第一章 悲しい初恋
レナはカバンを抱え込むようにして通学路を歩く。しっかり持っていないと、引
ったくられる恐れがあるからだ。
サラリーマンや男子学生達も、みな女性のようにカバンを両手に抱えて持ってい
る。
「キャーッ」
突然、甲高い悲鳴が響き渡った。
「返して、返してーっ」
OL風の女性が若い男の乗った自転車を必死で追い駆けている。ものすごい力で
引っぺがされたようだ。女性は猛スピードの自転車に追いつけず、涙目で戻ってき
た。そこへ見回り中の警官が歩いてきた。
「あ、お巡りさん! 助けて! バッグを引ったくられたんです」
お節介なレナが自分の顔を指差して言った。
「私も見ました!」
警官は胡散臭そうな顔でレナを見た。
「マジ?」
「なんですか、その言い草! この女性は確かにバッグを奪われたんです。私が証
人ですから。他にも見ていた人はいっぱい」
と言って周囲を見回したが、面倒なことに関わりたくないのか、通行人達は何も
見なかったかのように素通りしていく。
「つっめてえーっ!」
「まあまあ、お嬢さん、落ち着いて」
「これが落ち着いていられますか! 大切な財布の入ったバッグを引ったくられた
んですよ」
「そうです、私が」
正義感の強いレナは、自分が被害者であるかのように憤っていた。
正義感の強くない警官は、落ち着き払って質問した。
「で、犯人はどっちの方角に逃げましたか?」
「あっちです! 自転車に乗って、すごいスピードで」
レナが西の方角を指差し、被害者の代わりに答えた。
警官はぼんやりした顔で道路のかなたを眺めながら、
「自転車で逃げたんなら、今さら追っても無駄でしょう。あきらめるしかないです
ね」
「あきらめろですって!? 大切な私の――じゃない、この人の財布が入っていた
んですよっ」
「私、あきらめます」
「なんでっ!?」
「だって、どう考えても戻ってきませんから」
「でもっ、でもっ」
「もういいの」
女性は悲しげな顔で去っていく。
「ちょっと、お姉さーん!」
「いいじゃないか、本人があきらめるつってんだから」
「なんなのよ、その言い方! 警官がそういう甘い態度だから犯罪者をのさばらせ
るの」
耳に痛いことを言われ、警官はそそくさと逃げ出した。
「どこ行くの!? 悪とは徹底的に戦わなきゃ駄目なの! 私達一人一人がそうい
う気持ちを持たなきゃ、住みよい社会は」
通行人は自分の前を通り過ぎるだけで、誰も聞いていない。レナは肩を落として
歩き出した。
「フフフ」
誰かが後ろで笑っている。
レナが眉を寄せて振り返ると、同じクラスの男子生徒、ティル・ジルクだった。
黒髪にブラウンの目が美しい少年だ。レナは一瞬で世の中が輝いて見えた。
「おはよう、ティル」
さっきまでの気難しい顔を一変させて可愛らしい笑みを浮かべる。
「おはよう。朝から元気だね」
「やだー、私の演説聞いてたの?」
「まあね。暇なことしてるなと思って」
「暇なこと? 私は犯罪を目撃した者として当然のことをしたと思っているんだけ
ど」
「よく考えろよ。『自分は証人だ』と言ったら、調書取りにも協力しなきゃならな
いし、犯人が捕まったら、裁判にも出なきゃならないんだぜ。そんな無駄なことを
している間に他の生徒達は勉学に励んでいる。置いていかれちまうじゃないか」
「そ、それはそうだけど……でも、自分にとって不利でも正義のためなら、やらな
きゃならないと思うの」
「甘いな。そんな姿勢で生きたら、他人のために自分を犠牲にするような人生にな
るよ」
「うん……ありがとう、忠告してくれて。ティルは親切だね」
「そうかな」
ティルは少し顔を赤くして、
「僕は君と違って自分に何の利益もない行動はとらない主義なんだけど」
「あ、分かった!」
「な、何が」
「私と付き合いたいって下心があるから、親切に忠告してくれたんだ」
