異世界に来たのでプロレスとオタ活を布教します 【十五文化圏周縁抄 暦外の預言者】
真琴は、異世界に来て最初に絶望した。
帰れないことではない。
言葉が通じないことでもない。
明日の飯がないことでもない。
プロレスができない。
オタ活ができない。
その二つだった。
石の神殿。
赤土の広場。
太陽を刻んだ祭壇。
鳥と獣の仮面をかぶった戦士たち。
鳴り続ける太鼓。
見知らぬ空。
見知らぬ民。
普通なら泣く。
普通なら逃げる。
普通なら神に祈る。
だが、真琴は女子プロレスラーだった。
倒れたら立つ。
立てるなら前へ出る。
リングがないなら、作ればいい。
本がないなら、描けばいい。
観客がいないなら、育てればいい。
推しがいないなら、布教すればいい。
真琴は、拳を握った。
「ないなら作るしかないじゃん」
後にザポテックの神官たちは、この瞬間をこう記した。
暦外の預言者、初めて天命を受く。
もちろん、真琴はそんなことを考えていない。
ただ、プロレスとオタ活がしたかっただけである。
*
真琴は強かった。
リングの上で鍛えた身体がある。
何度も受けた技がある。
何度も落とされた背中がある。
何度も立った膝がある。
痛みの逃がし方を知っている。
相手を壊さず、しかし本気でぶつかる方法を知っている。
観客の目線を知っている。
間を知っている。
沸く瞬間を知っている。
そして、彼女は濃かった。
ただのオタクではない。
かなり濃い。
英霊を集める遊戯には、財布の底が見えるまで突っ込んだ。
太陽の姉神めいたルチャドーラには、脳をだいぶ焼かれていた。
筋肉の王子たちが奥義を叫ぶ漫画も読んでいた。
女子プロレスのゲームもやっていた。
深夜の豆腐屋めいた女子プロレス劇も見ていた。
リングで夢を見せる女たちの名前を覚えていた。
雪の名も。
赤い名も。
ハリウッドの名も。
チェリーの名も。
リンも。
ママも。
魂の奥に刻んでいた。
名台詞を覚えている。
決めポーズを覚えている。
入場曲の気配を覚えている。
実況の間を覚えている。
煽り文句を覚えている。
あまりにも覚えていた。
そして、誰も止めなかった。
これがザポテックにとっての不幸であり、幸福であり、のちの文化事故の始まりだった。
*
最初に真琴が見たザポテックの闘技は、試合ではなかった。
石の広場で、二人の仮面の戦士が向かい合っていた。
一人は黒い獣の仮面。
一人は鳥の仮面。
周囲には神官が立ち、太鼓が鳴り、観客が円を作っている。
悪くない。
いや、かなり良い。
仮面。
太鼓。
観客。
入場感。
太陽。
石の広場。
これは、かなりリングに近い。
真琴の中のプロレスラーが反応した。
オタクも反応した。
神話感がある。
ルチャ感がある。
これはいける。
かなりいける。
そう思った次の瞬間、黒い仮面の戦士が鳥の仮面の戦士を持ち上げ、石床へ背中から叩きつけた。
鈍い音がした。
鳥の仮面の戦士は、受け身を取らなかった。
背をまともに打ち、息を詰まらせ、動けなくなった。
観客は沸いた。
神官は暦の名を唱えた。
太鼓が強くなった。
真琴は、血の気が引いた。
「受け身!」
叫んだ。
誰も分からなかった。
黒い仮面の戦士がこちらを見た。
神官も見た。
観客も見た。
真琴は広場へ飛び込んだ。
「違う! それは試合じゃない! 壊し合い!」
神官たちは顔を見合わせた。
仮面の戦士たちは構えた。
真琴は構わなかった。
石床へ立ち、自分の胸を叩いた。
「最初に覚えるのは、勝ち方じゃない」
通じていない。
だが、熱量は通じる。
たいていのことは熱量でなんとかなる。
真琴はそう信じていた。
かなり雑である。
真琴は、自分の背を石床へ落とした。
ばしん、と音がした。
観客が息を呑んだ。
だが、真琴はすぐに起き上がった。
「見ろ」
彼女は胸を張った。
「負けたんじゃない。受けたんだ」
神官の一人が、震える手で石板に何かを刻んだ。
後にザポテックの子供たちは、文字より先に受け身を習うようになる。
すべては、この時の真琴のせいである。
*
言葉はすぐには通じなかった。
だが、身体は通じた。
真琴は仮面の戦士たちを並べ、倒れ方を教えた。
あごを引く。
背中を丸める。
手を叩く。
首を守る。
呼吸を止めない。
倒れたら終わりではない。
倒れて、受けて、立つ。
そこまでが技である。
ザポテックの戦士たちは、最初は笑った。
倒れ方など、敗者の知恵だと思ったからである。
真琴は笑わなかった。
「倒れ方を知らない奴は、二度と立てない」
言葉は通じていない。
だが、真琴は言った。
通じるまで言う。
通じなければ、身体で見せる。
身体で見せても駄目なら、もう一回やる。
それがスポ根である。
神官たちは、その姿を見ていた。
彼らは真面目だった。
