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一日

作者: 翠子

 「私ね、あなたよりも一日だけ未来を生きているのよ」

 そう、彼女は彼に告げた。結婚した頃と少しも変わらない、無邪気な笑みで。


 彼女は四十年余り勤め上げた会社を、ほんの数年前に定年退職した。女性らしさはあまり感じさせないサバサバとした性格は上司受けもよく、男性社員と肩を張り合わせて働いてきた。「自分さえよければいい」というような働き方は好まず、自分の評価よりも、一緒に働いている仲間や後輩の仕事が成功することに喜びを覚えた。そんな彼女に、周りが付いていかない訳がなかった。彼女はやりがいに胸を弾ませながら家に帰る。長い一日でくたびれたワイシャツを丁寧に糊付けし、夜にパンパンと水気をはたきながらベランダへ干す。額に滲む汗を手の甲で拭う顔にすら、喜びが満ち溢れているように見えた。


 それ故に、定年後の彼女は何をしても働いていた頃のような充足感を得ることはなかった。同じように定年退職を迎えた彼と旅行に行けども、ゲートボールをすれども、とても楽しいことに変わりはないけれど、どこか心の晴れない日が続いた。勿論、幸せではあったのだろうが。


 そんな彼女が最近やけに楽しそうにしていることは彼も気づいていた。近所の人にも「奥さん、若返ったんじゃない?」なんて、噂をされる程に。

「何かあったのかい?」

彼はそう彼女に尋ねた。もう流行りの言葉ではなくなったといえど、「熟年離婚」などという言葉が一瞬頭の中を過ぎった。大層緊張しながら彼は彼女に尋ねたのだが、返ってきた言葉は最初の言葉である。ぽかんと何も言えない彼に、彼女は笑みを浮かべたままで続けた。

「たいしたことじゃないの。腕時計に日付が表示されてるものって、最近多いでしょう。わざとね、一日進めているのよ。特別な気分になって、少し気持ちいいの」

相変わらず得意げな表情の彼女に、彼は少し眉尻を落とした。そういうことかと安堵はしたのだが、気を落ち着けるために口にした緑茶はいつもより苦く感じる。彼女の奔放さに嫉妬をしている訳ではない。そんな彼女が好きなのだ。彼はゆっくりと息を吐きだしてから、テーブルの向かい側に座る彼女へと視線を戻した。


「私は、君に一日置いてけぼりにされているということだろうか」


「やだ。いい歳して。あなた、子犬みたいな顔をなさってるわよ。でも……そうね。さみしい思いをさせてしまったかしら。ごめんなさい」

ああ、やってしまった。

 そう。彼は後悔をした。すっかりつまらなさそうに時計の針を戻す彼女の手元を見つめる。いつの間にか足元に来ていた二人の飼い猫が「にゃあご」と鳴いて、彼をじっと見た。「ばかね、あなたって」と言っているように思え、彼はその視線を受けて思わず彼女の手を握った。

「良い、提案が、あるんだ」

「なに?」

「他の人よりも未来を生きる必要なんてないんだよ。生き急がなくてもいいんだ。私は一日でも、一分でも、一秒でもいいから、君と少しでも長く一緒にいたいんだ。だから……こうしよう」

 彼女の手首を傷つけないように、慎重に握りながら彼は時計の針を回す。それは逆向きにくるくると回っていく。再びカチカチと刻み始めた彼女の時計は、一日前の、今。彼はそれを見ると満足そうな顔で、次は自分の腕時計の針を逆向きに回し始めた。今度はやや乱暴に。


 彼の腕時計もまた、一日前の今を刻んでいた。

「私と君は、他の人達よりも一日遅れて生きている。同じ時を生きながらも、私達は彼らより少しだけ特別になれるよ」

彼女は先ほどの彼と同様ぽかんとした表情を浮かべていたが、彼の思惑に気づくと口元を片手で覆いながら思い切り笑った。そうだ、私が忘れていたのはこのような感情だったのだ、と彼女はひとしきり笑った後に思い出した。

「あなたって、とても素敵ね。ありがとう、あなた」

「さあ、街の皆よりも私達は一日長く一年を楽しめる。何がしたい?」

彼もすっかり上機嫌だ。彼女が自分の好きな笑顔を浮かべている。そして、その笑顔を作り出したのは自分だという誇りが彼の胸を刺激していたのだ。

「あなたと一緒なら、きっとどんなことだって楽しいわね」

彼女は胸をわくわくさせながら、この先の人生に思いを馳せる。ほんの少しのきっかけと工夫で、彼と彼女の人生はこれからもまだまだ楽しく続いていくに違いない。他の人達よりも、少しだけ、ゆっくりとしたスピードで。

 互いを見つめあう二人を見ながら、飼い猫はまた「にゃあご」と鳴いた。


fin.

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― 新着の感想 ―
[良い点] とてもすてきな発想だと思います。 誰かより一日~ってのは端から見れば、特別なことなんて無いですが、この二人の間では素敵なことに変わる。きっと二人が素敵な夫婦だからだと思いました。 [一言]…
2016/09/12 07:01 退会済み
管理
[良い点] 導入部分は好きです
感想一覧
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