「違うよ」
ティルは顔を伏せると、足早に去っていく。レナは後ろから指を突きつけた。
「かわいーい、赤くなってる!」
つまずいて転びそうになった黒髪の美少年からカバンが落ちた。それを後ろから
来た若い男が拾い上げて走り出した。
「こらああああ!」
叫んだのはティルではなくレナである。
猛ダッシュで男に駆け寄ると、自分のカバンで後頭部を思い切り殴った。
「いってえーっ」
男がひるんだすきにレナはティルのカバンを取り戻した。
「覚えてやがれ!」
捨てゼリフを残して走り去る男。「あの人捕まえて!」と言ったところで皆見て
見ぬ振りなので、レナも黙って見送るしかない。
「はい、カバン」
「ありがとう……君はなんてお節介で勇敢なんだ」
レナは肩をすくめ、
「そう? クラスメートの持ち物が盗まれたら、命懸けで相手に立ち向かうのは当
たり前だと思うの」
「君の感覚はおかしい」
「そうかな」
首をひねるレナ。
「でも、そういうおかしいところが僕は大好きだ」
「えっ」
ティルは赤い顔で駆け出すと、校門の中へ入った。
でも、すぐにレナが追ってきた。
「ねえねえ、それマジ!? マジで私のこと好きなの!?」
正義感はあるがデリカシーはないレナは大声で聞く。校庭を歩いている生徒達が、
怪訝そうな顔で二人を見ている。
(ヤバい奴にヤバいことを言ってしまった)
ティルは猛省しながら猛ダッシュで校舎に入り、教室に駆け込んだ。
成績は優秀だが、運動が苦手なティルは鼻の穴を最大にして荒い息をした。美少
年が台無しである。そこへデリカシー皆無のレナが入ってきて叫んだ。
「マジで私が好きなの!?」
「うっせーな!」
「だってさっき……私の聞き違い?」
「ああ、聞き違いだよ! てか、空耳だ」
「おい、静かにしろよ」
「そうよ、勉強できないじゃないの」
朝からノートを広げているクラスメート達から口々に非難され、ティルとレナは
黙った。
「なんであんなこと言っちまったんだろ」
家に帰ると、ティルはカバンをベッドにたたきつけた。
黒革の上等なカバンで、母親が大事なヘソクリから買ってくれたものだった。
「このカバン……レナが取り戻してくれたんだった」
つぶやくと、ティルはカバンに抱きついた。
「レナ、ありがとう! お陰でママに叱られずに済むよ」
ティルの母親はティッシュを一枚一枚はがして使ったり、古くなった夫の下着を
雑巾にしたり、徹底した倹約家だった。
新品の高価なカバンを入学早々盗られたなどと言ったら、激怒していただろう。
そして、新しいカバンを買うために、自分のお小遣いを減らされていたに違いない。
ただでさえ少ない小遣いがもっと少なくなり、買いたい物も買えなくなるような
悲惨な高校生活になっていたはずだ。そこから救ってくれたのはレナなのだ。
「彼女みたいに強い女子と一緒にいれば、守ってもらえる……僕は決して不合理な
動機でレナを好きになったわけじゃないんだ」
愛や衝動といったものに支配されることは、自分の美学が許さなかった。あの告
白は合理的な行動だったと自分に言い聞かせ、ティルはカバンを開けて教科書とノ
ートを出した。
宿題をやりながら、時々頭を振った。大きく目を見開いたレナの顔が浮かんでき
て、聞くのだ。
〈マジで私のこと好き!?〉
どうすれば、このしつこい質問から逃れられるのか。
ティルは宿題が手に付かなかった。こんなことをしていたら成績が下がってしま
い、クラス一の秀才の座から転がり落ちてしまう。
「本人にはっきり答えるしかない」
ティルは一人でうなずくと、頭を振ってレナの幻影を消しながら勉強を続けた。
翌日、ティルの救世主であるレナは、うつむき加減で学校に向かっていた。
「なんであんなこと言っちゃったんだろ」
ティルと同じことを考えていた。
