財閥当主1
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主の趣向を反映した重厚で落ち着いた調度品。その中央に置かれたソファーに腰掛けるのは、年齢差こそあれど、どちらも美人と評せる風貌の男女だ。
しかし、そこには恋人たちのような甘い空気は流れていないどころか、黒髪の少女に至っては男に視線を向けることなく、手元の書類に視線を走らせていた。
全てが重要な物とは言わないが、会社の経営に関する方針や問題点、各部門の報告書や、新たな企画の詳細などが書かれているその書類の束は、明らかに十四、五の少女が見て理解の及ぶものではないだろう。
しかし、紅茶を口に含みながらその様子を見つめる白金ブロンドの柔和な風貌の男に、その懸念はない。
むしろ当然のように受け入れ、穏やかに目を細めて見守っていた。
「――…不備はないみたいだし、これは決定案としてこのまま進めさせて。これは却下。こっちの草案は検討の余地はあるけど見通しが甘いな。企画担当に練り直してって伝えてくれる?それと昨日分の書類にサインと調整をしておいたから。…あ、こっちの山になってるの、もう必要ないから全部処分しておいてね。」
少女はそれぞれの書類に粗方の指示を出し終えると、一息つくために机の上に置かれていた紅茶に口を付けた。
年齢に対し実に不釣り合いな内容を口にし、あまつさえ十一も年上の男性に指示を出すなど可笑しな話であるが、大人びた雰囲気を持つ彼女はそれに違和感を与えることは無い。
そうすることが彼女にとって当たり前の事なのだ。
財閥系大企業として名を知られた北條家において、姿を見せない鬼才の新当主と謳われる…北條椎名にとっては。
「他に目を通すものは?」
「今のところは無いかな。明日にはまた君の確認と処理が必要なものが届くだろうから、よろしく頼むよ。」
「わかってる。…夏目はこの後、水地のとこの接待が入ってっけ?」
彼の言葉に頷いた後、ふと手元に置かれた他企業の情勢に関する報告書の中にその名を見つけ、何ともなしに尋ねた。
水地とは前当主の代から取引関連で北條と懇意にしている大手の製薬会社だ。本来であればその場には当主本人が出向くべきではあるのだが、椎名が経済界を表立って渡り歩くにはまだまだ幼すぎる為、彼女が北條家のトップにいるということはほんの一握りの者にしか知られていない。
それ故に、公にはただの財閥令嬢というだけの小娘が重要な会議や接待という名の取引の場に出席など不可能だ。
そんな身動きの取れない椎名の代わりを務めるのが彼女の実兄である北條夏目。目の前のこの男である。
彼の役割は椎名の隠れ蓑であり、補佐兼代理だ。
こんな子供の、しかも自分の妹に次期当主の座を奪われ、揚句に身代わりなど…普通ならば不満を抱くものだが、彼の場合は進んでその地位に収まる変わり者であり、……自他ともに認めるシスコンだ。
優しげに彼女を見つめるその瞳は、他者と比べると確実に甘くなっていることだろう。
「そうだよ。内容は大方、北條の後ろ盾欲しさの交渉だろうね。それがどうかしたのかい?」
水地に関する書類を見ながら言われた言葉に、不思議そうにこちらを見る夏目に特に興味を示すでもなく、いやと首を振った。
「あそこは内部が色々ごたついてるでしょ。その主なものは後継問題。現会長は倒れてから、今は婦人が代理を務めてるけど、長くは持たないし。次期会長の選別も候補者が多いせいで大変そうと思ってね。」
「なるほどね。…椎名は、どうするんだい?」
「何が?」
「いや。退屈が嫌いな君のことだから、どこまで干渉するのかと思ってね。」
柔らかな表情を崩さないまま語る内容は、存外に黒い。
親類縁者の多い水地の会長は既に高齢だが、次期の座はまだ決まっていない。そこに浮上しているのは、会社の実権をかけた身内同士による内部争い。
彼らにとっては真剣そのものな案件を、椎名の為の暇潰しの材料としてしか見ない夏目は柔和で穏やかな見た目に反する腹黒だ。
「人聞きが悪いこと言わないでよね。他所の跡目争いになんて興味無いし、私がするのは干渉じゃなくて“観賞”。楽しめたならそれでいいの。まぁ、北條の損益に関わりそうなら多少の介入はするかも知れないけど。」
「それじゃあ今度、気分転換に水地主催の招宴に行ってみたらどうかな?今後の取引と両家の友好関係のためにも跡継ぎ候補達に直接会ってみるのも一興だよ。」
つまり夏目は、候補者達から北條にとって一番都合の良く動ける人物を見極めてきてはどうかと提案している訳だ。北條の力はそれなりに大きく、後ろ盾を得られた者はこの先の経営や取引などでかなり有利に働くことになるので、後継者の中でも一気に有力とされるだろう。
学校以外で自宅に引きこもり気味な椎名の暇潰し兼気分転換にちょうどいいだろうという程度の為に他家の重要な問題を利用しようなどと考えるあたり、普段から自分を含め、椎名以外どうでもいいと言ってのける夏目らしいと言える。
まぁ逆に言えば、その位に彼にとっての暇潰しになればいいねというレベルの些事だという事だが。