「娘の承認など飾り」と見限られた私は、委任状を引き上げ家の段取りを止め、最後は家から詫びが来ます
椅子の脚が、絨毯の縁で鈍く鳴った。
「そこではない。アマーリエ、おまえは奥へ」
エドガーは娘を見ず、指先だけで席を示した。長卓の末席、扉の風がいちばん先に届く場所だった。
「席順をお改めになるのですね」
アマーリエは帳面を閉じた。向かいに座っていた親族が椅子をずらし、その空いた場所へヴィクトルが腰を下ろす。彼は上着の裾を払ってから、卓上の銀器に映る襟元を確かめた。
「いつまでも若い娘を表に立たせるわけにもいかないからな。これからは僕が伯父上をお支えする」
「それは頼もしいこと」
「堅苦しいな。身内ではないか」
笑ったのはヴィクトルだけではなかった。親族たちは彼と目を合わせ、口元を同じ形にした。
アマーリエが末席へ移るあいだにも、ベルンハルトは卓上の書類を抱えて待っていた。荷受けの確認、人足の割り振り、商会への返答。彼は置き場所を探し、結局、いつもと同じようにアマーリエの前へ積んだ。
「お父様、こちらはヴィクトル様に」
「何を言っている。あれはおまえが見ればよい」
エドガーの視線は荷受けの紙に落ちたままだった。娘の椅子が遠ざかったことには、気づく必要もないらしい。
「ヴィクトルは家の顔になる。細々したことまで抱えさせては、肝心な折に差し支える」
「顔に手足を付けるのは、わたくしの役目でございますか」
「口答えをするな。委任はこれまでどおりだ。おまえの判があれば済む」
ヴィクトルが書類を一枚つまみ上げ、項目を半分も読まずに戻した。
「末席の娘の判で足りるなら、楽なものだ。僕は先方と話をつけてくるよ」
「時刻と数量をお確かめくださいませ」
「その程度、先方が心得ている」
「先方も同じことを仰るでしょうね」
アマーリエは家督委任状を収めた綴じ物へ手を伸ばした。綴じ目に指を置き、ずれた紙端を揃える。三年のあいだ、そうして閉じ直してきた。
「その委任は、わたくしがお預けしたものにございます」
「分かっている。だからおまえが使えばよい」
エドガーは次の書類を彼女の側へ滑らせた。返事はそれで終わった。
親族の一人が、客人用の椅子をヴィクトルの脇へ寄せようとした。そこへ入ってきたルーカス・アイゼンが、椅子の背へ手をかける。
「アマーリエ様に確認したいことがございます」
「実務なら、そこに座っている娘へ聞け」
「では、こちらを」
ルーカスは椅子を末席まで運ばなかった。自分の座る位置をひとつずらし、その隣を空けた。
「資料を同じ向きから拝見したほうが早いでしょう」
アマーリエは抱えた帳面を見下ろした。親族たちの椅子より簡素で、けれど扉の風は届かない席だった。
彼女が腰を下ろすと、ルーカスは先に彼女の名を呼び、荷の到着時刻を尋ねた。数量を告げれば数量だけを書き留め、理由まで奪い取ろうとはしない。
「では、明朝の荷はこの手順で」
「はい。アマーリエ様の承認がありましたら、こちらも人員を揃えます」
「ヴィクトルの名でも通る」
エドガーが口を挟むと、ルーカスはペンを置いた。
「名の問題ではございません。どなたが数量を引き受け、変更の責を負われるかという話です」
「家が引き受ける」
「家のどなたが」
ヴィクトルが鼻で息を出し、卓を指先で二度叩いた。
「僕だと言っている。細部はアマーリエにやらせればいい」
ルーカスは返事をせず、アマーリエの帳面が閉じられるのを待った。彼女が立つと、隣の椅子だけが卓から少し離れて残った。
* * *
夜半を過ぎても、執務室の燭台は短くならなかった。
アマーリエは翌朝の荷に添える指示を書き終え、封蝋へ手を伸ばしかけた。指先が止まる。指示を出せば、門は開く。人足も動く。ヴィクトルは朝食の席で、自分が荷を通したと話すだろう。
廊下から足音が近づき、ベルンハルトが一通の手紙を運んできた。差出人はグレゴール・アイゼン。老商会主の文字は太く、便箋には一行しかなかった。
『あなたが采配なさる場所と取引を続けます』
アマーリエは書き終えた指示書を裏返した。
「お嬢様」
「奉公人のうち、移る先を必要としている者の名は」
