ドッグマン
朝もやに包まれた町の屋根を、
マンションの3階から眺める。
息を吐いてタバコの真似をしてみる。
遠くにはこんもりとした森の姿が見える。
森の中はさらにもやが濃くて、
森の向こう側が見渡せない。
森はこの町全体が五つくらいすっぽり入ると言われている。
たまに運送トラックが森を貫く国道を抜けて、
隣の町に向かっていくのが見える。
ぼくは運送トラックがだんだんモヤに吸い込まれて
見えなくなるのを何台か見送った。
フイニーがぼくの立っているベランダに出てくる。
フイニーは室内との寒暖差から体をブルっと振るわせた。
フイニーは犬のからだに人間の顔をした、
「ドッグマン」と呼ばれるペットである。
なんでも昔の科学者が人間からDNAを抽出して、
さらにペットとして遺伝子改良したものらしい。
当初は「気持ち悪い」とか「冒涜的だ」と言われたが、
革命的なものとはえてして最初は理解されないものだ。
なまじ人間の頭部を持っているので、
ある種のひとたちの支配欲をより強く満足させるのかもしれない。
今ではドッグマンを飼うことは当たり前になっている。
フイニーは20歳くらいの男の顔をしている。
しかし、人間の言葉はしゃべらない。
ぼくは台所で餌の袋を開けて、
皿に盛り、フイニーに食べさせた。
フイニーは人間の顔をしているが、
食べかたは動物のそれである。
食べかた。
そう、ぼくが学校の先生に違和感を感じるようになったのは、
まずその食べかただった。
若い女の先生で、とても上品なひとがらだったのだが、
あるときから明らかに食べかたが意地汚くなった。
なんらかの心境の変化が食べかたにも反映されただけかもしれない。
しかし、そういうふうに疑いの目でよくよく観察するほど、
先生の目つきや、歩きかたにいたるまで、
みょうに獣じみているような気がするのだ。
先生以外にもそういう変化をしてるひとは他にいないか
探してみると、魚屋のおじさんもそういえばすこし変だった。
目つき、歩きかたも先生に似ていたし、
言葉の発音がちょっと変だ。
やたら喉や鼻を鳴らすのだ。
前はそういうしゃべりかたではなかった気がする。
とはいえ、記憶しか証拠はないので、ぼんやりした話だが。
その点、パパとママは大丈夫だ。
目つきも、歩きかたも、食べかたも、しゃべりかたも、
人間っぽさがなくなってない。
「今日は森の方に行こうか」
パパが後ろから言った。
今日はフイニーとぼくとパパとママで、
ドライブに行く約束だったのだ。
「森に行くの?なんだか今日は変な天気じゃない?」
ママが髪をとかしながら言った。
「森がいいな、ぼく森に行きたい」
ぼくが決定票を投じた。
なんとなく、町がいやなのだ。
パパとママとフイニーとぼくだけで、
町を離れてみたいのだ。
パパがたいせつにしているトヨタの白い新しい車で、
三人と一匹は森を貫く国道へ走りだした。
パパとママがなにかをゴニョゴニョ話している。
こどものぼくが聞いても、
よく意味がわからないだろうと思った話しかただ。
でも、ぼくはわかった。
フイニーの餌代が高くなってきた。
ドッグマンの餌は独占なんとかだから、すぐに値上げされる。
わたしは最初から反対だった、うんぬん。
フイニーは車の窓ガラスにおでこをつけて、
朝もやに煙る町を眺めている。
(フイニーよ……おまえはもうすぐ
捨てられてしまうかもしれない。
ぼくはフイニーが好きなのに、
うちにはおまえを飼うだけの、
お金がないかもしれないってさ)
フイニーはメトロノームのように
白い尻尾を左右に揺らしていた。
「このへんで少し散歩してみようか」
パパがトヨタをゆっくり路肩に止めた。
うしろを向くと両側に柱廊のようにそびえる
森の向こうには、かすかに町が臨めた。
森の方がすこし高くなっているので、
もやさえ晴れればいい眺めが望めるだろう。
「あなた、あんまり森には入らない方がいいんじゃないの?」
ママは気が進まないらしい。
ママはレストランもちょっと暗かったり、
汚かったりすると、同じ反応をする。
「せっかくここまで来たんだ。森林浴しようじゃないか」
パパはそう言って勝手に森に入っていった。
「ちょっと、ひとりで行動しないで」
ママはそう言いながらも強引なパパについていった。
パパとママが入っていってしまうと、
いきなりフイニーが道路をはさんで反対側の森に入っていった。
「あ!パパ!ママ!フイニーが!」
ぼくはパパとママを呼び止めようとしたが、
木が音を吸収してしまうのか、
パパとママはずんずん奥へ行ってしまった。
ぼくはあとで車に戻ってくるつもりで、
フイニーを追いかけることにした。
足元は落ちてきた枝や、倒木、
それに地表に突き出した根っこで、
