すべての始まり
「別れよう」
唐突に突き付けられた言葉に、空いた口が半開き状態の私は事情の知らない第三者から見れば、さぞかし滑稽だろう。
この人は何を言っているの?
遂この前まで結婚について話し合っていたじゃない。
どうして、なんでと言葉に出そうとも思うように口から出でこず、いい大人が悲観ある顔で必死に彼に、すがり付く。
やがて彼は、私の両肩に手を置き、ゆっくりと引き剥がして残酷な言葉を言うのだ。
苦々しく、部下を妊娠させてしまった……と。
何てことだ。片真面目な彼が浮気し、更には相手を孕ませてしまっただなんて。
「許されることじゃないと、わかっている……ごめん、祥子」
「……」
冷静になれ。喚いたところで何になる。
何も言えなくなるじゃないか。ショックよりも憤りよりも、彼の事を本当に理解してなかったのは私のせいではないだろうか。
お互い体を重ねるのは、結婚してからと私が言い始めて彼も承諾してくれた。
真面目な彼に甘えすぎていたのだ。十年も、お預けをくらって平気な筈はないのではないか。彼は男なのだ。
お互い会社では立場ある役職で、デートも月一回あるかないか。
それは、普通の恋人同士がする、ちょっと高級なレストランでの食事や映画観賞や旅行だったり。だた宿泊旅行中の彼は律儀にも私に手を出さなかった。手を握ったり、抱き締めたり、キスをしてくれても絶対に一線は越えなかった。
何て、バカなのだろうか私は。
甘え過ぎていた結果がこれだ。思わず自嘲が漏れた。
フラフラとした足取りで自分の部屋を歩く。いつ、戻ってきたかなど分からない。
三十路を過ぎた私を、これから誰が貰ってくれるのだろう。しかも未だに男性との深い関係になったことのない処女の私を。
開け放たれた窓から冷たい風が通り抜け、コートを揺らす。季節は十二月。
恋人達が増える恨めしい季節。
ああ、自分が、嫌になる。
振られた日の夜、子供みたいに大泣きした。
気がつけば日付が変わり、私は一つ歳をとった。
◇◇◇
会社は社員の事情を汲まない。例え、失恋して意気消沈しても出勤しなければならない。恨めしい。ああ、恨めしい。
「平日なんて無くなってしまえ、日本人は働き過ぎなんだよクソが」
ブツブツと悪態を吐き散らしながら自身の統括するオフィスへと向かう。
道中、本来の私とは掛け離れたあるまじき変貌ゆえに、二度見する人々がちらほら。
自分で言うのもあれだが、上司は勿論、部下や掃除のおばちゃん、更に食堂のおじちゃん、友人にも平等に敬語を心がけている。
会社で知られている謙遜人間が、ある日を境に不良よろしくな言葉遣いをしたら誰だって驚嘆するだろう。知ったことか。
その日、不機嫌を惜しみ無く醸し出す上司に部署の面々は戦慄したらしと知ったのは後日だが。
さて、お昼のディナータイムは至福だ。
仲の良い部下を半ば強引に引き連れ、社員食堂に入る。いつも弁当なのだが、昨日の今日ゆえに作る気力がなかった。
「カレーライス大盛り二つで。食後、特大パフェ一つ」
席に座るやいなや注文した私に友人に怪訝な顔をされた。
「祥ちゃん……」
「なんでしょう、雪くん」
「……その、別れたって聞いて」
風の噂は早いことで。早速、広まったようだ。人間が密集する会社という組織は、良くも悪くも団結力が高い反面に噂は、あっという間に広まる。
「うん、彼は死んでしまったのだ」
遠い目をして言う第二課の部長の、あまりにも悲壮感を漂わす雰囲気に周囲のテンションが下がりつつある。
すまない。悪気はあるんだ。
「祥ちゃん、彼に一途だったもんね」
「そうですね」
「その、なんていうか」
「励ましなんて不要です」
「ご、ごめん」
内心、ため息を吐く。なんて可愛いげのない女なんだろう。
こういう失恋した時って、どうやって世の中の男女は乗り越えてゆくんだろう。人生で初めての彼氏に、初めての失恋。
新しい恋を始めるにも回りは既婚者だらけ。目の前の友人も、だ。
「どうすればいいかなぁ……既 婚 者の雪くん」
敢えて既婚者を強調して言うのは嫌みじゃないよ。
そんな、私に嫌な顔をしないのは彼もまた、失恋の経験をしているからだと察している。
いい友人を持った、うんうん。
「新しい恋を」
「却下」
「じゃあ、傷心旅行はどう? 祥ちゃん、有給使ってないよね? もう直ぐ冬期休暇だし、一日前に有給取って行ってみたらどうかな……なんて」
「ふむ……」
旅行好きな私にとって、その提案は受け入れ易く早速、副部長にメールを入れることにする。
行き先はどこがいいだろうか。国内は彼と殆んど行ったから却下。思い出したくないしね。だとすると海外か。
ハワイなんてどうだろう。ハワイの人の元気な笑顔やキレイな景色。買い物をすれば、ストレス解消にもなるだろうし。美味しいものも、たくさん食べるのもいい。
ニューヨークの緊張感のある大都会も捨て難い。セントラルパークを散歩し、ジャズを聴きながらの本格的なディナー、色々なオプショナルツアーもある。
嗚呼、でもパリ、イタリア、スペインもいいな。
グフフ。
「よかった。祥ちゃん、笑顔だ」
「……はっ」
言われて初めて気が付く。どうやら妄想に浸っていたらしい。
緩んだ頬を両手で解して来たカレーに、かぶりつくように食べた。うん、絶品。
よし、スペインに決めた。
そう決めた半月前の自分を後悔した。まさかテロ事件に巻き込まれるなんて思ってもみなかった。
駅には逃げ惑う人々。数々の小さな爆音。叫び声、助けを求める声。
迷子らしい女の子を胸に抱いて、ホームを掛ける。
ここから出なければ!
直後、身を焦がすような熱風が背中を襲い朦朧とした中、女の子の泣き声が聞こえ、とりあえず女の子は無事みたいだ。よかった……
そこで私の意識はフェードアウトした。