ベルンハルトは懐から薄い手帳を出した。すでに印が付いている頁を開く。
「御者が二名、倉庫番が一名、厨房から三名。いずれも、次の雇い主が決まるなら勤めたいと」
「取引先へは、わたくしが席を移したことだけを。レヴェル家の仕事を引き受けるとは伝えないでください」
「承知いたしました」
「家に残る者の給金は、家が支払うべきものです。こちらで埋め合わせはいたしません」
「そのように」
ベルンハルトは委任状の綴じを直そうとしていた。いつもなら紙端を揃え、紐の緩みを締める手が、途中で止まった。
アマーリエは封を直さなかった。委任状を綴じ物ごと自分の側へ引き、父へ返すための盆へ載せる。抗議の言葉も、猶予の日付も添えなかった。
「お運びしますか」
「明朝、食堂へ。お父様が皆様とお揃いのときに」
ベルンハルトは盆を受け取った。扉の前で一礼し、何も尋ねずに出ていく。
アマーリエは残っていた燭芯を切った。机から持ち出したのは、自分の印章と、三年間使い続けた帳面だけだった。
* * *
「門を開けさせろ!」
翌朝、エドガーの声が玄関広間まで響いた。
窓の外には荷馬車が三台並んでいた。門衛が何度頭を下げても、御者は手綱を緩めない。受領する者の名も、損傷があった際に責を負う者の名も、レヴェル家からは出てこなかった。
「荷受けなど、倉庫番にさせればいいだろう」
ヴィクトルは外套も着ずに階段を下りてきた。ベルンハルトから渡された紙を見て、眉間へ線を寄せる。
「倉庫番はどこだ」
「昨夜、暇を願い出ました」
「ならば別の者を立てろ」
「どなたを、どちらの倉庫へ、何名お立てになりますか」
「そんなものはアマーリエに決めさせろ!」
親族たちの顔が、一斉に末席の椅子を探した。朝食の卓には、冷えた茶と空の椅子だけが残っている。
「昨夜から姿が見えないと思ったら、職務を放り出したのか」
「女ひとりに任せきりにするからだ」
「私は何度も、ヴィクトルが実務も見るべきだと言ったぞ」
「今さら何を。君も娘の判で足りると——」
「おやめになったほうがよろしいかと」
ベルンハルトが盆を卓へ置いた。委任状は封を直されないまま、エドガーの前に返されていた。
「アマーリエお嬢様は、昨夜をもって委任をお引き上げになりました」
「引き上げた?」
ヴィクトルが紙を取り、裏返し、また表へ戻した。文字は増えなかった。
「勝手な真似を。伯父上、命じて戻させれば済みます」
「呼んでこい」
「すでに当家のお席にはおられません」
「どこへ行った」
ベルンハルトは答えなかった。代わりに門前で鞭が鳴り、一台目の荷馬車が向きを変えた。
エドガーは委任状の端を押さえた。末席の娘に打てる手などない。婚家もなく、爵位を継ぐ立場でもない娘が、家を離れて何を決められる。
「ヴィクトル様」
門から駆け込んだ若い使用人が、息を整えられないまま頭を下げた。
「本日の持ち場が決まりません。裏門の修繕へ何名、厩へ何名を回せばよろしいでしょうか」
「家令に聞け」
「ベルンハルト様は、次の主人がお決めになることだと」
「では伯父上に」
エドガーは口を開き、卓上の紙へ目を落とした。人数も期限も書かれている。だが、誰をどこから動かせば別の場所が空くのか、その紙は教えてくれない。
「昨日の割り振りどおりにしろ」
「昨日、厩へ回った者は荷受けのために雇われた者です。本日は荷が入りませんが」
「ならば好きにしろ!」
使用人は返事をせず、頭を下げて去った。開いた扉の向こうで、待たされていた者たちが互いの顔を見る。やがて一人が帽子をかぶり直し、敷地の外へ歩き出した。
「些事だ」
ヴィクトルは襟を正した。
「僕が取引相手と話せば片が付く。先方は応接室だな」
約束の時刻を過ぎた応接室には、取引相手が一人で座っていた。前へ出された茶には手を付けず、帳面を閉じている。
「お待たせした。今後は僕が家を代表する」
「アマーリエ様は」
「細かな仕事なら呼ばせよう」
「承認をいただけるのでしょうか」
「僕の承認では不足か」
相手は卓上の書類をヴィクトルへ差し出した。日付、数量、受け渡し場所。ヴィクトルは目を走らせたあと、紙をエドガーへ送る。
「伯父上の判を」
「これは以前の約定と同じだろう」
