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精神科医・桐谷喜和子

梶田が教えてくれた精神科は、高田馬場の細い路地の一角にあった。

昼なのに挟まれたビルのせいで陽の光が当たらず、薄暗いその病院は、精神科だというのに、さらに精神病が悪化しそうな、錆びた佇まいであった。

(……こんなとこ、本当に大丈夫なのかよ……)

 病院の前まで来て大地は不安になり、錆びのついた銅製のドアノブを開くのを躊躇ってしまう。

 胸に手を置き、目を閉じた。親友の満面の笑顔を思い浮かべる。

 ふう、と少し開いた口から息を吐き出し、一瞬ドアを真剣な顔で見つめる。

 唇を噛みしめ、意を決して中に入った。

 待合室では2,3人の患者が上質なソファに座って、受付から名を呼ばれるのを待っている。

 セピア色の明かりが灯り、患者の頬を温めるように染めている。

 ちらちらと不安げに他の患者や、静かに受付で書類を見ている若い女性事務員たちを見ながら、大地も深緑色のソファに座った。

 先に来ていた他の患者が全員呼ばれては、数十分経ち、晴れやかな顔で診察室から待合室に戻って勘定を済ませて去って行く。

 その様子がまるで危ない薬を決めたかのような違和感があり、大地は瞠目しながら冷や汗をかいていた。

(何だここ……、皆ソープ帰りの「男になってきました!」みてえな晴れやかな顔で出てくるんだけど……やばいとこなんじゃ!?)

「三島大地さん、診察室へどうぞ」

 受付の女性がにこやかに大地に声をかけ、思考が中断される。

「は、はい!」

 しゅっと立ち上がり、大きく返事をしてしまった。

就活の面接練習のし過ぎで、名前を呼ばれると自然とそう反応してしまう体になってしまった事を思い知らされ、大地は絶望する。

(ま、まじかよ俺の体……)

 なんだかすべてがどうでもよくなった。

 どうせ診察しても何も良くはならないだろう、早く終わらせよう、と青白い顔で診察室に前屈みになり、よろよろと向かった。

 無機質に白い診察室のドアを、無気力に開けて入室する。俯いたまま、目の前に置かれていた丸椅子に腰かける。

「三島大地さんね。今日はよろしく」

 大地のつむじに玲瓏な声がぽつ、と一つの雫のように落ちる。

「私は当院の精神科医・桐谷喜和子きりたにきわこだ」

 ぼうっと口を開けたまま顔を上げると、大輪の薔薇のような美貌の女性がそこにはいた。

「へ」

 想像していた精神科医の生真面目な姿とまるで違っていたので、驚きから間抜けな声を漏らす。

 ウェーブがかった長い髪を明るい茶髪に染め、うなじで一つに緩く纏めている。

 肌は健康的なイエローベースの肌色で、ぷっくりと厚い唇にオレンジがかった赤い紅を差しており、彼女の艶を増している。

 ひとみはアーモンド形で、きりっと端が吊り上がった目元がクールな印象を美に変え示している。

 若い、明らかに若い。20代半ばであろうか。

「何見てる。どうしたというのだ」

「え」

 喜和子に指摘され、彼女のことをぽかんと見つめていたことに気付き、羞恥に包まれる。

 さっと頬に朱が差す。

 目の前でしどろもどろになっている青年のことを気にも留めない様子で、本題に入ろうと喜和子は冷静に問う。

「今日はどうされました?」

「あっ、えっと……」

 現在の自分の状況を説明しようとするのが、こんなにも難しいものなのか。いざ語ろうとしても上手く言葉が出てこない。

 大地は一度深く息を吸い、吐き出すのと同時に状況を語った。

「なるほどね……」

 大地の話を聞き終わると、喜和子は目線を横に逸らして、逡巡する様子を見せた。

 話を聞いている間の喜和子はずっと凪の状態で、瞬き一つせずにじっと大地を見つめていた。眸の奥を覗き込まれているかのようであった。

 まじまじと女性に見つめられたことが無かった大地は、焦りから額に汗を浮かせながら、それでも懸命に状況を伝えた。

 そして説明していくごとに体が追体験をしているかのように毛穴から冷たい汗が噴き出てくる。

 思考は淀み、自己嫌悪が心を襲う。口は止まらず、勝手にそのまま潤滑油のように喋り始めていた。何も考えず、胸の澱がそのまま唇から出て行くようだった。

「先生、俺、死んだ方がいいんじゃねえかって思うんですよ。この先就職しても、就職できなくても、不幸になる未来しか見えないんです。就職したらしたで、上司にへいこらして、出世気にして張り合って、営業成績悪けりゃ怒鳴られる。毎日同じことを繰り返して、それで一生が終わっていく。就職できなかったらフリーターんなってバイトで稼いで生きていくしかない。やっすい給金でその日暮らしだ。社会的には底辺として扱われる。先生、人間は何のために生まれてくるんでしょうね。俺、この社会の悪循環止めてやろうと思ってるんです」

 話す度に酷薄な笑みになっていく。声も乾いていく。

「だって、俺が死ねば社会の悪循環が枝が一つ折れるじゃないですか。だったら俺死んでやろうと思います。ねぇ先生?」

 最後は自分でも自分が何を言っているのかわからなくなっていた。ただ自分の心の闇から生まれた悪魔が口を乗っ取って、己に喋らせているような感覚であった。

 喜和子は冷静な眸で黙って腕と足を組みながら、つまらない映画を見ている観客のような態度で大地の話を聞いていた。その様子が、大地の中の悪魔を更に過激にさせ、眉間に邪悪な皺を刻ませる。

気付けば大地の肩は小刻みに震えていた。

「……」

 若い患者の様子を見ていた喜和子は、ふっと眸の色を消し、唐突に立ち上がった。

 喜和子の予想外の行動に、大地はびくっと体を震わせる。

「な、なん……」

 喜和子は大地など自分の前にはいないかのように、純白のドクターコートのポケットに両手を突っ込み、背を向けると、診察室の奥へと消えていった。

 先ほどまでの険しい眉間が消え、ぽかんとした顔で喜和子が消えていった方向を眺めている。

(どういうことだよ。え!? 俺診察室に一人で取り残されたままなの!? 胡散臭そうな匂い漂わせてたけど、どんな精神科医だよ!!)

 すると、何やら奥から女性同士が会話する声が聞こえてくる。ナースに何かを持ってくるよう指示を出し、ナースは半ば駆けていくようにどこかへ消え、そしてまた戻ってくる足音がする。

「何が始まるんだ……」

 訳が分からず鼓動が高まる。まさかうつ病で精神科医に来て、ジェットコースターに乗る前のような緊張感を味わうことになるとは思わなかった。

 コツコツ、と喜和子がヒールを鳴らしてこちらに戻ってくる足音が聞こえる。

 体を固くしていた大地の前に現れたその姿に、顎を極限まで落とし、瞠目した。

 喜和子の右手にはリボルバー式の銃が握られていたのだ。

「なっ……! なっ……!!」

 感情を宿さない冷たい眸で大地を認めると、彼女はゆっくりと右手を平行に上げ、彼の額に狙いを定めた。 

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