第四章 最強魔女誕生
飛行術の習得も当然のことながら野外で行われた。
人は滅多に訪れない深い渓谷である。
ゼルタクはレナのお守りにして親友・フィラとサマナに告げた。
「万一、熊が魚を獲りに出てきたら、撃退してくれよ」
「私達って熊係?」
「そうだ。いや、熊のみならずあらゆるものから彼女を守ってくれ」
「もちろん、そのつもりで来ています」
「二人とも、危険な目に遭わせてごめんね。私、早く一人前になれるように頑張る
から」
「いいのよ、気にしないで」
「焦らないで修業に専念して」
レナは二人の友情を感じ、やる気が湧いてきた。
「今日も必ず一日で飛んで見せるから」
「よろしい、その意気だ。それではまず私がお手本を見せよう」
ゼルタクはホウキにまたがると、呪文を唱え始めた。
現実世界で魔法使いが飛ぶ姿など一度も見たことのないレナは、固唾を飲んで見
守った。
呪文と共にホウキは徐々に上がり始めた。
レナは思わず「ひっ」と声を上げ、口を押さえた。
十メートルほど上がったところでゼルタクがホウキの柄を前に倒し、川下に向か
って飛び出した。
「すごい! マジで飛んだ!」
ゼルタクは三周ほど空を旋回すると、三人の目の前に着地した。
「どうだ。飛行術は念を使うから疲れるが、飛んだ時の爽快感は魔法使いでなけれ
ば味わえない最高の気分だ」
「すごいです! 先生、早く教えてください」
「大丈夫かしら」
フィラが顔を曇らせる。
「私も心配。レナってパワーがすごいから」
「それは……私も心配だ。まだ強力なパワーを制御できないところがあるからな」
ゼルタクは二人の先輩魔女をレナから離れたところに連れてくると、小声で言っ
た。
「万一の場合を想定して、事故を未然に防ぐために協力してもらいたい」
「万一の場合とは?」
「光線の時のことを考えると、レナは一気に大気圏外近くまで飛び上がり、そのあ
と隕石のように燃えながら落下する恐れがある」
ゼルタクの後ろで聞いていたレナが半眼で聞く。
「何なんですか、それは」
「なんだ、聞いていたのか」
「私はちゃんと覚悟をしてやってます。包み隠さず本当のことを言ってください」
「分かった。君はまだ自分のパワーを使いこなせない面がある。それが熊より危険
なのだ」
「それではパワーをコントロールする術を教えてください」
「よろしい。みなぎってくるパワーを全て放出せずに、加減して出すのだ」
「そんなの無理!」
「ほらな。君は思ったことをストレートに出すだろう。『そんなの無理』と思った
ら、『できるかどうか自信がありませんが、努力してみます』と相手が師であるこ
とを配慮した言葉に変換して出さねばならんのだ。そうして初めて人間関係がうま
くいくわけだ」
「そんなのめんどい」
ゼルタクは溜め息をついて首を振り、
「またストレートに言葉を出したな。もう少し大人になれ。自分をコントロールで
きて初めて大人と言えるのだ」
「私、まだ大人じゃありませんから」
「それでは魔女になる前に、まず大人になれ。それもできんで万一陛下の蘇生に成
功しても、無礼なことを言うのではないかと心配だ」
「無礼なこと? 『唇が厚いですね』とか?」
「それだそれだ! 絶対に言うなよ! メラティス八世はご自分でも分厚い唇を気
にしておられたそうだからな」
「分かりました。『唇がお厚うございますね』と言えばいいんですね?」
「唇自体に触れてはいかんのだ!」
サマナがあくびをしながら、
「先生、早く修業を始めないと日が暮れますよ」
「いかん。こんなところで野宿などごめんだ。さあ、レナ。ホウキにまたがり、呪
文を唱えなさい。呪文は『イリステル・ラーク』だ。いいか、パワーを一気に解放
したら、お前は大気圏外近くまで飛び上がり、燃えながら落下することになる。く
れぐれもパワーを制御しつつ飛ぶのだぞ」
レナはゴクッと唾を飲んでうなずくと、呪文を唱え始めた。
他の三人はジリジリとレナから遠ざかる。
ゼルタクは女子二人より遠くから、へっぴり腰で見ている。
(ムカつく。こうなったら先生よりうまく飛んでやるわ)
レナの負けじ魂に火が付いた。
「イリステル・ラーク……イリステル・ラーク……イリステル・ラーク……」
やはり大自然の中にいるためか、光線を放った時と同じようなパワーがみなぎっ
てくるのを感じた。
(ヤバい。四尺玉の花火みたいに打ち上がっちゃいそう)
レナは必死でパワーをコントロールしようとした。
眉間に深いシワを寄せ、意識を集中し――せき止めたパワーを十パーセントだけ
出した。それでもホウキは一気に百メートルの高さまで飛び上がった。
「キャ―――――――ッ」
「レナ、落ち着け! もっと高度を下げるんだ。落ちても死なないぐらいの高さま
で」
「イリステル・ラーク……イリステル・ラーク……」
呪文を唱えながら、レナはホウキが下がるように念じた。
フィラとサマナは手を組み、祈りながら見ている。
地上五十メートルぐらいまで下がったところで、レナの体がバランスを崩し、左
に大きく傾いた。悲鳴を上げる二人の魔女と魔法使い。
「うわーっ」
「先生まで何叫んでるの!」
「早くレナを助けて!」
「レナ! 念をストップさせるなよ! ゆっくり体勢を立て直せ」
レナは涙目でうなずき、大きく傾いた体を必死で元に戻した。
「いいぞ! それじゃ、ホウキの柄を前に倒して前進しろ」
ゼルタクが言った次の瞬間、レナは遙かかなたまで弾丸のように飛んでいった。
「どこへ行くんだ――――っ」
レナの姿はあっという間に豆粒のように小さくなり――消えた。
「やっぱり並みのパワーじゃないわ」
フィラが呆然としてつぶやく。
「どこまで飛んでっちゃったのかな」
「うーん……北のほうだから、北極?」
「そんな……」
「今ごろ白熊と戦っているかもしれんな」
「先生! ふざけてる場合!? なんとかしてよ」
「なんとかしろったって、あんな遠くへ行っちまったものを、どうすればいいんだ」
「頼りないわねえ!」
「そうだ、テレパシーをレナに送るのよ」
「よし。やってみよう」
ゼルタクは目を閉じると、レナの顔を思い浮かべながら思念を送った。
レナのほうは顔に当たる強烈な風圧に叫び声を上げることもできず、必死にホウ
キにしがみついていた。
(どうしたらいいの……どうしたら帰れるの……誰か助けて)
前方から何か黒いものが近づいてきた。
ドン!
