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早分かり!! 鳩にも分かる『戦前・戦後日本の政治史』 (5)

 1937年・昭和12年、『盧溝橋事件』。8年に及ぶ日中戦争のなか、戦争の即時和平を主張していた石原莞爾は、同じ軍部の戦線拡大派に押され、翌年、失脚する。

 しかし、軍部は、日中戦争を継続するためにも、石原がデザインした、「統制経済システム」を確立しなければならかった。なぜなら、戦争の長期化で、軍需物資の生産増大が必要だったからだ。政府は、限られた資源を、統制により、民間企業に、有効に分配することで、利益よりも生産力の増大を図ることが最優先事項であった。

 

 1937年10月、「近衛文麿内閣」の成立。

 ここに、民間企業を統制するための官庁が置かれた。それが、「企画院」とよばれるものだ。企画院には、満州国家の創立に関わった官僚が多く入庁した。そして、1939年、その指導的立場であった、岸信介が帰国する。

 岸の帰国で、完全に、日本の経済市場は、規制体系、すなわち、官製経済体制に移行し始めた。もちろん、財界は強烈に反発した。岸も、商工次官に就いたものの、財界の圧力で、一度は辞任を余儀なくされた。

 1940年、「第二次近衛文麿内閣」が挙国一致内閣として成立。

 この年、政友会、民政党などの既成政党が、一斉に解散して、「大政翼賛会」に流れ込み、政府のやることに何でも片棒をかつぐ大政翼賛政治となる。それゆえ、「1940年体制」というのも、語源はないらしいが、中央集権型の日本政治システムの元年といった意味で、とても象徴的なネーミングである。

 

 戦争は激化した。

 アメリカの経済封鎖が起こる。それを受け、1941年、「東条英機内閣」が発足。第三次近衛文麿から政権を引き継いだのだった。岸も、次官の座を追われていたものの、東条内閣で商工大臣の座に就いた。

 これは、いってみれば、「戦時経済体制」、つまり、「統制経済体制」への転換である。

 

 「戦時経済体制」=「統制経済体制」~その特徴~

 ①「産業報告会」で、労使一体となった生産増強(賃金・ボーナスなどで妥協しあう、欧米の「対立型労働組合」ではなく、「共存型労働組合」とでもいおうか。つまり、日本的。

 ②「メガバンク制」。株式発行による、直接金融の資金調達方法ではなく、政府指定の大手銀行から借り入れを行う間接金融主体の体制。銀行の経営に、政府の保証が与えられる。どんどん貸して、借りろということ。

 ③「官僚主導」。企業の利益追求の否定。公益、つまり、戦争継続のための生産力拡大。そのために、統制会で資源を企業に振り分け、統制会の会長を任命し、政府が間接的に経営管理する。


 こうして、日本は戦争に敗北するまで、狂った犬のように、突っ走る。

 ただ押さえて欲しいのは、日本のこうした「統制経済体制」が完全に確立されるのは、戦後の復興期であることだ。日本は敗戦して、すべてが、いったんはリセットされる。だが、それは、アメリカの思惑により、一度滅んだ統制経済体制は、戦時よりも、さらに強固となって、今も厳然と存在しているのである。

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