婦人の左手
グレーテは凍えそうな森の中で必死に目をこらしていた。雪で覆われた地面に少しでも掘り返された跡がないだろうか。
履いている靴には冷たい水が染み込みかけていた。
グレーテが仕える伯爵家の坊っちゃんはティータイムのあとに泣き出した。「ぼくのお気に入りのおもちゃがないんだ。」
グレーテは大泣きする坊っちゃんをなだめながら、おもちゃ箱の中を見た。中身が荒らされている。
ああまた飼い犬のガウナが坊っちゃんのおもちゃをどこかに隠したに違いない。グレーテは頭を抱えたくなった。
ガウナのいたずらをとがめられるのはグレーテのような使用人たちだ。奥様の耳にこのことが入ったら、グレーテはきっと叩かれてしまうだろう。
「お坊ちゃま。おもちゃはグレーテが必ず見つけてきますから泣き止んでくださいまし。」
グレーテは坊っちゃんの頭を優しくなでて言った。
神様、お願いですから坊っちゃんが泣き止みますように。おもちゃがすぐに見つかりますように。
聞き分けの良い坊っちゃんは桃色のくちびるを噛みしめてこくりとうなずいた。
時刻は夕、燃えるような橙の先には紫がかった夜の足音が聞こえはじめていた。からだはどんどん冷えていく。
ガウナがおもちゃを隠す場所はいくつか心当たりがある。かの犬はお気に入りのものを木の根元に隠すクセがあり、その場所もある程度は決まっていた。
城の近くにあると良いのだけれど、とはじめは思っていたが、今回の隠し場所はどうやら森の奥の方のようだ。
日が沈むとこのあたりは狼が出る。グレーテは足を早めた。
景色はどんどん深い緑色になっていく。グレーテは必死に目を凝らして進んだ。
しばらく進んだころ、はっと後ろを振り返るとずいぶんと歩いてきてしまったことに気がついた。真っ直ぐに歩いてきたから迷うことは無いけれども、このままでは日没をむかえてしまう。奥様のこぶしの痛みを左ほほに思い出しながらグレーテは白いため息をついた。
引き返すしかないわね。グレーテはもと来た道をたどろうとくるりときびすを返した。
「何で…?」
グレーテが歩いてきた道は、くもりひとつない真っ白な道に変わっていた。グレーテの足跡は一つ残らずすべて消えていた。
真っ直ぐに歩いて来たとはいえ、目印が何もない道をたどるのは不安がある。何より、足跡がすべて消えているのは気味が悪い。
「お嬢さん、お嬢さん。そこを行くお嬢さん。
どうか、助けてくださいまし。」
グレーテはのどから出かかった悲鳴を寸前でのみこんだ。その声はかぼそくしゃがれていて、地の底から響くような低い声だった。
「ごめんなさい。わたしもうお城に戻らないといけないのです。」
グレーテは震える右手を左手で押さえつけて答えた。
その声の主は、人ではないような気がした。
「そんなことを言わずにお嬢さん、私はこの凍えるような寒さの中ずっと動けないでいるのです。
おもちゃを探しているお嬢さん。貴女の探し物の近くにはわたしが探しているものもあるのです。」
不気味な低い声はますますしゃがれて森の中に響いた。
グレーテは駆け出しそうになる足にぐっと力を入れた。
「ごめんなさい。わたしは狼が怖いのです。」
「私が見張っております。どうかお嬢さん、探してくださいまし。」
グレーテは泣き出しそうになった。ガウナがおもちゃを隠さなければ、こんな目には合わなかったのに。
お城の年老いた番人から聞いたことがある。
恋人を失った悲しみから立ち直れず、森の中で死んでしまった使用人が昔いたと。死んでしまってからも森の中でさまよい続けていると。
グレーテは仕方なく、ふたたび森の中で目を凝らしはじめた。森の奥へと歩いていく。
日は沈み、頼りになるのは夕日の名残と月明かりしかない。グレーテは枝をかき集めて火を起こした。
しゃがれた声の持主は、姿は見えないもののすぐ近くにいる気配がする。
「あなたが探しているものは何なのですか。」
グレーテはたずねた。
「恋人にプレゼントした指輪を探しているのです。私の死んでしまった愛しい恋人の。」
応える声は打ちひしがれたように震えるていた。
やはり、年老いた番人の言っていた使用人の幽霊に違いないとグレーテは思った。
「その指輪は、ガウナが隠したおもちゃのすぐ近くにあるのですね?」
「ええ、そうですお嬢さん。」
グレーテは慎重に地面を見た。
曇りひとつない白が続いている。
指先の感覚も無くなってきたそのとき、グレーテは一つの木の根元がわずかに茶色くなっているのに気がついた。
木の根元に駆け寄り、冷たい雪を掻き、地面を掘り起こした。
木彫りの王様の人形が頭をのぞかせた。坊っちゃんのおもちゃだ。グレーテは胸を撫で下ろした。
人形をポケットにしまうと、グレーテは再び地面を掘り出した。
暗い穴の中で何が小さくきらめいた。
これは幽霊の言っていた指輪に違いない。グレーテが穴を掘り起こすと、真っ白な左手が現れた。
地面に埋まっていたとは思えないほど瑞々しく、爪は美しい桜色をしていた。薬指には金の指輪が光っていた。
「ラウラ!」
グレーテの頬を一筋の風がなでた。
古びたマントを着た男が美しい左手を抱きしめている影がグレーテの瞳に映った。
「お嬢さん、ありがとう…!ああ、お嬢さん。」
その声は若い男の声だった。
むせび泣くように震えるその声は少しずつ小さくなり、じきに消えしまった。
静まりかえった森の中でグレーテは1人、道を引き返した。
足跡は、グレーテの分だけ残っていた。
お城に帰ったグレーテの視界を覆ったのは赤い色だった。
お城は燃え盛り、使用人たちは方々へと逃げていくところだった。
「お嬢さん、ありがとう。」
若い男と、瑞々しい女の声がグレーテの耳元でささやいた。