クラス一イケメンで頭のいい、しかもクールなはずの彼に告白され、舞い上がっ
てしまったのだ。だから、何度も聞いてしまった。
「マジで私が好きなの!?」
ギラついた目であの言葉を放った時、クラスの女子達から敵意の眼差しを感じた。
表面は大学受験目指して勉学に励んでいても、内心ティルに憧れ、付き合いたい
と思っている女子は多いはずだ。
レナの発した言葉は明らかに自分がティルから告白されたということを表明した
ものだった。それでレナは一気に彼女達を敵に回してしまったのだ。
(レナったら、私がティルに一目惚れしたことを知ってて、わざとあんなことを)
女子達の中でも、赤毛に吊り目のカーラは自分に当てつけるために言ったのだと
誤解していた。
自分のようなお世辞にも可愛いと言えないようなルックスの少女が、ティルのよ
うなカッコいい男子に相手にされるわけがない。
容姿に対するコンプレックスが強いため、ティルだけでなく、自分にそっくりの
父親を除く全ての男性に好きになってもらえないと思い込んでいた。そのコンプレ
ックスを優秀な成績を収めることで忘れようとしていたため、カーラは中学時代か
ら成績は常にトップクラスだった。
入学試験もほとんどを正解し、自分に満足していたのだが、高校に入ったとたん
ティルに一目惚れしてしまい、勉強が手に付かなくなってしまった。
恋などしている暇はないし、初めからあきらめているのだから、ティルが誰を好
きになろうがどうでもいいはずだった。そう思おうとすればするほど、レナに対す
るジェラシーが噴き出し、カーラは思春期の揺れ動く心に苦しんでいた。
(こんな状態になったのは、みんなレナのせいだ。この仕返しは必ずする)
カーラは自分勝手な被害者意識を持った。
苦しんでいたのは加害者扱いされているレナも同じだった。
ヤマが当たってなんとか進学校に入れたレナは、人一倍頑張らねば授業に付いて
いけないことは自覚していた。カーラ以上に恋などしている暇はなかったのだ。
それでも、自分がティルに告白され大喜びしてその気持ちを確かめようと何度も
質問を繰り返し、そのためにかえって嫌われてしまったことが悲しかった。
別に好きになってもらえなくてもいい。少なくとも嫌いになって欲しくなかった。
この気持ちだけはティルに伝えなければ。
レナは教室に入ると、頬杖を突いて「いつ、どうやって伝えるか」を考え始めた。
周りの生徒達は皆、ノートを出して勉強したり、本を読んだりしている。グラン
ダ高校に入った子達は、ほとんどが高収入の保証された官僚を目指しているのだ。
会社経営で成功する者はほんの一握りで、大部分の国民は貧しい暮らしをしてい
た。
革命が起きないのは、独裁者のゾウエル四世が謀反の計画を密告した者にはお米
券一生分を与え、密告を奨励していたからだ。そのため、謀反など企てていない者
がお米券のために捕まることも多かったが、ゾウエルは無実を訴える者も容赦なく
処刑していた。
お米券のために、いつ処刑されるか分からない殺伐とした社会だったのだ。
カーラは教室に入ってくると、机の中に教科書とノートを入れながらレナを恐ろ
しい顔で睨んだ。
(なんであんな頭の悪い子がグランダ高校に入れたのかしら)
授業で当てられても、間違えることが多い。どう見てもクラスで一、二を争う劣
等生だ。
成績のことよりティルのことで頭がいっぱいなレナは、ぼんやりした顔で謝罪と
告白の言葉を考え続けていた。
そこへ、自分も告白を考えているティルが入ってきた。レナは急いで駆け寄ると、
彼の手首をつかんで教室から出ていった。
「なんだろ。なれなれしい」
カーラはあきれたようにつぶやくと、ノートを広げた。すると、その白い紙にテ
ィルとレナがキスしている映像が浮かんだ。
「キャッ」
