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準備

掲載日:2018/04/04

「ねえ」


 僕は傍らの彼女に声をかけた。僕らはリビングでくつろいでいた。彼女はテレビを見ていた。


 「ひとつ聞いていい?」


 「何?」


 彼女は振り返らずに言った。僕は彼女の背中を見ていた。


 「それ、面白い?」


 「何が?」


 「テレビ番組」


 「………普通」


 彼女はテレビを見ていた。テレビの中では、芸人が何事かを話していた。楽しそうに。


 「どうしてだろうね?」


 僕は言った。「何が?」 彼女はめんどくさそうに言った。


 「いや、色々な事が」


 「何の話よ? ルリちゃん?」


 ルリちゃんとは、彼女の友人で、以前、ルリちゃんをきっかけに軽い喧嘩をした。だが、その事ではない。


 「違うよ。いろんな事」


 僕はテーブルの上のコーヒーカップを取り上げた。彼女の視界に入るように、カップを軽く振った。


 「例えば、このコーヒーカップ。僕はコーヒーを飲む時、カップの存在を疑わない」


 「それが?」


 彼女はまだ『テレビ』を見ていた。


 「どうしてだろうね? いつも、思うんだ? カップの存在を疑う事ができる。でもそうしたら、僕は素直にコーヒーを飲めなくなってしまう」


 「変人なのよ、あなたが」


 「それは相対的な話さ。そうじゃない。本当はそうじゃない。僕は至極真っ当ーーー」


 彼女がくるりと振り向いた。僕の目を見て


 「変人なのよ」


 強く言った。またテレビに視線を戻した。僕は…変人じゃないぜ。多分。


 「そうかな」


 「そうよ」


 「……そんな事もないだろう。もし僕が変人だったら……」


 「間違いないわよ」


 彼女は断言した。僕は口を噤んだ。


 その夜、僕らは一つのベッドに横になった。彼女は僕の腕に頭をのせていた。


 「ねえ、さっきの話だけど」


 僕は言ってみた。彼女は目を瞑っていた。


 「僕は変人じゃないよ」


 「嘘つき」


 「本当さ。変人じゃない。だけど、それを証明する術がないだけだ」


 「一体、どうやって証明するつもりなの?」


 「さあね。ただ、今度、神様に会ったら、証明できると思う。僕は変な奴じゃないって」


 「神様に会った事があるの?」


 「一度だけ。髭もじゃだったよ」


 その後、僕らは形而上学的な話はしなかった。僕らは仲睦まじく、一つのベッドに寝た。


 …翌朝、僕らはコーヒーの粉の事で軽い喧嘩をした。僕が昨日買ってきたコーヒー粉が気に入らないらしかった。


 「いつものにしてって言ったのに」


 彼女は怒っていた。


 「売り切れててさ」


 僕は嘘をついた。


 それでも、僕らは一つのテーブルでコーヒーをすすった。僕にはそれほどまずいコーヒーと思えなかった。


 その時、僕はコーヒーカップの存在を疑ったりしなかった。彼女の存在も疑わなかったし、万有引力の法則、彼女が通っている会社や、日本円が通貨として機能するシステム、大地の存在など諸々を疑わなかった。僕は、疑わなかった。


 僕はコーヒーを飲んだ。全ては順調であるように思えた。「もう準備しないと」 彼女は言った。最初、『何』を準備するのだろう?と思ったが、すぐ、彼女が『通っている』会社の話だと気付いた。


 「ああ、そうだね」


 「あなたも準備をしないと」


 一体、何を準備するんだ? 一体、何を、どこに向かって準備するんだ? 一体、何を? そう言いたかったけれど、僕はぐっとその言葉を飲み込んだ。


 「うん、そうだね。準備する」


 僕は準備を始めた。


 準備を始めた。



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