3、逃亡を試みてみました。
夜も完全に更けて来て、外はとっぷりと暗くなっているのが分かる。
脱出するなら今ではないかという考えが浮かんだ。
ここがかなり偏った見解を持つ宗教団体だとして、
私に姫巫女とやらの役割をさせようとしているのだったら早く逃げないと危険だ。
周囲は深い森だし、他に民家が見つかるかどうかさえ危うかったがそうも言ってられなかった。
幸いな事にここは一回で窓を乗り越えればすぐに外に出る事が出来る。
制服は洗濯をすると言われて、女官の人に預けてしまったので手元にはない。
しかし、このひらひらした白い格好だと余りにも目立つだろう。
何か着替える物はないだろうかとクローゼットを漁っていたら、黒いフードが見つかった。
確か、最初に連れてこられた時に周囲の人達が来ていたのと同じデザインの様な気がする。
ここの制服の様なものだろうか。
だとしたら外で誰かに遭遇しても怪しまれずに行動する事が出来るので便利だと、着用する事にした。
虫一匹の声すら聞こえない静かな夜の中を足音を立てない様に静かに移動する。
随分入り組んだ様式になっていたので完全に外に出るのに時間が掛ったが無事に脱出を成功した。
ここから離れて人を見つけ次第、ここが本当は何処なのかを尋ねよう。
もし、外国だとしても大使館位はある筈でそこを頼れば帰国する事が可能なはずだ。
私は鬱蒼とした森の中を独りで移動していた。
今から思えばとても無謀な行為だが、あの時はそうしないと頭が可笑しくなりそうだったのだ。
どれぐらい歩き始めただろうか。
時間の感覚が分からなくなった頃に森の木々の向こうに人影らしきものが見えた。
疲労困憊していた私はどっと安堵を感じて、そちらの方向に思わず走り寄った。
初めに違和感を感じたのは匂いだった。
鼻につんとくる、生ゴミが腐った様な強烈な香り。
その人物はふらふらと体を前後させながらも私の方に近寄ってきた。
べちゃり、
ぐちゃり、にちょり、
その足音が何故か私の背筋を冷たくさせた。
頭の中で逃げろ、逃げろと強い警鐘が鳴らされる。
それは普段私が使う事がない、動物としての本能だった様に思う。
雲に隠れていた月の光がよりによってそんの瞬間に相手の事を差したから私は動けなくなってしまった。
それは死後何カ月もたったような腐乱死体だった。
むき出しになった黄色い歯や溶けかかっている皮膚などが、
酷く醜悪で胃の中から酸っぱい物がせり上がって来るのを感じた。
まっるきり死体に見えるその存在はけれど確かに動いていた。
ゆっくりと這うようにして確実に近寄って来る。
ザンガラの脂ぎった髪の中からふと、視線をこちらに合わせたのを感じた。
それは美味しそうな獲物を見つけた獣の様な獰猛な瞳だった。
コレにとって私は餌なのだと言う事を直感して、すり足で逃げ出そうとした。
しかし、私は後ろに樹の根っこがあると言う事を忘れていたのだ。
がくんと、一瞬周りの景色が回った。
遅れてやってくる鈍痛のおかげで自分が躓いた事を理解する。
仰向けに寝転んだ私の傍で、
ぐちゃりという音がして、
すぐ近くにそれの顔が、
目が酷く虚ろで、
噛みつかれ、
私が咄嗟に目を瞑ってしまった所で体に大量の生温かい液体が掛った。
辺りに充満する鉄の匂いで私がそれを血だと言う事を理解した。
「大丈夫ですか?姫巫女殿。」
私にそう皮肉気に声を掛けてきたのはクレイグだった。
彼は私の上で動かなくなっているそれを蹴飛ばし、剣を引き抜いた。
「如何して貴方がここに…。いえ、最初から付けていたのね?」
「貴方は思いの外賢い様だ。私は貴方付きの騎士なので護衛をするのは当然のことです。
余人には伺えない深謀遠慮があるのかと思いましたが…。どうやらその様子では違っていたようだ。
何故こんな真似をされたのです?夜の森が危険だと言う事は子供でも知っている事でしょうに。」
「私の世界ではあんな化け物はでなかったわ。」
「羨ましい限りです。私の家族はアレらに殺されました。」
彼の瞳には平穏な世界で生きていた私への妬みの様な感情が垣間見えた。
私はそれを受けて彼らの説明が現実のものであることを認めざるを得なかった。
「姫巫女殿、」
「その名前で呼ばないで私は山下明美よ。」
「ヤマシタアケミ?随分長い名前ですね。まるで貴族の様だ。」
「違う、姓が山下で名前が明美って言うの。私は貴族なんかじゃない。
何処にでもいる平凡な女子高生よ。」
「ジョシコウセイ?」
クレイグが眉を顰めてこちらを見て来る。
その様子に私は首を振ってこう続けた。
「とにかく姫巫女って呼ばないで。名前で呼んで欲しいの。」
「では、アケミ。」
そう言ってクレイグの雰囲気が一気に張りつめた事が分かった。
彼は低い声でこういった。
「貴方は何が気に入らなかったのです?私達から逃げ出そうとしたのでしょう?」
「…いいえ。多分、私はそれだけじゃなくて元の世界に戻りたかったの。
家族がいて、学校に通っていた何時も道理の平凡な日常に戻りたかった。」
私がそう呟くように言うとクレイグは沈黙をした。
子供染みた行動と呆れられても構わなかった。
それが間違いがなく私の本心だったのだから。