした親の不完全さを子供たちは抑圧と忍耐によって穴埋めします。この健気な自己犠牲に親たちは気づきもしません。そして、いずれかの原因により親が幼児に不安や恐怖を感じさせたとき、その親は毒親となり、幼児はいわゆる毒親育ちとして苦難の人生を歩むことになります。

 さらに悲惨なことには、毒親問題は世代間連鎖します。夏目漱石も幼少期に何らかのストレスに曝され、心中にトラウマを抱えこんでいたと考えることができます。若いあいだは、そのトラウマを抑圧していますが、長ずるにつれて抑圧が解け、トラウマ反応が顔を出してきます。漱石の場合、それが数々の病状だったと考えられます。

 夏目漱石が毒親だったという事実は、夏目鏡子の口述「漱石の思い出」や、夏目伸六の随筆「父・夏目漱石」に書かれていることから明らかです。これらの証言を追いつつ、毒親問題の知見を加えることで夏目漱石の知られざる一面に光を当ててみたいと思います。


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