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「ねぇ雪ちゃん。『勇者』さま、来てくれたんだね」
玉ねぎを高速で切りながら、瑠璃は嬉しそうに雪乃に語りかけた。
「えぇ、まぁ前世のことは何も覚えてないみたいだけど」
「えっ⁉︎ そうなんだ……じゃあ『あの事』は聞けないんだね」
「……いいのよ。思い出しても嫌な思いしかしないだろうし」
瑠璃は暗い雰囲気になりかけたのを、笑って明るく振舞おうとした。普段から彼女はマイナス思考であるから、暗い顔をしていると雪乃に怒られるのだ。
「そういえば、『勇者』さまの今世のお名前はなんて言うの?」
「…………」
黙り込む雪乃に、瑠璃は首を傾げた。何かおかしなことを言っただろうか。
「え? 雪ちゃん?」
「……知らないわ」
絞り出すような、まるでそう答えることが屈辱だと言わんばかりの返事に、瑠璃は思わず笑ってしまった。
(きっと雪ちゃんのことだから、自分の進めたいように物事を進めちゃって聞く機会を逃しちゃったんだわ)
プライドの高さが邪魔をして小人にも聞くに聞けなかったのだろう。雪乃には昔からそういうところがあった。
すまし顔の裏で内心どう切り出そうか悩んでいる雪乃の姿が容易に想像できて、瑠璃は笑いが止まらなかった。
「何笑ってるのよ」
「なんでもないよ」
じと目で見られるが、気にせず受け流す。
周りで皿の用意などをしてくれている小人たちに目をやる。何人かは壮に雪乃が目を覚ましたことを伝えるためにここにはいない。
「一郎さん、勇者さまの名前知ってる?」
「知ってましゅよ。私、担任を持ってましゅし」
名を呼ばれて答えたのは、小人の長男だ。瑠璃は合点がいったように手を打つ。
「まぁ! そういえば一郎さんは教員試験に受かったんですよね! おめでとうございます」
「ありがとうございましゅ。りゅりしゃまたちも同じくらしゅでしゅよ」
頭を撫でてもらって、一郎はとても嬉しそうである。しばらく撫でられると、はっと顔を上げた。
「あ! 勇者しゃまのお名前は、久遠勇士でしゅ!」
「ふふ、ありがとう」
お礼を言うと、満足気に一郎は弟たちのもとに戻っていった。
そうこうしている内に料理が完成した。
「さて、雪ちゃん。お食事にしましょうか」
勇士は目の前に並べられた味噌汁や和え物などを見て目を輝かせた。お腹が空いているのもあっただろうが、綺麗に盛り付けられたそれらはお世辞抜きに美味しそうだった。
「美味そう……」
「雪ちゃんのおかげですね。どうぞ召し上がってください」
「言っとくけど、わたしはほんとにちょっと手伝った程度よ」
「いただきます!」
「聞いてるのかしら……」
許可を得るとすぐさま箸に手を伸ばして食べ始めた勇士に、雪乃は呆れ顔である。
あまりの美味しさについ「おいしい」と食べ物を口に入れたまま言いそうになったが、すぐ傍にマナーにうるさそうな人がいるのでなんとか堪えた。
「おいしい!」
「良かったです。懐かしいですね、昔もこうやって『勇者』さまたちに料理を作ってました」
「え、そうなの?」
「はい。あたし、『勇者』さまの元で住み込みの家政婦みたいな感じのことしてたんですよ。『勇者』さまが姉様たちからあたしを解放してくれて」
勇士は複雑な気持ちだった。前世の自分の話をされても、何も覚えてないから他人事にしか思えないのだ。
瑠璃はそんな勇士を見てどう捉えたのか、すぐに補足を入れる。
「あ、心配しなくても、『勇者』さまはあたしを対等に扱ってくださいましたよ? むしろ良い待遇すぎて恐縮するくらいで」
「なら良いんですけど」
これで奴隷のような扱いをしていたら前世の自分を殴りたくなる。
「ところで」
雪乃が口を挟む。勇士と瑠璃は優雅にお茶を飲む彼女を見つめた。
「この後のことなんだけど、最後の一人を助けに行くわよ」
「……やっぱりあそこよね」
「……そうなるわね」
沈痛な面持ちの二人に、勇士は戸惑う。
「え、なに。そんな遠いとこ?」
「いや、そこそこ近いわ。近いんだけど……」
「行けばわかりますよ」
二人の様子を見て、勇士は嫌な予感しかしなかった。
「うわぁ……」