思わず叫ぶカーラに、クラスメート達が不審そうな目を向けた。
「あ、なんでもないの。ごめん、大声出して」
カーラは焦って言い訳すると、いかにも「トイレに行きます」といった感じでハ
ンカチを持ち、教室から出ていった。
自分の前をティルとレナが並んで歩いている。後をつけると、二人は体育館の裏
に入っていった。
(何するんだろ)
カーラは足音を忍ばせて近づくと、ドキドキしながら聞き耳を立てた。
「言いたいことがあるんだけど」
二人は同時に言って噴き出した。
「君から言っていいよ」
「うん……ごめんなさい。みんなの前で変なこと言って。それでティルに大恥かか
せちゃって。ほんとーっに、ごめんなさい!」
レナは体を直角に曲げた。
「いいんだ、もう何とも思ってない……と言ったらウソになるけど」
「ごもっともです……激怒して当たり前のことをしたんだから」
「もういいよ。それより、僕の気持ちを聞いてくれ」
レナは黙ってうなずく。
カーラは緊張して耳をそばだてた。
ティルは両手で口を囲い、レナの耳に近づけた。そして、蚊の鳴くような声で言
った。
「君が好きだってことを認める」
「マジ!?」
カーラにはレナの叫び声しか聞こえなかった。
(何言ったんだろ)
ティルは顔を赤くしてうなずく。
「私が好きってマジ!?」
校庭に響き渡るような声だった。
「なんのために」
ティルは拳を体育館の壁にたたきつけた。
「あ、ごめんなさい!」
今度こそマジで嫌われた、と思ったレナは両膝を突いて頭を下げた。
「ごめんなさい! チョーチョー軽率な私を許して」
ティルは苦笑し、
「いいよ。幸い誰にも聞かれなかったみたいだし」
カーラは思わず噴き出した。
「ははははは」
「誰だ!」
腹を抱えて笑うカーラを見つけたティルは、パニクった。
「君は今の話を聞いていたのか!」
「ごめ……あはははは」
目を見開き、唇を震わせるティルを見て、カーラはさらに激しく笑う。
「頼む。これで……聞かなかったことにしてくれ」
ティルが財布から駄菓子を一個買える程度の額である銅貨を一枚出すと、カーラ
とレナは一緒に大笑いした。
「君まで笑うこたないだろっ」
「ご、ごめん」
ティルはカーラの手を取ると、美しいブラウンの目で彼女をジッと見た。
「お願いだ。今聞いたことは忘れてくれ」
カーラは一瞬頬を染めたが、すぐに意地の悪い笑みを浮かべ、
「悪いけど私、見たり聞いたりしたことは人に言いたくなっちゃうの」
頼む、頼む、と繰り返すティルに、レナは眉を寄せて聞いた。
「なぜ、そんなに知られたくないの? 人を好きになることって恥ずかしいことな
の?」
「恥ずかしいことだよ! 僕にとっては」
「それって変だと思う。私はティルが好きだし、ティルだって私が好きなら、それ
がなんで」
「この学校の生徒は、みんな少しでも良い成績を取るために頑張っているんだ。お
そらく大学受験に成功するのはクラスの半分にも満たないだろう。だから一年生の
僕らだって、初めての中間テストを前に入学したその日から勉強に打ち込んでいる
んだ。それを能天気に恋愛沙汰にのめり込んでいる僕らはクラスの笑いものになる
に決まってる」
「きっとそうなるわね。みんな彼氏や彼女も作らないで頑張っているから、あんた
達はストレス解消のはけ口としていじめられるわよ」
「そんな……」
レナは涙を浮かべ、体を震わせた。ティルは寂しげに笑い、
「僕の学校生活はいじめとの戦いになりそうだ」
「ごめんなさい! みんな私が悪いの。なんで悪いのか良く分からないけど……」
「いや、全ては告白なんかした僕が悪いんだ」
「麗しいわね、お互いにかばい合って。やっぱりあんた達は好き合っているのよ」
ティルはカーラの前に両手を突いて頭を下げた。
「お願いだ! みんなに言いふらさないでくれ。君の要求は何でも聞くから」
「何でも聞く?」