「変更が三箇所ございます」
取引相手は椅子から立った。書類を自分の鞄へ戻し、留め金を閉じる。
「アマーリエ様の承認がないのであれば、本日は引き取ります」
「待て。レヴェル家との約定だぞ」
「アマーリエ様が責を負われるという約定です」
「家名を軽んじるのか!」
「どなたも責を負われない家名では、荷を預けられません」
取引相手は一礼し、ヴィクトルの横を通り過ぎた。親族の一人が追いかけようとしたが、扉を押さえる手はなかった。
窓の外では、最後の荷馬車が門を出ていった。御者は大通りへ進み、アイゼン商会の荷印が掲げられた一団へ合流する。
エドガーは返された委任状を握った。紙の白さが指のあいだからのぞき、皺だけが増えた。顔から色が抜けていくのを、今度は誰も見落とさなかった。
「アマーリエを連れ戻せ」
声は先ほどより低かった。
「今すぐだ」
* * *
アイゼン商会の応接室では、グレゴールが扉の前まで迎えに出た。
「アマーリエ・レヴェル様。お待ちしておりました」
家名より先に置かれた名前が、天井の高い部屋へまっすぐ通った。彼はアマーリエの手から帳面を受け取らず、彼女が座るまで卓上の書類にも触れなかった。
「昨夜のお手紙、拝受いたしました」
「あれで足りましたかな」
「はい」
「ならば結構」
グレゴールはそれだけ言い、窓際にいたルーカスへ場所を譲った。グレゴールはそれきり、口を挟まなかった。
卓の上には、今朝レヴェル家の門前から戻った荷の一覧があった。アマーリエは三台分を確認し、御者と倉庫番の新しい持ち場を告げる。ルーカスは彼女の言葉を遮らず、決定したことだけを次々と書き留めた。
「レヴェル家へ戻す荷はございません」
「承知しました。先方が新たな条件を整えられた際は、先方の責任者と改めて交渉いたします」
「わたくしを窓口にはなさらないでください」
「もちろんです。アマーリエ様は、もうあちらの代理人ではありません」
廊下の向こうで足音が増えた。新しい雇い先を求める御者と倉庫番、それに厨房から来た者たちが、順に商会の者へ名を告げている。誰もレヴェル家の不足を埋めるためには戻されなかった。
ルーカスは書き終えた紙をグレゴールへ渡し、それから卓の反対側には座らなかった。以前と同じく自分の隣の椅子を引き、アマーリエへ示す。
「こちらへ」
末席ではなかった。商会主の正面で、決裁する者が並んで座る場所だった。
「本日だけの助力をお願いするつもりはございません」
ルーカスは椅子の背から手を離さなかった。声は取引の相談をするときと同じだったが、書き留めるためのペンを持っていない。
「アマーリエ様。私とともに、この商会を采配していただけませんか」
「雇われるということでしょうか」
「いいえ。私の隣で、私と同じだけ決めていただきたいのです」
ルーカスは一度、グレゴールを見た。老人は口を挟まず、杖の頭へ両手を重ねている。
「そして、お許しいただけるなら、暮らしも同じ場所で。私の妻になっていただきたい」
アマーリエの手は帳面の上にあった。三年間、判を求める者は大勢いた。彼女の返事を待つ者は、目の前に一人だけだった。
「商会の采配と婚姻を、同じ返事でお求めになるのですか」
「別々にお答えくださって構いません。どちらか一方でも、両方ともお断りでも」
「商会をお断りし、婚姻だけお受けした場合は」
「私が商会へ戻れなくなるかもしれません」
グレゴールの杖が、床を一度だけ鳴らした。ルーカスは咳払いをして姿勢を正す。
「訂正します。戻ります。働きます」
アマーリエは隣の椅子を見た。扉に近い末席へ仕事だけが運ばれてくることはない。座れば、その席で決めたものが自分の名で出ていく。
「では、両方ともお受けいたします」
ルーカスの指が椅子の背を強くつかみ、すぐに緩んだ。
「ありがとうございます、アマーリエ様」
「ただし、わたくしが誤っているときはお止めくださいませ」
「はい。私が誤っているときも、遠慮なく」
「そちらのほうが多くなりそうですな」
グレゴールは書類の一枚目をアマーリエの前へ置いた。判を急かさず、彼女が読み終えるまで杖を膝へ横たえた。