それは鈍い音を立ててレナの肩にぶつかり、下に落ちていった。
カラスだった。
バランスを崩したレナは、カラスの後を追うように落ちていった。
「キャ―――ッ」
目の前のカラスは地上すれすれで上昇した。
(私だって)
レナの負けじ魂に火が付いた。
必死でホウキの柄を引き上げ、上昇した。
「ああ、危なかった……」
右手を柄から離して額の汗を拭ったレナは、再びバランスを崩して落下した。
「キャ―――ッ」
叫びながら気を失いかけたその時、脳内にゼルタクの声が響いた。
〈レナ、どうした! 帰ってこい!〉
地表まであと五メートルのところでレナは我に返った。
(ヤバい)
ホウキの柄を引き上げ、一気に上昇した。
「危なかったーっ」
〈レナ、ホウキの柄を飛んできた方向に向けるんだ。早く帰ってこい!〉
「はい! いま帰ります」
「先生、レナ大丈夫かしら」
「ああ。『いま帰ります』って返事が来た」
「マジ?」
フィラとサマナが心配そうにレナの消えた北の空を見つめる――と、小さな点が
現れた。
「あ、レナじゃない!?」
「よかった、帰ってきた!」
レナは拍手をする先輩魔女達の前に下り立つと、地面にへたり込んだ。
「よくやった。私のテレパシーをキャッチしたようだな」
「はい。気を失いかけた時、先生が呼びかけてくれたお陰で死なずに済みました」
「お前の命を助けたのはこれで二回目だな」
「はい。お世話になります。いつもドジばかりですいません」
「まあ、いい。大気圏外まで飛ばないで良かった。お前にしちゃ上出来だ」
「そうすると、飛行術は合格ですか?」
「いいだろう」
「レナ、よかったね!」
「私達には出せないようなスピードで飛んでいたよ! カッコよかった」
「ありがとう……二人のお陰よ」
「私達は何もやってないわ。見ていただけ」
「いいえ、見守ってくれているだけで心強いの。フィラとサマナにはマジ感謝して
る」
「さあ、みんな。日が暮れないうちに早く帰ろう」
ゼルタクにうながされ、三人はしゃべりながら歩き出した。
「熊が出なくて良かったねー」
「ここらへんに出る灰色熊って、三メートルもあるんだって」
「マジ!? そんなに大きいんじゃ、光線浴びせても効かないね」
「レナがやれば、死んじゃうでしょ」
「そうだよね、レナってマジすごい……」
フィラは息を飲んでレナの足元を見た。
「どうしたの?」
レナが不安そうな顔で聞くと、フィラは小さな声で言った。
「止まって。動かないで」
「ど、どうしたの?」
フィラは無言でレナの足元に手の平をかざすと、光線を放った。
バチッという音と共に、何かが倒れる小さな音がした。
「何……? 何なの?」
レナが足元を見ると、一匹の蛇が伸びていた。
「キャーッ」
蛇が苦手なレナは、飛び上がった。
「大丈夫よ、気絶しているから」
「いやーっ、気持ち悪い」
「どうしたんだ! 大丈夫か」
フィラが震えながら、
「先生、蛇が出たんです。鎌首をもたげてレナに飛びかかろうとしていました」
「これはコブラだな。噛まれていたら死んでいたぞ」
「フィラ……ありがとう。また助けてもらって」
「気にしないで。私の役目を果たしただけだから」
「フィラ、すごい。私だったら悲鳴を上げて逃げ出していたかも」
「私だって蛇は大嫌いだけど、レナを助けなきゃって必死だったのよ」
「敵はゾンビだけではない。大自然の中にもたくさんいるということだ。人間の作
り出した都市で暮らす我々は忘れ去っているがな」
四人は足元に細心の注意を払いながら、渓谷から去った。
「レナ。こんな時間までどこに行ってたの?」
すっかり日が落ちてから帰宅した娘に、母親のジーラは眉をひそめる。
「えっと、友達の家」
「友達? そんなのいるの? 進学校よ。周りはライバルだらけじゃないの?」
「学校の友達じゃないよ。趣味の集まりの友達」
「趣味って何よ」
「えっと……手品」
「手品? ふーん。それじゃ、私に見せてよ」
「駄目だよ。家が吹っ飛ぶもん」
「何それ」
「私は普通の人よりパワーがあるから、危険なんだって。教えてくれる先生が言っ
てた」
「なんか、全部作り話っぽい。本当は彼氏ができたんでしょ」
「違うよ! 私の青春はそんなに楽しくないの」
「手品を見せてくれないなら、信じないからね」
そう言うと、ジーラは引き出しからトランプを取り出し、持ってきた。
レナは焦った。魔法はかなりの数を習得したが、手品は一つもできないのだ。
「さあ、このトランプで手品を見せてちょうだい」
「いいよ」
レナはトランプを切りながら必死に考えた。
(そうだ、手品に魔法を使えばいいんだ)
レナはトランプを母親に渡して言った。
「後ろを向いて、トランプを切って。それから一枚だけカードを抜いて、それを憶
えて」
ジーラはうなずくとトランプを持ち、後ろを向いた。
レナはバッグから素早く手の平サイズの水晶を取り出すと、透視を始めた。
透明な水晶に母親の映像が浮かぶ。
トランプを切ったジーラは、カードを一枚抜き出した。
ダイヤの六だった。
すぐにそのカードを束の中に返すと、ジーラは振り向いてニヤリとした。
「憶えたわよ」
素早く水晶をバッグに戻したレナは、自信満々で言った。
「もしカードを当てたら、お小遣い上げて」
「図々しい。カンケーないでしょ」
一応言ってみたのだが、駄目だった。レナは肩をすくめるとカードを受け取り、
中からダイヤの六を探し、母親に見せた。
「これじゃない?」
「当たり! すごいわね」
「彼氏とデートじゃなくて、手品やってるって信じてくれる?」
「信じるけど、もうやめなさい」
「なんで!」