カーラは吊り上がった目を光らせた。
「それじゃ、レナじゃなくて私を好きになってよ」
「ええっ!?」
「私を彼女にすれば、自分のことを差し置いてあなた達のことをバラすなんて、で
きなくなるでしょ。一番安全な策よ」
「それはそうだけど、僕にも好みというものが」
「好み? そんな贅沢なこと言える立場だと思ってるの?」
「あなたの考えおかしいわ! 好きでもないあなたを彼女にするなんて、変!」
カーラは吊り上がった目を半眼にし、
「余裕があっていいよね、告られた人は」
「べ、別に余裕なんて」
「私の提案が飲めないならいいの。二人とも卒業するまでいじめられればいいんだ」
「待ってくれ! 僕は君みたいな吊り目の子が大好きなんだ」
「何言ってるの、ティル!」
「聞いたでしょ? 私みたいのがタイプなんだって」
「ウソ! おかしいわ、ティルも! なんで自分の気持ちを偽るようなことを言う
の」
「いじめられながら勉強ができるか! そんな地獄のような学校生活はまっぴらだ」
「私のこと、好きって言ったじゃない……ウソだったの?」
「ウソじゃない。好きだったんだけど、カーラのほうがもっと好きになったんだ」
「ステキ! もっと言って」
カーラは手を組み、うっとりしている。ティルはこめかみに汗を垂らしながらう
なずき、
「君はレナより全然可愛い。大好きだよ」
「うれしい!」
カーラはティルの手を取り、顔を近づけた。
「私もティルのこと大好き。これでもうあなた達のことは誰にも言えないわ」
「私があんた達のこと言ってやる」
「レナ、落ち着け! せっかくいじめの心配がなくなったんじゃないか」
「変! こんなのおかしいわよ。いじめられたくないからって一番大切な自分の愛
を偽るようなまねをして」
「うるさいわね、私はティルとなら偽りの愛でもいいの。邪魔しないで、さっさと
行ってよ」
レナは泣きながら、その場を離れた。
「お前、ティルとどこに行ってたんだよ」
教室に入るなり、右隣の席の男子に聞かれた。教師の質問に答えられたことが一
回もないところを見ると、レナと同じ劣等生の部類だろう。ドゥームという名の青
白いむくんだ顔の少年だ。
「校庭」
レナはひとことだけ言うと、不機嫌そうに黙った。こういう人の粗探しをして喜
ぶタイプは一番嫌いだった。
「違うだろ。体育館の裏でいちゃついてたんじゃね?」
レナは一瞬ドキッとしたが、澄ました顔できっぱりと否定した。
「そんなことしてません」
「窓から見てたんだぞ。二人で体育館の裏に行くの」
「……」
レナは、大きさは普通だが不思議な輝きを帯びた鳶色の目をドゥームに向けた。
「な、なんだよ」
心の内を見透かされたようで、ドゥームはうろたえた。レナは薄笑いを浮かべ、
「ああ、そっか」
「どういう意味だ」
単に自分をいじめようと思っているのではなく、いじめによって相手を不登校に
させ、ライバルを一人でも減らそうという深い計画があるようだった。
「その手には乗らないわ。ティルとは何でもないんだから」
「そうだ。僕達は単なるクラスメートだ」
ティルが一人で教室に入ってきた。カーラは二人の仲を疑われないために、少し
遅れて入ってきた。
単なるクラスメートと聞いて、内心ティルに憧れている女子達は皆ホッとした。
ドゥームのほうは、イケメンで頭もいいティルを見るたびにジェラシーが燃え上
がり、レナ共々いじめ抜いて不登校にしてやりたいと思っていた。
「そうやって否定するところが怪しいな」
「怪しくないわ。私、聞いたもの、二人の話。レナが『昨日借りたお金、月末まで
待って』だって」
カーラがとっさのウソで助けてくれた。もっともティルがいじめの対象にならな
いためにだろう。
レナはとっさによくそんなウソが思いつくなとカーラのずる賢さに感心しながら、