そのとき、案内されてきたベルンハルトが、一歩だけ前へ出た。いつもと同じ角度で腰を折り、しかしレヴェル家の家令としては名乗らなかった。
「次のお席にも、家令はご入用でしょうか」
アマーリエは顔を上げた。ベルンハルトの手には、あの薄い手帳だけがある。
「わたくしからも、お願いしてよろしいのですか」
「三年間、お尋ねいただくのを待っておりました」
「では、ベルンハルト。これからもお願いいたします」
「承知いたしました」
彼は一礼し、今度はアマーリエの椅子の後ろへ立った。
* * *
エドガーがアイゼン商会を訪れたのは、その日の午後だった。
先触れはなかった。ヴィクトルと親族二人を連れ、案内を待たずに応接室へ入ろうとしたため、商会の者に扉の外で止められた。
「私はアマーリエの父だ。娘に会うのに許しが要るのか」
「アマーリエ様にお伺いいたします」
「様など付けるな。あれはレヴェル家の——」
扉が内側から開いた。アマーリエはルーカスの隣に座ったまま、入室を許した。
エドガーは最初にアマーリエを見なかった。卓上を探し、彼女の帳面と印章を見つけ、その脇に置かれた商会の書類へ目を止める。彼の手には、皺の残った委任状があった。
「話は簡単だ。これを戻す」
エドガーは委任状を卓へ置いた。
「今日の混乱は、まだ取り返しがつく。荷を戻し、人を戻し、先方におまえから説明しろ」
「どの立場でございましょう」
「何を言っている。これまでと同じだ」
「わたくしの席は、もうございません」
「席なら戻す! ヴィクトルの隣でも、私の近くでも好きに座ればよい」
ヴィクトルが横から口を挟んだ。
「従姉上も少し意地を張りすぎだ。家の者が困っているんだぞ。今朝の件だって、前もって説明してくれれば——」
「説明なら受けただろう」
エドガーの声がヴィクトルを切った。朝まで彼を支える者として上座に置かれていた男は、口を閉じて親族の後ろへ下がる。
「アマーリエ、まず委任を戻せ。おまえが承認すれば、取引先も戻る。奉公人にも私から言って聞かせる」
「戻らないと申した者は、どうなさいますか」
「家の恩を説けば分かる」
廊下を、かつての御者が商会の腕章を付けて通り過ぎた。エドガーは呼び止めようとしたが、御者は扉の中へ目を向けず、新しい荷札を運んでいった。
「給金を上げてもよい。必要なら、おまえの取り分も見直す」
アマーリエは委任状を閉じようとした手を止めた。エドガーの指は紙の上にあり、その目もまた、紙から離れない。
「おまえがいなければ、明日の人繰りも決められん。先方は私の判では受けないと言う。ヴィクトルでは話にならない。おまえなら、すべて元に戻せる」
「伯父上!」
「黙れ!」
ヴィクトルの肩が落ちた。親族たちは互いへ寄せていた椅子から立ち、誰が先にアマーリエを末席へ移したのか確かめるように目を避けた。
エドガーはそこでようやく、娘の顔を見た。
「頼む、アマーリエ。私の娘だろう」
呼び方だけが三年に遅れて届いた。その視線はすぐ、卓上の委任状へ戻った。
アマーリエは顔を上げた。
「その委任は、わたくしがお預けしたものにございます」
エドガーの口が開いた。命じる言葉は出ず、委任状へ伸ばしていた手が卓の縁から落ちた。
「アマーリエ」
「本日のお話は、これで」
「娘が父を見捨てるのか」
彼女は返事をしなかった。ベルンハルトが扉を開け、エドガーたちのために通路を空ける。
ヴィクトルは伯父の顔をうかがったが、そこに次の命令はなかった。親族に押されるように廊下へ出て、最後まで一度も振り返らなかった。
エドガーは委任状を拾い上げた。紙を持つ手だけを残し、扉の外へ退いた。
扉が閉まると、ルーカスが立ち上がった。何も尋ねず、自分の隣の椅子を引く。
「こちらへ」
アマーリエは末席ではない椅子へ移った。ベルンハルトが彼女の後ろに立ち、グレゴールが最初の取引書類を卓の中央へ滑らせる。
彼女は一頁ずつ読み、自分の名の下へ印章を置いた。誰にも預けられたのではない場所で、誰に使われるかを自分で選んだ委任だった。
ルーカスの隣で、アマーリエはようやく微笑んだ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