「もちろん勉強に差し支えるからよ。毎日猛勉強しても付いていけるか分からない
進学校にいるのよ?」
「大丈夫! 絶対に勉強と両立させるから」
「……」
「もし両立できなかったら、お小遣い減らしてもいいから!」
「その言葉」
戴きました、と言いながらジーラはメモ帳に書いた。
翌日、レナは泣きながらゼルタクに訴えた。
「私、お小遣い減らされます」
「なんでだ」
「母に魔法修業じゃなくて手品習ってるって言ったんです。そしたら『勉強に差し
支えるから、やめなさい』って言われたんです。それで両立できなかったらお小遣
い減らしてもいいって言っちゃったんです」
「そうか。それは確実にお小遣いを減らされることになるな」
「シラッとした顔で言わないでください!」
「ははは、冗談だ」
ゼルタクはレナの肩に手を置き、励ますように言った。
「頑張るんだ。君なら両立できる」
「簡単に言わないでください! 私の記憶力じゃ無理です」
「分かった、分かった。それじゃ、今日は超記憶術を教えてやろう。これも魔術の
一つだ」
「超記憶術?」
「ああ。見たものを写真のように記憶してしまう術だ。この術で教科書を丸暗記す
れば、テストは楽勝だろう」
「助かります! 早く教えてください」
「よろしい」
その日の修業を終えると、レナは笑顔で休憩室に現れた。
「あら、珍しくうれしそうね」
サマナが出来立てのクッキーをテーブルに置きながら言った。
「だって、お小遣い減らされずに済むから」
「何それ」
「超記憶術を教えてもらったから、勉強と修業が両立できそうなの。今日は初めて
魔法をやって良かったと思った」
「私も魔法が使えるようになって良かったって思ってる」
二人の会話を聞いていたフィラは肩をすくめた。
「あなた達は若いから、そう言えるのよ。私なんか普通の女の子でいたほうが良か
ったって思うわ」
先輩の切実な口調に若い二人は黙り込んだ。
「今日だって、クッキー焼きながら『これが夫や子供達のために焼いてるクッキー
だったら、どんなに楽しかっただろう』って思った。レナ、ごめんね」
「いえ……」
鼻の奥がツンとなって、レナはそれ以上何も言えなかった。
フィラは十分家庭的な女性なのだ。それをゼルタクに見出されたばかりに魔女に
なり、今は魔女修業をしている後輩の世話をしているのだが、本当は自分の夫や子
供の世話をしたいに違いない。
「このクッキーおいしい……フィラ、いつもありがとう……本当にごめんなさい」
「あなたが謝る必要ないわ」
「フィラの気持ちに気付かないで『魔法をやって良かった』なんてうれしそうに言
ってしまって……本当は普通に生きていたほうが幸せだったのよね」
「ごめん、いま私の言ったこと全部忘れて。魔法修業に少しでも疑念を持ったら、
続けられなくなるから」
「超記憶術のせいで忘れられないの」
「それはヤバいわ」
サマナが苦笑し、
「魔法って諸刃の剣みたいなところがあるよね」
窓が外から開き、マザルスが顔を出した。
「その通り。魔法に限らず、人間の作り出したあらゆる技術が諸刃の剣になり得る
のだ」
「代表! 立ち聞きはやめてくださいよ」
「レナ君。私の睨んだ通り、君はホンマモンだ。誰よりも才能とパワーを持ってい
る。修業もあと少しで完成だ。どうか迷うことなくやり遂げて欲しい。それによっ
て、この国がユートピアになり、君達の子孫も安泰に暮らせるようになるのだ。そ
れとも今のラウェール王国がこのまま続いて、君達の子や孫が幸せに暮らしていけ
ると思うかね」
「……思えません」
フィラがレナの代わりに答えた。
「そうだろう。だから自分達の目先の幸せを追わず、今は修業に専念すべきなんだ
よ」
「代表! フィラを責めないで。私、何度も彼女に命を救われているんです。彼女
に励ましてもらえなかったら、とっくの昔に修業をやめていました」
サマナもうなずき、
「そうよ、フィラは女としての幸せを犠牲にして、最大限努力しているんだわ。そ
れがどんなに大変か、代表みたいな爺さんには分からないと思う」
「そうだそうだ、ジジイは引っ込んでろ」
「レナ!」
フィラがあわてて後輩の口をふさごうとしたが、レナはサマナと肩を組み、「帰
れ」コールを繰り返した。
マザルスは半眼で窓を閉めた。
レナは泣きながらフィラに抱きついて言った。
「ジジイは撃退したよ!」
「レナったら。代表は窓の外で聞いているわよ」
「いいよ、聞いていたって。私は言いたいことを言っただけ」
「いいわね……言いたいことが言える勇気があって」
「私にとって一番大切なフィラのこと、何だかんだ言うんだもん。だからキレちゃ
った」
「そうだよ、代表が悪いんだよ。外で聞いてるなら、反省したほうがいいよ」
「二人共、やめなさい」
「はい」
「ネガティブなことを言った私が悪かったの。代表の指摘はもっともだわ。私のほ
うが反省しなくちゃ」
「フィラって、本当に良い人……」
きっと結婚すれば素晴らしい妻、賢い母になれるだろう。それを自分のために尽
くしてくれている。
「ごめん。やっぱり私、フィラがいないと駄目。これからも私を助けて」
「もちろんよ。さ、クッキーを食べましょう」
窓の向こうで楽しそうなガールズトークを聞きながら、マザルスは危惧していた。
(レナはフィラに依存し過ぎている)
フィラという支柱によって崩れそうになる自分を保っているのが今のレナだった。
自分自身が鉄柱のように強くならねば修業が完成できるか心許ない。
(しかしそれを言ってもジジイ呼ばわりされるだけだ)
年頃の娘達を指導する難しさに頭を抱えるジジイのマザルスだった。
翌日の朝、フィラは一人で買い物に出掛けた。