とても歩きにくかった。
その点フイニーは四つ足の動物なので、
ぼくより速く奥に行ってしまう。
こっちを振り返りもしない。
そして気がつくと、ぼくは道路から
遠く離れた森の中にひとりで取り残されていた。
フイニーだけを見ていて、
来た道をぜんぜん確認しなかったせいだ。
今日はもともと曇り気味の天気なのもあって、
森の中は余計に鬱蒼としていた。
ぼくは食料や水など何も持っていないのを思い出し、
血の気が引いていくような思いがした。
フイニーのことはとりあえず諦めて、
車に戻らなくては。
ここに座りこんでいても、
助けが来る前に寒さと飢えで死んでしまうかもしれない。
ならば、体力がまだあるうちに、
すこしでもどこかへ進んだ方がいいのではないか。
ハイキングのノウハウはわからないが、
ぼくは直感的にそう思った。
森を歩いているとき、
樹々が道路から眺めたときより、
はるかに巨大に見えた。
ぼくはこのまま夜が訪れるのを恐れた。
とにかく、すこしでも明るいうちに、
どこかへ出なくては。
やがて、向こうからかすかに光が差し込んできた。
道路に戻ったのだろうか。
ぼくは浮き足だって進んだ。
ともあれ命が助かるのだ。
到着してみると、そこは道路ではなく小さな町だった。
規模としても小さければ、ひとつひとつの家も小さかった。
大きな犬小屋くらいというべきだろうか。
犬小屋の表札がかかるべきところには、
エジプトの象形文字のようなものが描かれてあったり、
屋根の形は巻貝のように空に伸びていたりした。
ぼくが恐る恐る小さな町の中へ進んでいくと、
小さな家の中から、一匹のドッグマンが出てきた。
若い女の顔をしたドッグマンは、
人間の若い女のような叫びをあげたかと思うと、
町の奥の方へ全速力で逃げていった。
その叫びを聞いて、小さな家からぞくぞくと
ドッグマンたちが出てきた。
ドッグマンたちの中には、
先生や魚屋のおじさんに似た顔もあった。
どうやら、ぼくは招かれざる客のようだ。
「おまえはどこから来たんだ」
魚屋のおじさんに似た顔が言った。
「ここは人間に見つからないはずなのに」
先生に似た顔が言った。
「おまえだけか?ここに来たのは」
老人の顔が言った。
ぼくは恐ろしくなり、一歩一歩後ろに後ずさった。
すると、後ろ足でなにかを倒してしまった。
そのなにかは大きな瀬戸物が割れるような
不吉な音を立てて倒壊した。
ドッグマンたちはみな青ざめたような顔をし、
ただちに怒りの形相に変わっていった。
後ろを見ると、壊れたのはドッグマンの彫像で、
その顔はフイニーに似ていた。
「もう生かしてはおけん」
少年の顔が言った。
「よりによってフイニーさまの像を」
すると、ドッグマンたちが一斉に
ぼくに襲いかかり、器用に縄で木に縛られてしまった。
ぼくはどうやら殺されてしまうようだ。
こんなところで、こんなわけのわからない
死にかたをするなんて想像したこともなかった。
しかし、運命はときとしてあまりにも理不尽だ。
ぼくが短い人生を走馬灯のように思い返していると、
ドッグマンの群衆の奥の方から声が聞こえた。
「待ちなさい。彼はわたしの飼い主だ」
そういうと、フイニーが現れた。
「フイニー!」
まさに地獄に仏の気持ちだった。
この際、フイニーが言葉を喋ることなど瑣末な問題だ。
「フイニーさま、やつは人間です。
この場所を知られた以上、生きて返すわけには参りません」
先生の顔が言った。
「よいではないか。彼はまだ子供だ。
この場所のたどり着き方もわからなくなるだろう。
そして、われわれの計画も理解できないはずだ」
「しかし……」
「第一、彼はわたしの飼い主だったのだ。
彼はわたしを愛してくれたし、
それだけ世話もしてくれたのだ。
ここで殺すわけにはいかんのだ」
「……」
「その代わりと言ってはなんだが、
彼の両親はわたしが調べた限り危険分子だ。
彼の両親を生贄にすることにしよう」
ぼくは驚いて言った。
「パパとママを殺さないで!」
すると、鈍い衝撃があり、
ぼくの意識は暗転した。
気がつくと、ぼくは白い新しいトヨタに寄りかかって寝ていた。
傍にはフイニーが居た。
「フイニー!」
ぼくはちょっと怯えつつフイニーの名を呼んだ。
フイニーはあのドッグマンの町で高位についていて、
フイニーの像を壊したからぼくは殺されそうになったのだ。
しかし、フイニーはぼくを黙って見つめるばかりで、
ちっとも喋ろうとしなかった。
「やっと出れたぞ」
パパの声が後ろから聞こえた。
「もー、どうして先にどんどん行っちゃうのよ。
本当に迷っちゃったじゃない」
ママの声が続く。
「あ、こんなところにいたのか!」
パパがぼくを見て言った。
「はぐれちゃったかと思ったじゃない!