「もうー、バラしちゃって」と、同意するようなことを言った。
ドゥームも貧しい家庭の子であり、貧しさをいじめの対象にはできなかった。そ
れで、攻撃対象をカーラに変えた。
「お前、二人の話を盗み聞きしてたの。ヤベえことするな」
いじめて不登校にするのはクラスメートなら誰でもいいのだ。カーラは吊り目を
さらに吊り上げ、ドゥームの胸倉をつかんだ。
「うるさいわね!」
「ごめん」
口が達者なだけで臆病なドゥームは、すぐに謝った。
生徒達が二人を見て大笑いしているとチャイムが鳴り、担任の教師が入ってきた。
「朝から何を笑っているのかね」
渋い顔で生徒達を見回す男性教師のギョロ目は、仕事が忙しく睡眠時間が短いせ
いか、少し充血している。
「こっちは毎日テスト問題を作って大変なんだ。君達も真剣にやらねばいかん。こ
の学校は進学だけを唯一の目的にしているシビアな高校だということは分かってい
るだろう」
生徒達は無言でうなずく。
「ヘラヘラした態度で付いていけるような授業じゃないからな。必死で食らいつい
ていかないと、授業に出るのが怖くなって学校に来れなくなる。先生は見てきたが
な、そういう生徒は結構いるんだ」
「ドゥームなんかカーラが怖くて明日から出てこれないんじゃね?」
誰かが言うと、生徒達は思わず噴き出した。ドゥームとカーラの脱落を願ってい
る者の発言だ。いじめた者がすぐにいじめられる側になる。
「誰だ、そういう無駄なことを言ったのは」
「ウィルズです」
誰かが告げ口をした。誰も信用できない社会の縮図のようなクラスだった。
「後で職員室に来なさい。一緒に来たい者はいるか?」
教室が静まり返った。
「いいぞ、この静けさと緊張感。そういう態度で授業を受けるんだ」
担任が出ていくと、すぐに歴史の教師が入ってきた。黒縁の眼鏡を掛けた、独身
アラフォー女性だ。
「皆さん、おはようございます。昨日は二百年前のゾウエル一世による建国の話を
しましたね。ゾウエル一世は神のご意思を実践すべく、クラッタ王国というろくで
もない国を滅ぼし、この素晴らしいラウェール王国の礎を築いたのです」
この国の歴史については小学生の頃から聞かされていたが、レナは思い切って今
まで疑問に感じていたことを質問した。
「先生、ラウェール王国以前のこの土地の歴史はどうなっているのでしょうか」
女性教師は眼鏡の奥の細い目を光らせ、
「クラッタ王国という野蛮人の国があったのです。クラッタ王国で何があったかな
ど、どうでもいいことです。そんなことを調べる必要もないでしょう」
レナは多少の疑問を感じながらも、うなずいた。
ラウェール王国建国から二百年だけの歴史なので、教科書はかなり薄かった。
「野蛮人の国を滅ぼしたゾウエル一世は、神の国から来られた方で、トイレにも行
かなかったそうです。地上に降臨されたゾウエル一世は、世界各地から勇者を集め
られました」
神話のような内容で、信ぴょう性が薄かったが、信じなければ非国民と見なされ
ていた。
「ゾウエル一世率いる勇者の大群は、わずか一日でクラッタ王国を征服しました。
たったの一日で一国を滅ぼすほどの神業を成し遂げられたのです。ですから皆さん、
ゾウエル一世から今の国王陛下に至るまで、みな神の世界から来られた方々なので
す」
神の世界から来たような優れた人々なら、なぜもっと住みよい国が作れないのだ
ろう、とレナは疑問に思ったが、質問に答えられない女性教師に『非国民』と言わ
れそうなので、黙っていた。
高揚した声で歴代のラウェール国王を讃える神話のような歴史の話が続き、レナ
は馬鹿らしくなって眠気に襲われた。上半身が前後左右に揺れている。
女性教師は眉間にシワを寄せるとレナに近づき、甲高い声で怒鳴った。
「ちょっと、あなた! 起きなさい」
「あ、は、はい。おはようございます」
