準備
「ねえ」
僕は傍らの彼女に声をかけた。僕らはリビングでくつろいでいた。彼女はテレビを見ていた。
「ひとつ聞いていい?」
「何?」
彼女は振り返らずに言った。僕は彼女の背中を見ていた。
「それ、面白い?」
「何が?」
「テレビ番組」
「………普通」
彼女はテレビを見ていた。テレビの中では、芸人が何事かを話していた。楽しそうに。
「どうしてだろうね?」
僕は言った。「何が?」 彼女はめんどくさそうに言った。
「いや、色々な事が」
「何の話よ? ルリちゃん?」
ルリちゃんとは、彼女の友人で、以前、ルリちゃんをきっかけに軽い喧嘩をした。だが、その事ではない。
「違うよ。いろんな事」
僕はテーブルの上のコーヒーカップを取り上げた。彼女の視界に入るように、カップを軽く振った。
「例えば、このコーヒーカップ。僕はコーヒーを飲む時、カップの存在を疑わない」
「それが?」
彼女はまだ『テレビ』を見ていた。
「どうしてだろうね? いつも、思うんだ? カップの存在を疑う事ができる。でもそうしたら、僕は素直にコーヒーを飲めなくなってしまう」
「変人なのよ、あなたが」
「それは相対的な話さ。そうじゃない。本当はそうじゃない。僕は至極真っ当ーーー」
彼女がくるりと振り向いた。僕の目を見て
「変人なのよ」
強く言った。またテレビに視線を戻した。僕は…変人じゃないぜ。多分。
「そうかな」
「そうよ」
「……そんな事もないだろう。もし僕が変人だったら……」
「間違いないわよ」
彼女は断言した。僕は口を噤んだ。
その夜、僕らは一つのベッドに横になった。彼女は僕の腕に頭をのせていた。
「ねえ、さっきの話だけど」
僕は言ってみた。彼女は目を瞑っていた。
「僕は変人じゃないよ」
「嘘つき」
「本当さ。変人じゃない。だけど、それを証明する術がないだけだ」
「一体、どうやって証明するつもりなの?」
「さあね。ただ、今度、神様に会ったら、証明できると思う。僕は変な奴じゃないって」
「神様に会った事があるの?」
「一度だけ。髭もじゃだったよ」
その後、僕らは形而上学的な話はしなかった。僕らは仲睦まじく、一つのベッドに寝た。
…翌朝、僕らはコーヒーの粉の事で軽い喧嘩をした。僕が昨日買ってきたコーヒー粉が気に入らないらしかった。
「いつものにしてって言ったのに」
彼女は怒っていた。
「売り切れててさ」
僕は嘘をついた。
それでも、僕らは一つのテーブルでコーヒーをすすった。僕にはそれほどまずいコーヒーと思えなかった。
その時、僕はコーヒーカップの存在を疑ったりしなかった。彼女の存在も疑わなかったし、万有引力の法則、彼女が通っている会社や、日本円が通貨として機能するシステム、大地の存在など諸々を疑わなかった。僕は、疑わなかった。
僕はコーヒーを飲んだ。全ては順調であるように思えた。「もう準備しないと」 彼女は言った。最初、『何』を準備するのだろう?と思ったが、すぐ、彼女が『通っている』会社の話だと気付いた。
「ああ、そうだね」
「あなたも準備をしないと」
一体、何を準備するんだ? 一体、何を、どこに向かって準備するんだ? 一体、何を? そう言いたかったけれど、僕はぐっとその言葉を飲み込んだ。
「うん、そうだね。準備する」
僕は準備を始めた。
準備を始めた。