ほんと、だから森は嫌だって言ったの!
今日は散々だったわ、早く帰りましょ」
ぼくとフイニーとパパとママは
逃げ出すように白いトヨタに乗って、
町へ続く道路を降っていった。
「ねえママ、ドッグマンの町があったんだよ。
ぼく見たんだよ。変な小さい家がいっぱいあって」
ぼくは後部座席から身を乗り出して言った。
「なぁーに言ってるのよ。
ドッグマンに街を作るだけの知能なんてないわ」
「フイニーがそこでは偉くて、
ぼくフイニーに命を救ってもらったんだよ」
「……」
言っていてぼくは自信がなくなってきた。
もし夢だったら、ぼくは狂ってしまったと思われるだろう。
「でも、もしかしたら夢だったのかな……」
ぼくはつけ足した。
「……」
ママはまだ黙っている。
ぼくは余計不安になった。
「たぶん、何かの間違いかもしれない」
ぼくはじぶんでそう結論づけた。
なにか透明な圧力を感じた。
「バカなこと言わないで」
ママは短く言った。
ママは世間体を気にするタイプだ。
「でもフイニーが無事でよかった」
あれ?ママはフイニーをこんなにかわいがってたっけ?
それにぼくは?
夕日が地平線にかすむ中、
ぼくたちはデニーズに入った。
ママはちょっと小汚い個人経営の店より、
デニーズのほうが好きだ。
店内に入ると、パパとママはやたら店内をキョロキョロ見回した。
このデニーズはもう何度も来ているはずだけど。
席につき、注文をするとき、また変だった。
肉料理を五人前くらい頼んだ。
ママはいつもダイエットダイエットで、
野菜ばっかりウサギみたいに食べてるのに、
今日は肉をすごい勢いでがっついている。
そして、フイニーに食べ物をやたら分けている。
フイニーの扱いが明らかに変わった。
ぼくはパパとママの食べかたとフイニーの食べかたが
似てると思った。
意地汚く、獣じみている。
ぼくは夢の中でフイニーが、「パパとママを生贄にする」
と言っていたことを思い出した。
もしかして、あれは夢ではなかったのかも。
このひとたちは本当にぼくのパパとママなのだろうか?
ぼくは今ごろ暗い森のなかで、
本当のパパとママが生贄にされているのを想像した。
ぼくはスパゲッティーとハンバーグをがっついている
パパとママを尻目に、
黙ってデニーズを飛び出した。
後ろからはなにか声が聞こえたが、
ぼくは止まらずに走り出した。
外は冷気が漂っていて、もう日が暮れていた。
国道沿いの街灯を頼りに、
森の方へ走っていった。
途中、運送トラックに何台か追い越された。
やっと森に着いたら、ぼくは
目の前に広がる暗黒の世界に呆然とした。
夜の森に来たのは初めてだったが、
夜の森は、夜の湖とか、夜の海とかよりも
さらに恐ろしい雰囲気だった。
とてもではないが、懐中電灯もなしに
この中をひとりで突き進むのは無理だった。
だいたい、あのパパとママが偽物だっていう
確証だってどこにもないじゃないか。
ぼくはひとりでとち狂っているだけなのかもしれない。
そう考えると背筋が寒くなった。
森の入り口で佇んでいると、
道路の向こう側からライトが照らされた。
ぼくが眩しさで目をすがめていると、
「あ!いたぞー!」
大きな大人の声が響いた。
「おい!どこ行ってたんだ!
散々探したんだぞ!」
パパだ。
「よかったあ!見つかってよかった!」
ママは泣いている。
「パパ、ママ!」
ぼくも涙が出てきた。
白い新しいトヨタもあった。
トヨタの中にはフイニーもいた。
夜の森の中、二つのヘッドライトが国道の路面を照らしている。
ときどきすれ違うのはやはりトラックだけだ。
「どこ行ってたのよ?!本当に。
一日中探したんだから!」
ママが泣きながら言う。
「もう森の中で飢え死にしてるのかと思ったぞ!」
パパも言った。
「勝手に行動しないで!あなたも!」
ママがパパに本気で言った。
ぼくは喋るフイニーの話や、
偽物のパパとママの話をなぜかする気がしなかった。
それを説明するのはなんだか無理な気がした。
「フイニーもいてよかったわ、
フイニーがいなくなったらわたし耐えられないもの」
ママはフイニーを抱きかかえて言った。