その日はレナのためにオレンジケーキを作る予定だったので、市場に行き、オレ
ンジを五、六個買い込んだ。
紙袋を抱えて歩いていると、前方から幸せそうなカップルが腕を組んで歩いてき
た。二人とも自分と同じぐらいの世代だ。
自分も普通の女の子だったら、彼氏ぐらいいたはず――と思いながら思わず二人
を目で追ってしまった。そして歩道の段差に気付かず、コケてしまった。
紙袋からオレンジが飛び出し、転がっていった。魔法でオレンジを掻き集めるこ
ともできたが、公衆の面前でそんなことをしたら大騒ぎになる。焦って一個一個拾
っていると、誰かが手伝ってくれた。
「すいません」
「いえいえ」
笑顔で紙袋にオレンジを入れてくれたのは、自分と同い年ぐらいのイケメンだっ
た。
フィラは一瞬で恋に落ちた。そして、それは青年も同じだった。少し赤い顔で最
後の一個を紙袋に入れ、
「これで全部入れただよ」
訛り丸出しで言った。
「ありがとうございます。地方から出てこられた方ですか?」
「んだ。昨日ここに来たばっかだ。何がどこにあるのかさっぱり分かんねえで、困
っとるんよ」
「あの……よろしければ私がご案内しましょうか。都会には危険な場所もあります
から、教えて差し上げます」
「ほんまけ? そうしてもらえると助かるべ」
顔を輝かせる青年に、フィラもとっておきの笑顔を返した。
「これ、おいしーい」
フィラの作ったオレンジケーキを頬張るレナ。
「そう? よかった。サマナのアシストがいいから」
「私なんか大した事してないよ」
「二人共ありがとう……三人でお菓子を食べるこの時間だけが生きがいよ」
「どうしたの。今日の修業はハードだった?」
「もう、どうなることかと思った。変身の術をやったんだけど、猿のまま元に戻ら
なくなっちゃったの」
「ええーっ、大変じゃん! どうやって戻ったの」
サマナは身を乗り出したが、フィラはぼんやりと紅茶を飲んでいる。
レナは変だなと思いながら、トレーニング中の騒動を語り出した。
「先生が呪文を教えてくれて、うまく猿になれたのよ。ところが戻る呪文をはっき
り言えないの」
「そりゃしょうがないわよ。猿になってるんだから」
「私、パニクっちゃって、泣きながら呪文を唱え続けたわ」
「可哀相」
サマナは涙目になったが、フィラはオレンジケーキを見て微笑んでいる。今日出
会った青年の顔が浮かんだのだ。
(フィラったら。ここは笑うところじゃないのに)
レナは怪訝そうな顔で続ける。
「一生このまま猿なのかなって思うとテンパっちゃって、呂律が回らなくなって、
先生に『呪文を唱えるのをやめろ』って言われたの」
「呪文をやめたらマジで猿のままじゃん」
サマナが驚いたように突っ込みを入れたが、フィラは幸せそうにケーキを口に入
れている。レナはムカついてきた。
「それで呪文をいったんやめて、気持ちを落ち着けてから唱えたらうまく言えて元
に戻れたの。終わり」
「あっそう」
これから盛り上がると思っていたサマナは拍子抜けしたような顔をしている。
フィラは相変わらず別世界にいるような微笑みを浮かべ、ケーキを食べている。
(なんなの、あの幸せそうな顔。私はこんなに苦しんでいるのに……。親友なら同
情してくれて当然じゃない)
口に出して抗議することもできないので、レナは不機嫌そうに黙々とケーキを食
べている。サマナは気まずい雰囲気を妙に思いながらも気を取り直し、レナを誉め
た。
「でもこれで変身の術が体得できて良かったじゃん。一日でマスターするなんてす
ごいよ。私なんか三日も掛かったもん」
「だって何日もダラダラ続けたくないから、全身全霊でやるの。明日は日曜だから、
また野外トレーニングよ。何だと思う? 川渡りの術!」
「ええっ、水の上を歩くやつ? 私、やったことない。レナは特別にやるのかな」
「そうなの? なんで私だけそんな危険な術をやらなきゃならないのかな。私、泳
げないの。川に落ちたら死んじゃうかも。でも、その時はフィラが助けてくれるか
な」
「フィラは泳ぎが上手だよ。私は駄目だけど。ねえ、フィラ」
「えっ、何?」
「聞いてなかったの?」
レナが眉を寄せる。
「ごめん。ちょっと考え事してて」
「何考えてたの?」
「うん……ちょっと」
レナは自分だけの秘密を持ったらしいフィラに不審な思いを抱いた。
(何でも話せるのが親友なのに)
おいしかったケーキが急に味気なく感じられて、レナはフォークを置いた。
「もう帰ろうかな」
「えっ、もう帰るの?」
サマナが驚いて聞いた。レナが食べないと大量に余ってしまう。
「うん。今日は猿になったせいか食欲がなくて」
首をかしげる先輩達を残して、レナは休憩室から出ていった。
外は夕闇が迫っている。
レナは急にフィラの心が遠のいたように感じて、寂しかった。
自分が死ぬかどうかという話をしているのに、耳にも入らなかったのだ。レナは
守護天使に見捨てられたような気分にさえなっていた。
きっとフィラに何かが起きたに違いない。親友がどうなってもいいぐらいのこと
が。そして、あの幸せそうな顔から察すると、それは楽しいことなのだ。どんな楽
しいことなのかは分からなかったが。
翌日、レナは青い顔で屋敷にやってきた。
「先生、浮輪と水着を持ってきました」
「何なんだ、それは。そんなもの使う必要はない」
「なんでですか!? 私、泳げないんです。水上歩行に失敗したら、溺れてしまい
ます」
「溺れたくなかったら、術を成功させることだ。水着を着て浮輪を持ってやるなん
て、失敗を想定してやっているようなものではないか。そういう心掛けが失敗を招
