早分かり!! 鳩にも分かる『戦前・戦後日本の政治史』 (3)
「1940年体制」とは「戦前の日本の経済体制は、戦時中に確立されたものである」という理論である。
野口悠紀雄氏により、有名になった理論だ。
本としては、『1940年体制 さらば戦時経済』東洋経済新報社 がある。これに沿って、筆者は、簡潔に、読者に提示したい。かなり、強引に、割愛する。
1927年、日本は「金融恐慌」に襲われた。これだけでも、日本にとっては、いっぱいいっぱいなところに、その翌年が、あの有名なアメリカ・ウォールストリート発「世界恐慌」が起きる。この「世界恐慌」も、「リーマン・ショック」と同じく、おそらく、陰謀史観でいうなれば、ロスチャイルドやロックフェラーといった、「世界経済を牛耳る闇の者たち」により起こされたと言うのを、筆者も支持する。
この頃、日本は、メチャクチャ、弱肉強食の経済社会だった。今のアメリカよりも、アメリカ型資本主義体制だったといえる。昔の方が、日本は欧米に近い、経済体制を有していた。これを批判して、有名になったのが、小林多喜二『蟹工船』であった。当時の経済体制を象徴していよう。
このような不況を受け、当時、「陸軍きっての参謀」「経済将校」と呼ばれた石原莞爾は、1923年、ドイツに渡る。彼は、ヨーロッパの目覚ましい工業力を見て、第一次世界大戦が、工業戦争であったことを看破する。帰国後、『戦争史大観』を書き、日本の工業力の発達を主張した。
1928年、石原は、陸軍大学教官から関東軍参謀として、満州に赴任した。ここで、彼の夢が結実する。石原は、満州を、「実験国家」の場としたのである。
「実験国家」とは何か??
石原は、『戦争史大観』にて、将来、世界で終末的な戦争が起こり、最後は、日本とアメリカの二大決戦となる。そして、日本は、それに勝ち抜いて、天皇が世界皇帝として、君臨すると本気で考えていた。それゆえ、日本の工業力の発達には、資本主義体制ではなく、国家規模での経済体制が必要だと考えていたのだ。しかし、彼には、それが何なのかわからなかった。
ここで、出会いが起きる。
その名は、宮崎 正義。
軍人・石原とロシア研究者・宮崎という二つの異分子が結合したとき、そのとき、歴史は動いた…