26、密やかな話し合い
「何をしているんだ、こんな時間に。」
「ええと、本を読んでいたら夢中になっちゃって。」
「本?」
クレイグの眉が顰められた。
今は恐らく早朝に近い時間帯だろう。
そんな時刻にする行為としては、確かに不自然かもしれない。
「暫く私は休養を取る事になったでしょう?
こちらの世界に来てから働き通しだったから時間が余ってしまって。
暇潰しにとキートが持って来させたの。」
「本が好きなのか?」
「ええ、娯楽目的に読んだのは久しぶりだったしね。
今読んでいるのは恋愛小説で、中々面白いわよ。
この手のジャンルの物は元の世界でも人気が高かったわね。」
そう言うとクレイグは遠い人を見る様な眼差しで私の事を見た。
こんなに近くにいるのにどうしてそんな目で見るんだろうと不思議に思った。
「…嗜好品として本を読むのはこちらでは貴族ぐらいのものだ。」
「私は一般的な家庭に生まれて育ったわよ?」
「知っている。だから、余程アケミの生まれた国は恵まれていたのだろう。」
そう言って、彼は一瞬躊躇するような素振りを見せた後に切り出してきた。
「元の世界に帰りたいか?」
その声は明け方の冷たい空気の中によく響いた。
或いはそう思ったのは私だけだったのかもしれない。
目を逸らしていた事を突きつけられた、そう感じたからだ。
「私は、」
そこで唾を飲み込む。
クレイグの冴えた金色の瞳に見つめられる。
ここではぐらかしてはいけない、そう思った。
「私はクレイグの傍にいたいわ。」
「あんなに酷い目にあったのに?元の世界に戻った方がずっと心安らかに暮らせるだろうに。」
「私は貴方の事が好きよ。急に居なくなったりはしない。
それに、ここの世界には私にしか出来ない事があるから逃げ出せないと思うように、」
「本当か?」
「え、ええ。私ぐらい強い力を持つ巫女は中々いないんでしょう?」
「違う。そうではなく急に居なくならないと言う事だ。
貴方には瘴気を鎮静化させるという期待が集まっている。
それに応えたいと思っているのだろう?」
「出来る事ならしたいと思っているわ。
けれど、貴方と一緒にあんなに探しても方法は見つからなかったじゃない。」
「今まではな。」
そう言って、クレイグは静かに息を吐き出した。
それから、再び話を続ける。
「瘴気を鎮静化する方法がアケミがいた元の世界に帰る事と繋がっていたらどうするんだ。
元々、その為に情報を探していたんだろう?」
「そうね。あの頃は本当に帰りたかったから。」
右も左も分からんかったあの頃なら方法が見つかったならあっさりと帰ったに違いない。
けれど、もう私は自分の行動によって沢山の人の命を助ける事が出来ると言う事を知ってしまった。
そうして、クレイグとも離れたくないと思っている。
それだけではこちらの世界にいる理由にはならないんだろうか。
黙りこくった私に何を思ったのか、彼は頬に手をやってきた。
温かさを感じるのに心が上手く通じ合わないのがもどかしかった。
「クレイグ。」
すぐに溶ける雪の様な密やかさで私は彼の名前を呼んだ。
クレイグが目で話を促している事が分かり、先を続ける事にする。
「例えば、瘴気を浄化する為の方法が見つかったとして、
それが私が元の世界に帰る事が必須条件になるのだとしたら居なくなる事を選ぶかもしれない。
けれど、自分で選ぶ事が出来るならこちらの世界に、貴方の隣に残る事を選ぶわ。
それではいけない?」
「…そうか。」
そう言ってクレイグは静かに目を閉じた。
ひょっとすると彼は全てを捨てても良いから、
貴方を選ぶとか言う種類の情熱的な言葉を期待していたかもしれない。
それでも、これが私も正直な気持ちだった。
恋の為に全てを投げ打てる程、私は盲目にはなれなかった。
「もし、瘴気の浄化が成功したら貴方は教団では必要とされなくなるな。」
「そうね。儀式をする事も徐々に少なくなって来るだろうし。
ここを追い出されたらどうしようかしら。」
「そうしたら養うから心配はいらないだろう。」
まるでプロポーズみたいだ。
それを素直に喜ぶにはクレイグの口調が何処か夢見ているようだった。
きっとこの人はそんな未来が来るとは信じていない事を悟ってしまった。
そこで部屋がノックをされる。
随分長い間話しこんでしまっていたらしく、気が付けば朝になっていた。
きっと女官が朝食を持ってきたのだろう。
離れようとするクレイグを慌てて引き留めて言葉を告げる。
「クレイグ、私は貴方の事を大事に思っているから。」
「知っている。」
そうして彼はほんの僅か微笑むと去って行ってしまった。
私がその後ろ姿を見送っていると、再度部屋がノックをされた。
返事をするとドアが開いて、予想通りに女官が朝食を持ってきた。
食べやすそうなリゾットに似たものと、果物が配膳されて行くのをぼんやりと眺めた。
料理長が私の為にと考えて作ったと言うそれを機械的に咀嚼しながら、
私はクレイグに不誠実な事をしているのだろうかと考えてしまった。
こちらの世界にいたいと言う気持ちは本当だ。
それでも居なくなってしまう可能性も捨てきれない私では彼を苦しめてしまうだけなのかも知れない。