くのだ。成功させるか、死ぬかというギリギリの気持ちになって、初めて超人的な
パワーを発揮できるのだ。だから、浮輪なんか持っちゃ駄目だ」
「そんな……」
「先生、レナが可哀相じゃない」
サマナが抗議する横にフィラがいない。
「フィラはどうしたの?」
レナが怪訝そうに聞くと、
「それが高熱を出して病院に行っちゃったのよ。風邪かもしれない」
「えっ、マジ?」
レナは背中に悪寒が走るのを感じた。フィラがいないことで自分は運に見放され、
術に失敗するかもしれない。
「私……怖い。今日、死ぬかもしれない」
「レナ、縁起でもないこと言わないで! 絶対大丈夫だよ」
「さよう、そういう信念が大切だ。第一フィラがいないと何もできないようじゃ、
一人前の魔女にはなれん。彼女がいないのは君にとって良い修業になる。何かあっ
ても助けてくれる者はいないからな。甘えを捨てて自力でやり遂げることだ」
レナは返事をせず、うつむいて涙をこぼした。
「先生、レナはまだ十六の女の子なんだよ! それを命懸けの修業ばっかやらせて
……可哀相だよ!」
「命懸けの修業は君だってやったじゃないか」
「そうだけど、水上歩行なんてやらなかった」
「レナには必ずそれができるだけのパワーがあるから、やらせるのだ。レナ。私を、
そして自分の力を信じるんだ」
レナは首を縦に振らず、なおも黙って涙を流すだけだった。
ゼルタクは二人の弟子を再び飛行術を行った峡谷に連れてきた。
川の深さは一メートルほどだったが、流れが急で、立つことも泳ぐこともできそ
うにない。
「いいか、向こう岸までわずか十メートルだ。水上を歩行すると言うより、水の上
を浮揚して歩くのだ。その際、うまくバランスを取らねばならない。横に倒れたら
水にはまって川下まで一気に流されるからな」
レナは薄笑いを浮かべ、
「海に流れ着くまでには死体になってますね」
「そういう悲観的なことを考えるな。何事も成功するビジョンだけを持ってやるこ
とが肝心だ」
「成功するビジョンが描けません」
「いかんぞ、そういう弱気は!」
「レナならできる。レナならできるよ! 火山みたいにパワーのある子だもん」
「何それ」
「さあ、それでは始めるぞ。胸のあたりで印を組みなさい。呪文は『ラール・モア
ップ』だ。この呪文を唱えると肉体が霊化して軽くなるのだ。しかし、軽くなって
いるだけにバランスを崩しやすい。体が倒れないように真ん中に重心を保持して歩
くんだぞ」
(もし川に流されても……助けてくれるフィラはいないんだ)
レナは不安でぐらつく気持ちを必死で押し殺しながら、呪文を唱え始めた。
「いいか、あくまで肉体を軽くするのだ。飛び上がっちゃ駄目だぞ」
(花火じゃないっての)
レナはこめかみに青筋を立てながら呪文を続ける。
数分もすると、自分の体が風船のように軽くなったように感じられた。
「今だ! 川を渡れ」
ゼルタクの声が飛ぶと、レナは流れの上に足を載せた。足裏に水の冷たさは感じ
ない。水に触れることなく川の上に浮いているのだ。
「その調子だ! 次は左足を載せろ」
レナが恐る恐る左足を川面に載せた瞬間、後ろにのけぞり、倒れそうになった。
「頑張れ!」
サマナの叫び声が谷間に響き渡る。レナはなんとか体勢を立て直すと、手でバラ
ンスを取りながら歩を進めた。
「いいぞ、あと少しだ!」
ゼルタクが叫んだ次の瞬間、谷間に突風が吹いた。風船のように軽くなっている
レナの体は上空に吹き上げられ、川の中に落ちた。
「助けて―――っ」
術が解けて重くなったレナの体は、川面に頭だけ出して流されていく。
ゼルタクは眉を寄せた。
「ヤバいな」
「言ってる場合じゃないでしょっ、早くレナを助けてよ!」
サマナに突き飛ばされ、ゼルタクは川に落ちた。
「助けてくれ―――っ」
「ウソでしょ」
自分も泳げないサマナは、流されていく二人を見守るしかなかった。
レナは自分で何とかするしかないと悟り、必死で前方の岩にしがみついた。そこ
へゼルタクも流れてきた。
「レナ、大丈夫か!? 助けにきたぞ」
岩の上から半眼で手を差し伸べるレナ。
「先生、つかまって」
「おう、すまんな」
二人は岩の上で荒い呼吸をしていたが、やがてレナが皮肉っぽく言った。
「やっぱり浮輪を付けていれば良かったのよ」
「いや、そんなものを付けていたら、君は川の上を歩けなかっただろう」
「私じゃなくて先生がよ」
「ああ、そうだな。しかしこんな事態になるとは思わなかったのだ。君は必ず川を
渡ると信じていたからな。あそこで突風が吹くとは想定外だった」
「そうすると、私はこの術をマスターしたんですね?」
「ああ、いいだろう。風さえ吹かなかったら、君は向こう岸に着いていたはずだ」
「よかった……二度とこんな事したくない」
「せんせーい! レナー!」
サマナが川べりの小屋から探したホウキに乗って飛んできた。
「後ろに乗って!」
「サマナ、でかした!」
「二人は乗せられないから、まずレナが乗って」
「ありがとう」
ホウキで岸に着地したレナは、サマナにすがりついて号泣した。
「今度こそ死ぬと思った」
「私もどうなることかと思った。助かって良かったね!」
「嫌な予感がしたの……フィラがいなかったから。でも、サマナも頼りになる……
あなたも命の恩人よ」
「そんな、気にしないで。当たり前のことをしただけなんだから」
「もう、ビショビショになっちゃった。お気に入りの服なのに」
「すっごく可愛いよね、このブラウス。どこで買ったの?」
「ミトゥルデパートの三階。あそこ、センスのいい服がいっぱいあるよ」
「マジ?」
「こらーっ、何をガールズトークやってんだ! 早く来い!」