二人があれほど嫌そうだった訳を、勇士は完全に理解した。
目の前にそびえるのは、ス○イツリーほどの高さのーー盛り過ぎかもしれないがそれくらいに感じるーー煉瓦造りの塔である。
塔の周囲は荊で囲まれており、迂闊には近づけない。勇士がじっと観察ーーというか現実逃避をしていると。
「痛い! あーもう、鬱陶しい棘だな!」
声変わり前の少年の声が、少し離れたところから聞こえた。
勇士たちが様子を伺いに行ってみると、荊に攻撃されている少年がいた。
荊が動いていることには、もう突っ込まないことにした。
「何してるんだ?」
「あ? 誰だよあんた、『白雪姫』と『シンデレラ』を連れちゃってさ。そっちこそ何しに来たの?」
「俺はここで眠らされた人の呪いを解きに来た」
それを聞いて、少年の可愛らしい顔立ちに驚きの色が浮かぶ。
そして、次の瞬間には勇士を真っ向から睨みつけた。
「……ふーん。あんたが『勇者』なんだ」
その敵意に満ちた眼差しに、相手は小学生程度の少年だと言うのに勇士は腰が引けた。
「…………んな」
「何か言ったか?」
俯きがちでしかもあまりにも小さい声だったため、ほとんど聞き取れなかった。
きっと顔を上げると、勇士を指さして少年は叫んだ。
「あんた、俺のもの奪ったら許さねぇからな!」
引き止める間も無く、少年は背を向けてあっという間に去ってしまった。
「……なんだったんだ?」
「気にしなくていいわよ。ここで眠っている子はあの子が嫌いだから、荊が守ってたのね」
「この荊、意思があるのか?」
「意思があるかは知らないですけど、塔を守るように動いているのは確かです。でも、久遠くんなら間違いなく入れますよ」
勇士は微かな希望を持って尋ねた。
「じゃあ、この荊が上まで運んでいってくれたりは……」
「串刺しになるのがオチよ。やめておきなさい」
どうやら、繊細な力の調整は出来ないらしい
すげなく言われ、勇士は肩を落とした。
「いってらっしゃいませ、久遠くん。あたしたちはここで待ってますね」
「え、一緒に行かないの?」
「私に登れと?」
「すみませんでした」
勇士程度が、雪乃に逆らえるわけはないのである。
諦めて塔の中に踏み入った勇士には、二人の声は聞こえなかった。
「紡、喜ぶだろうね」
「そのために『勇者』に一人で行かせたんだもの。当然よ」
塔の中央に螺旋階段があり、上へ行くにはそこを登るしかない。しかもどの階も全く同じ作りになっているため、まるで同じところをぐるぐると回り続けているような錯覚に陥る
途方もない道のりを走り続け、勇士はやっと階段の終点に辿り着いた。息も絶え絶えに両手を膝につけて休む。
最上階の部屋は、赤い絨毯が敷き詰められ、階段から少し離れた所に、天蓋付きのベッドが置いてあった。
そこに近づくと、勇士は天蓋を押し上げる。
「!」
勇士は息を呑む。雪乃や瑠璃を見て、美人だろうとは予想をしていた。それでもやはり、その美しさには驚かずにはいられない。
雪乃のような清廉さや、瑠璃のような儚げな雰囲気とはまた違う系統の美少女だった。
濃く艶やかな栗色の髪は長く、緩やかに白い顔を縁取っている。仄かに頰を赤らめたその寝顔はとても愛らしいし、そして何よりも、勇士は健全な男として、他の二人にはあまり見受けられなかった柔らかな膨らみに目が行ってしまった。
勇士は煩悩を追い出すために必死になって頭を振った。
(だめだ! 今俺はこの子の呪いを解くためにここにいるんだ!胸を見るためじゃない!)
自分に言い聞かせた甲斐もあって少し冷静になった勇士は、そっと眠る少女を揺すった。
「起こしに来ましたよー。起きてください」
「ふぁ……」
先の二人と同じように、少女の呪いは解けたようだ。まだ寝ぼけているようで、開かない目をこすっているーーなんて観察をしていると。
「うわっ」
突然勇士はなすすべも無く少女に引き寄せられた。少女の力は弱いが、いきなりのことで対応できなかったのだ。
目の前には、薄く唇を開いた、寝ぼけているというよりもどこか陶酔したような少女の顔が。
そのまま、唇にちゅ、と柔らかな感触があった。
勇士の思考は、思いがけないファーストキスで、完全に停止した。