爆笑する生徒達。
女性教師は鼻の穴を広げ、教室の後ろを指差した。
「授業が終わるまで立ってなさい」
「最悪の日だった」
つぶやきながら、レナは教室を後にした。
ティルとカーラは付き合うのだろうか。
付き合うにしても、誰にも見られないところでデートするのだろう。いじめの対
象にならないために。
(いっそのこと、二人の仲をクラスのみんなにバラしてやろうかな)
ちらと考えたが、人のいいレナにはできなかった。
あの二人と違って、勉強一筋の青春になりそうだった。
「つまんなーい!」
突然叫んだレナに通行人の視線が集まる。
(私ったら、今日はどうかしてる)
レナは赤くなった顔を伏せ、歩き続ける――そして閑静な住宅街に入った時、後
ろから落ち着いた声に呼び止められた。
「お嬢さん、何がつまらないんですか?」
驚いて振り向くレナに、奇妙な人物の姿が飛び込んできた。
黒のスーツに黒いマント。手には黒いステッキを持った青年だ。衣装だけでなく、
本人の髪も目も黒かった。
「あなた、マジシャンですか?」
レナが怪訝そうな顔で尋ねる。
「まあ、そんなところです」
「面白いマジックを見せてくれるんですか?」
青年は心外そうに一文字眉を寄せた。まつ毛の濃い端正な顔立ちだ。
「私は種のある手品をするマジシャンではない。念力を駆使する魔法使いだ」
「魔法を見せてくれるわけ?」
「君はなんでやってもらうことばかりを考えるんだ。与えてもらうことだけを考え
るから、つまらない人生になるのだよ」
レナは図星を指されて顔を赤らめる。
「お兄さんの指摘は正しいけど」
「お兄さんはやめなさい。私の名はゼルタク・リー。年齢は不詳だ」
「もしかして、ゴボウ茶を飲んでる五十代ですか?」
「年齢は君の好きなように設定するがいい。大切なことは年齢の概念を超越するこ
とによって、老化を超越できるということなのだ」
「老化を超越……私も美魔女になりたいと思っているんです。整形なしで」
「整形なしで美魔女に。修業次第でそれは可能だ」
「修業って何の修業ですか」
「私のような魔法使いの修業だよ」
「魔法使いの修業!? 残念ながら、そんなことをしている暇はないです。競争の
激しい進学校にいるから、毎日猛勉強しないと付いていけないんです」
「ああ、君は官僚になって安定した収入を得たいのだな」
「そうです。悪いですか?」
「別に悪くはないが、それこそ『つまんなーい』生き方じゃないかな」
レナは再び図星を指され、動揺した。
「お兄さんは私が薄々感じていたことを、えぐり出すようなことをおっしゃいます
ね」
「お兄さんはやめなさい。ゼルタクと呼んでいいぞ」
「そのお名前、覚えるつもりはありません。さよなら」
レナは青年が恐ろしくなり、背を向けて行こうとした。
「君の性格では、『つまんなーい』勉学一筋の学校生活も、『つまんなーい』官僚
の仕事も途中で挫折するだろう」
一番恐れていたことを指摘され、レナは凍りついたように動きを止めた。
魔法使いは薄笑いを浮かべ、
「どうしたんだ。反論したければするがいい」
レナは涙目で振り向き、
「一体、私に何を売りつけようっての? 幸運のブレスレット? 金運招来財布?」
「心外だな。私は詐欺商法のセールスマンではない」
「いったい私に何の用なの? 何が言いたいの?」
「こんなところでは話せない。私の屋敷に来ないか」
「嫌です! 喫茶店でお願いします」
「喫茶店で話せるような内容じゃないのだ」
「分かった……あなたの考えが。私をさらって風俗に売ろうってのね!?」
「そんなことはせん! 私は正義の味方だ」
「信じられません。失礼します」
レナはオリンピックのスプリンター並みの速さで駆け去った。
「もう少し時間を掛けんと駄目だな」
イケメン魔法使いは渋い顔でつぶやいた。