ゼルタクが岩の上で絶叫した。
サマナは泳げない師匠を半眼で見ながら言った。
「はいはい、いま助けに参りますから、落ち着いてください」
こめかみをピクつかせるゼルタク。
サマナがホウキで飛んでいくと、気取った素振りで手を出した。
「ホウキを私に寄越しなさい。君は後ろに乗り給え」
サマナは肩をすくめると、ホウキをゼルタクに渡した。
「見栄張っちゃって」
つぶやくレナの前にホウキに乗った二人が飛んできた。
サマナを下ろし、自分もカッコよくホウキから下りたゼルタクは、二人に言った。
「今日はひどい目に遭わせてしまったな。二人とも疲れているだろう。ホウキの後
ろに乗り給え。ハラル駅近くの野原まで運んでやる」
「えーっ、二人も乗せて飛べるんですか?」
「先生にそんな体力あるの?」
「体力ではない。使うのは念力だ。二人の人間を背負って歩くのは不可能でも、ホ
ウキに乗せて念力で飛ぶことならできるわけだ。さあ、乗りなさい」
レナとサマナは不安そうな顔でホウキをまたいだ。
「しっかりつかまっていろよ」
ゼルタクは呪文を唱えて精神統一した。
ホウキはゆっくりと五メートルほど上昇した。その時点で既にゼルタクの額には
玉のような汗が噴き出していた。
(重い)
ゼルタクはさらに念を込めて高度を上げると、駅に向かって飛び始めた。しかし
速度が遅い上に左右にゆらゆらと揺れている。
「先生、大丈夫?」
レナが後ろで心配そうに聞いた。
「ああ、心配するな。速度を上げるから、しっかりつかまれ」
ゼルタクは呪文を唱え、念を込めたが、相変わらずゆっくりとしたスピードだっ
た。後ろからカラスが追い抜いていく。
「バカァ」
「先生、カラスに馬鹿にされた」
「うるさいな、ほっとけ」
「先生、地上を歩いたほうが早いよ」
「お前、カラスと一緒に俺を馬鹿にするのか」
「だって、のろいしフラフラしているじゃない。駅に着く前に落ちるかも」
「大丈夫だ!」
ゼルタクが叫んだ次の瞬間、ホウキが急降下した。
悲鳴を上げるレナとサマナ。
「大丈夫だ!」
地面すれすれで上昇し、なんとか水平飛行に入った。
「ぜんっぜん大丈夫じゃない!」
「先生、無理なことはやめて!」
「君達は私の負けじ魂に火を付けた」
ゼルタクは降下と上昇を繰り返し、なんとか目的地に到着した。
「先生! 歩くより倍も時間が掛かったじゃん」
「悪かったよ……」
ゼルタクは大の字に伸びたまま謝った。
それから一週間が過ぎた。
その日、レナが修業を終えて休憩室に入ると、サマナが一人でテーブルの前に座
っていた。
「フィラは?」
「また熱を出して、病院に行ったのよ」
「えっ、また風邪を引いたの?」
「風邪じゃないみたい。お医者さんにも分からない病気らしいわ」
「この前は一日で治ったよね。次の日、元気になっていたから」
「そうよね。変な病気でないといいんだけど」
フィラとサマナは『希望の蘇り』に所属している魔法使いの助手をしていたが、
レナのサポート役を任されてから、ゼルタクの屋敷に泊まり込んでいた。
夜遅くに帰ってきたフィラに、サマナは眉を寄せた。
「こんな時間まで何していたの?」
「もちろん、病院で寝ていたのよ。お陰ですっかり熱が引いたわ」
「そう……一体、なんて言う病気なの?」
「さあ? お医者さんも分からないから、お薬ももらってないのよ。栄養剤を打っ
てもらったぐらい」
全てウソだった。
フィラは青年とデートを重ねていたのだ。そして、そのために魔術で一時的に高
熱を出し、屋敷を出てから平熱に戻していた。
一カ月後にそれは発覚した。
レナとサマナが二人で腕を組んで町を歩いている時に、ばったり青年と一緒のフ
ィラに会ったのだ。
レナは魔法で男性に変身しており、サマナと町を一周してくるという修業の最中
だった。
「よく化けてるわ。誰もあなたが女だなんて思わないみたい」
サマナは笑いをこらえながら言った。
「なんか男の体って気持ち悪い。早く戻りたい。ねえ、早く帰りましょ」
レナが足を速めたその時、前方から青年と腕を組んだフィラが近づいてきた。
「フィラ! フィラじゃないの。病院にいるんじゃ……その人、誰!?」
サマナがびっくりして声を掛けると、フィラは青い顔で足を止めた。
顔面蒼白になったのはレナも同じだった。
「フィラ、その人彼氏? 彼氏がいたのね」
「なんてこと……彼氏がいたなんて」
「サマナだってオネエの彼氏がいたのね」
「違うわ、これは彼氏じゃなくてレナよ」
「レナ? 信じらんない! よく化けているわね。シャツからのぞいた胸毛がセク
シーよ」
「ありがとう……って、そんなことどうでもいいわ! 私がキモい思いをしながら
修業している最中に、彼氏とデートを楽しむなんてひどいじゃない」
フィラは眉を垂れてうつむいたが、謝ろうとしない。
「こちらさん達はお友達け?」
青年が笑顔で聞いたが、フィラは返事をせず、彼の腕を引っ張り近くのファース
トフード店に入ってしまった。
「何かしら、あの態度」
サマナが鼻の穴をピクつかせる。
「ひどい……ひど過ぎる……」
レナは毛深い手でポケットから花柄のハンカチを出し、しきりに涙を拭いている。
「花柄はまずいんじゃない」
「だって、先生がシャツとズボンしか用意してくれなかったから」
レナにとってフィラが恋人を作っていたことは、熊や蛇に襲われたとき以上の衝
撃だった。
結局、その日を最後にフィラは屋敷に帰ってこなかった。
レナとサマナは自分達の目撃したことを黙っていたが、ゼルタクに問い詰められ、
白状した。
「恋人を作って駆け落ち……フィラがそんなことを!」
