外国文学と翻訳について思うこと
このエッセイは日本文学をメインに語ると言っておきながら、今回は外国文学の翻訳について書きたいと思います。
私はあまり外国文学を読みません。それは好みの問題か、あるいは食わず嫌いかもしれません。
たまに読む場合は、外国語で書かれた小説をすらすらとストレス無く読める程の語学力は無いので、日本語に翻訳された物を読むわけです。
でも、翻訳された物っていうのは、厳密に言うと原文とは違う作品なのではないかと思うんです。もちろん内容は同じですし、文章の構成なんかも近いのだと思います。ただ異なる言語を用いているというのはそれだけでかなりの差異になるのではないでしょうか。
たとえば一人称にしても、英語の「I」を日本語に訳す場合「私」「僕」「俺」「わし」等々、多種多様なパターンがあります。その中からどの単語を選ぶかは訳者によって決められるわけで、つまり翻訳された文学作品には訳者の意思が介入しているという点で、原文とは異なります。
単語の選択だけでなく、文の区切り方を変えたりすることもありますよね。
また、逆に日本語で書かれた作品を外国語に翻訳する場合も同様です。日本語の場合厄介なのは一つの単語でも漢字、ひらがな、カタカナと表記方法が複数あるということです。「僕」「ぼく」「ボク」では微妙にニュアンスの違いが含まれたりします。外国語に訳す場合はたぶん別の部分でこういうニュアンスを表すんじゃないかと思いますが、難しいですね。
そうすると、翻訳作品だけを読んでもその作品の芸術性というか、特に文体の良さみたいなものを全て理解することは出来ないのではないかと思ってしまうんです。言葉のリズムだったり、細かいニュアンスを正確に伝えることは難しいでしょう。
小説もそうですし、詩なんてなおさらです。言語が変わったら押韻も分からなくなってしまいます。
そう思うと、外国文学を読むなら原文で読んだ方がいいのかなとハードルが上ってしまうんですよね。
ただ、それじゃあ日本語の作品なら芸術性を全て理解できるのかと言ったら全然そうではないので、そう難しく考える必要はないのか、とも思います。
エンタメ作品は内容重視で文体についてはあまり気にしませんし。
たぶん原文も翻訳物もそれぞれ違う良さがあって、違う楽しみ方があるんでしょうね。訳者によっても個性が出たりしますからね。
そんなわけで今年は外国文学も積極的に読んでみようかな、と思ったり思わなかったり。
文学の話をするつもりが語学の話になっているような。