レナも同じ気持ちだったので、彼女をかばう言葉は出てこなかった。サマナだけ
は年が近いだけにフィラの行動を責める気にはなれなかった。
「先生、許してやって。きっと彼女、幸せな家庭が欲しかったんだと思う。そして、
理想の男性と出会ってしまったのよ。だから、しょうがないと思うの」
「しょうがないだと!? 黙って組織を抜けることはご法度だ。本来なら殺されて
も文句は言えんのだ」
殺すと聞いて、レナはびっくりした。
「なんでですか!? フィラは私を二度も助けてくれたんですよ。私を助けたとい
うことは、『希望の蘇り』を助けたも同然です。私の恩人はこの組織の恩人でもあ
るんです。それを殺すだなんて、人権に反する思想です。人権に反する思想の団体
が作る社会なんて、今の社会と同じ人権を無視した社会に決まってます」
ゼルタクは言い返すことができず、沈黙した。そして何とか反論しようと思った
が、言葉が思い付かなかった。
「お前……けっこう頭いいな。さすがは進学校の生徒だ」
「フィラを殺すなんて考えませんね?」
「ああ。我々の計画をしゃべるんじゃないかと心配だが」
「フィラはそんなことしません。しゃべるということは私達を敵に渡すのも同然の
行為です。フィラはそんな非情な人じゃありません。だから私は大好きでした。今
の世の中にこんな心の温かい人がいるんだって、心からうれしかったんです」
「しかし、フィラは君の友情を裏切って、男に走ったんだぞ」
今度はレナが言い返すことができずに沈黙した。
「まあいい。フィラの良識を信じて、彼女の居場所は探すまい。レナも早くフィラ
のことは忘れて、修業に専念することだ」
「はい……頑張ります」
そうは言ったものの、修業中何度もフィラの幸せそうな顔がよぎるようになった。
自分はこんなにキツい思いをしているのに、彼女は今ごろ彼氏と楽しく暮らして
いるのだ。私を助けると誓ってくれたはずなのに。
「おい、何を考えているんだ」
ゼルタクの声に我に返るレナ。
「別に」
「分かってる。フィラのことだろう。それがジェラシーなんだ。彼女は彼氏と楽し
くやっているのに、自分は一人で戦わねばならない――ってな」
「……」
「フィラはほとんどの人間が生きる凡庸な人生を選んだんだ。子供を作って死ぬだ
けの、他の動物と変わりない凡庸な人生をな」
レナは納得がいかず、険しい表情で黙り込んでいる。
「なんだ、何か言いたいことがあるのか? 反抗心を抑え込んでも精神衛生上よく
ない。遠慮なく言い給え」
「言います……私だって、彼氏が欲しい! 『レナ、よくやってるね』って慰めて
くれる彼氏が!」
「レナ、よくやってるね」
「ふざけないで!」
「別にふざけているわけではない。リクエストにお応えしただけだ」
「先生は彼氏の代用になんかならない。だって、トシだから」
「なんだとっ」
「分かってるの。先生は若作りしているアラフォーよ。世代が違うの」
「私はアラフォーではない。あくまで年齢不詳だ」
「先生みたいな若作りのオジサンじゃなくて、同じ世代の話の合う子がいいの。そ
ういう子とおいしい物を食べたり、旅行したりしたいの。そしてロマンチックな夜
を過ごしたいの」
「どうでもいいけど、男に変身している姿で言われるとキモいな」
「もう、いやっ。なんでこんな姿にならなきゃならないの!?」
「サマナから『女言葉を使っていた』と報告を受けたからだ。男に変身している時
は男になりきらねばならん。今はその修業をしているのだろう。それなのに、さっ
きからオネエみたいに女言葉ばかりじゃないか。それではカンペキに男に化けたと
は言えん」
「分かったよ! 男っぽく言えばいいんだろう。俺だって彼氏が欲しいんだ! 自
分と同じ世代の子と、飯食ったり、旅行したり、ロマンチックな夜を過ごしてえん
だよ!」
「それでいいが、ますますキモくなったな」
「ほっとけ!」
「で、君の名前は?」
「レナ……オ・ドーズだ」
「よろしい。君にプレゼントをあげよう。手を出し給え」
レナが毛深い手を出すと、ゼルタクは何やら茶色く柔らかい物を載せた。
よく見るとイボガエルだった。
「キャ―――ッ」
「それがいかんのだ!」
「いやーっ、カエル!」
「女にカエルのはいかんと言ってるだろっ」
「つまらねえダジャレ言うなよ!」
「よろしい。いかに興奮したり驚いたりしても、そうやって男になりきらねばなら
んのだ」
「それじゃ、変身の術は合格か?」
「いいだろう」
「キャ――ッ、やった~~~」
「不合格!」
「え―――っ」
苦労しながら様々な術を体得し、修業を始めてから三カ月が過ぎようとしていた。
レナは未だにフィラのことを毎日思い出していた。
修業の最中はなんとか心の中から追い出していたが、フィラに対する心配と羨望
が消せなかったのだ。
(今ごろ何をしているんだろう。彼氏さんと幸せにやっているのかな)
できれば彼氏に捨てられて戻ってきて欲しかった。
フィラの不幸を願うような自分に嫌悪を感じながらゼルタクの屋敷に向かってい
る時、レナは彼女を目撃した。買い物カゴを持ったエプロン姿のフィラを――。
(結婚したんだ)
フィラの顔は穏やかで幸せそうだった。
幸せと安心感――。自分が今まで一度も感じたことのない気持ちだ。
トレーニングルームに入ったレナの目は吊り上がっていた。
「どうしたんだ、その顔は」
ゼルタクに指摘され、レナは彼を睨みつけた。だいたいこの男が自分をこんな奇
妙な世界に引きずり込んだのだ。
「……」
「何があったんだ」
「何も。早く修業を始めてください」
「いいだろう。今日は君が習得すべき最後の術だ」
「マジ!? それじゃ、これをマスターしたら卒業ね!」
「ああ、いよいよメラティス八世の蘇りと救出のため、ゾンビどもと戦ってもらう
ことになる。頑張ってくれ」
レナは溜め息をついた。
卒業したから解放されるわけではないのだ。これからさらに過酷な戦いが自分を
待っている――フィラは温かい家庭で夫に守られ、楽しく暮らしていると言うのに。
(私みたいな不幸な女の子、どこにもいないわ)
「それでは今日やるのは火渡りの術だ。庭に出なさい」
「火渡りの術!?」
「ああ、熱した炭火の上を歩く術だ」
「この炎天下に火の上を歩くんですか!?」
「魔法使いは暑いだの寒いだのに左右されずに術を駆使できなければいかん。さあ、
まず暖炉に火をおこして炭をくべなさい」
レナは涙目で暖炉に炭を入れながらつぶやいた。
「フィラは今ごろ夫の帰りを待ちながら夕飯を作っているんだろうな。フィラの料
理、おいしいだろうな。お菓子があれだけおいしかったんだもの。彼氏の胃袋をが
っちりつかんだのよ。だからゴールインできたんだ」
「おい、なに独り言いってるんだ」
「グチってるんです」
「今からそういう雑念は消さんといかん。火渡りに失敗して足にヤケドするぞ」
「フィラは楽しく夫と食事……私は足に大ヤケド……不公平過ぎる!」
「おい、雑念は消せと言ってるんだ!」
レナは被っている帽子を床にたたきつけて「やめてやる!」と叫びたかったが、
何も被っていないのでできなかった。
ただ、全身を震わせて泣いた。
「なんでこんな事やらなきゃいけないの……私はカルト教団に引っかかっただけな
のよ」
「なんだって、『希望の蘇り』をカルトだと言うのか。それでは、この殺伐とした
社会はカルトと違って正常な世界だってのか」
「……」
「分かっている。君はフィラに対するジェラシーで自分を見失っているんだ。他人
の幸せに嫉妬する女特有の感情に我を失っているんだ。あー、醜い醜い」
「何よ! 男の先生には私の気持ちなんて分からないわ。なんで私がこんな惨めな
思いをしてまでこの世を救わなきゃならないのよっ」
「君しかできないからだ! 君がやらなくて誰がやるんだ」
「他にもっと才能のある人がいるんじゃない? 私じゃないと思うわ。私みたいに
心が弱い女の子にはとてもこんな」
「ゴマ化すんじゃない。修業をすればするほど、自分みたいにパワーのある人間は
どこにもいないと自覚しているはずだ」
「そんなことない!」
レナに睨まれ、ゼルタクは全身をけいれんさせた。
「ほほほほらほらほらな。おおお前のパワパワパワーはすすすごごご」
レナはあわててゼルタクから視線を外した。
「ごめんなさい」
ゼルタクは呼吸を整えると、額の汗を拭き、
「まあいい。早くその炭火をバケツに入れて、庭に出なさい」
「できない!」
「できる! 今までだってやれたじゃないか。これで終わりなんだぞ!? 最後ま
でやり遂げないなら、君はこの先しんどい状況になったら必ず逃げるだろう。結婚
生活だって、しんどい状況になったら耐えられずに離婚するだろう」
レナは心臓を刺されたようにビクッとなった。
辛くなったら逃げ出そうとする気持ち――これが自分を成功や幸福から遠ざける
敵なのだろうか。
「これで最後……これで終わり……」
レナは熱した炭火を見つめながらつぶやく。
「そうだ。ジェラシーも疑念も不安も捨て去り、自分のやるべきことに集中すれば、
君はとてつもないことを成就する。それこそ自分の命を懸けるに値するのだ。そう
思わないか?」
「……やります。ここで逃げたら一生負け犬の気持ちを引きずることになるから」
「よろしい。頑張りなさい」
レナは庭に熱した炭を並べた。距離にして三メートルもない。
「ほら、たったこれだけの長さだ。チャチャッと歩けばどうってことない」
「先生。簡単に言わないでください。たった一個の炭火だって足を載せたらどうな
るか」
「そりゃ、普通の人間は大ヤケドだ。しかし呪文を唱え、トランス状態に入ること
によって、君は熱さを感じなくなる。そして、冷たい石の上を歩いているような感
覚で渡りきれるだろう」
「そう簡単に言わないで。全然自信がありません」
「自信などなくていい。自信も不安も超越するのだ。火とは生き物が最も恐怖を抱
く存在だ。それだからこそ、その恐ろしいものの上を歩き、恐怖を克服する大切さ
があるのだ。さあ、呪文を唱えなさい」
レナは揺れ動く心の状態で呪文を唱え始めた。
唱えながら全身が震えているのを感じた。
怖い、怖い、怖い。
フィラ、助けてくれるんじゃなかったの?
足にヤケドして一生歩けなくなるかも。
フィラはいいよね、愛する人と幸せな毎日。私は辛い、痛いことばかり。
どうして、世の中こう不公平なんだろう。
「そういう雑念を全て超越するんだ」
ゼルタクの叱声が飛ぶ。
レナは「超越しなければ」と心の中であがいたが、そう思えば思うほど、ネガテ
ィブな考えが黒雲のように湧いてきた。
熱した炭火も見られず、自分の混乱した心も見られず――レナは顔を上げて空を
見た。
どこまでも続く青い空。
人間社会がどんなに混乱しようが、動じることなく見続けてきた空。
(あんな心で生きられたら)
レナはジェラシーも恐怖も空の中に捨てた。
自分の心身が空と一体となり、異次元の存在になるのを感じた。
「今だ、渡れ!」
ゼルタクが叫び、レナは目の前の赤い炭火を見た。
火=熱いという思いも浮かんでこなかった。
レナは炭火の上を小石の道を渡るかのように歩いた。
「やった! 合格だ!」
ゼルタクの言葉を他人事のように聞くレナ。
「私、やったんだ……」
レナは大きく息を吐き、静かな喜びに浸った。