真面目すぎた。
真琴が一つ言えば、十ほど意味をつけて記録した。
真琴が倒れれば、地に身を預ける太陽の儀と書いた。
真琴が立てと言えば、暦は倒れぬと書いた。
真琴が首を守れと言えば、魂の柱を折るなと書いた。
真琴が受け身と言えば、受けし者は敗れし者にあらずと書いた。
真琴は、それを見ても止めなかった。
文字が読めなかったからである。
*
数日後、真琴は広場の端に線を引いた。
石灰で四角を描く。
四つの角に柱を立てる。
柱と柱の間に縄を張る。
少し低い。
少し硬い。
ロープというには心もとない。
だが、何もないよりはいい。
「リング!」
真琴は言った。
神官は復唱した。
「リン」
「グ」
「リング」
神官たちは頷いた。
後にザポテックでは、神前に張られた四角い場をリングと呼ぶようになる。
暦にも、神話にも、古い言葉にもない音だった。
だから、神官たちはそれを暦の外から来た名として扱った。
真琴は満足した。
「やっぱり四角がないと締まらないよね」
誰にも通じていない。
それでも、真琴は満足した。
次に、彼女は入場を教えた。
ただ歩いて入るな。
見られていると知れ。
仮面を見せろ。
胸を張れ。
敵を見ろ。
観客を見ろ。
背中も見せろ。
手を上げろ。
名を叫べ。
名前は強い方がいい。
技も強い方がいい。
響きが大事。
意味も大事。
でも、まず響きが大事。
神官たちは、また記録した。
名は、魂を起こす音である。
真琴は、そこまで言っていない。
*
真琴は、子供にも教えた。
最初は偶然だった。
広場の隅で、幼い子が彼女の真似をして背中から倒れた。
危ない。
真琴は飛んでいった。
あごを引け。
手を叩け。
首を守れ。
背中全体で受けろ。
子供は笑った。
もう一度倒れた。
今度は少し上手かった。
真琴は頷いた。
「いいじゃん」
子供は嬉しそうに笑った。
その日から、子供たちが集まった。
文字を習う前に、受け身を取る。
数を覚える前に、三つ数えられても立つ。
神の名を覚える前に、仮面の名乗りを真似する。
それを見て、真琴は思った。
これは学校が要る。
理由は単純だった。
レスラーは田舎に学校を作るもの。
それと、オタ活は子供のころから英才教育した方がいい。
後にザポテックの神官たちは、これを教育神殿の始まりとした。
真琴は、ただ道場と布教スペースが欲しかっただけである。
*
食事にも、真琴は口を出した。
「身体を作るなら、タンパク質!」
神官たちは記した。
「脂は控えめ!」
神官たちは記した。
「でも糖質は要る! 動けないレスラーはリングに上がれない!」
神官たちは記した。
鶏を増やせ。
卵を集めろ。
野菜を食え。
主食を抜くな。
鍛えるなら食え。
食ったなら動け。
動いたなら寝ろ。
寝たらまた食え。
それが、後にザポテックの戦士食の基本となる。
農業は発展した。
養鶏も発展した。
卵の扱いも厳しくなった。
理由は高尚ではない。
「卵ご飯、食べたいじゃん」
真琴はそう言った。
神官たちは、また記した。
その結果、ザポテックでは米が尊ばれ、卵の衛生基準は妙に厳しくなった。
すべては、卵ご飯のためである。
*
医者もまた、真琴が残した。
レスラーは怪我をする。
怪我をするなら、医者が要る。
それは彼女にとって常識だった。
リングの脇に、診る者を置く。
骨を見る者。
血を止める者。
意識を確かめる者。
続けられるか、止めるかを決める者。
真琴はそれをリングドクターと呼んだ。
ザポテックの神官たちは、その言葉も記した。
医療は大きく進んだ。
打撲。
骨折。
脱臼。
裂傷。
火傷。
意識の混濁。
試合後の処置。
試合前の確認。
それらは、真琴のもとで急速に整理された。
ただし、そこで止まらなかった。
真琴は、診察にも余計なことを言った。
試合後の処置には様式美がある。
ドクター介入は盛り上がる。
包帯には絵面がある。
夜のお医者さんごっこも、もちろんある。
神官たちは筆を止めた。
「そこも記すのか」
「記すでしょ」
真琴は言い切った。
「様式美だし」
記された。
もちろん、すべて真琴のせいである。
*
神具の始まりは、椅子だった。
ザポテックの職人が、金属の管で折り畳める椅子を作った。
軽く、持ちやすく、畳めば運べる。
真琴はそれを見て目を輝かせた。
「パイプイス!」
職人は誇らしげに頷いた。
神官が聞いた。
「これは、座るものではないのか」
真琴は首をかしげた。
「座れるよ」
「なら、なぜ座らぬ」
「他に座る椅子があるから」
神官たちは、その言葉を深く受け止めた。
座れる。
だが、座らない。
日常には用いぬ。
ならばこれは、暦の外でのみ役を持つ器。
すなわち、神具である。
真琴はそこまで考えていなかった。
ただ、パイプイスで飯を食うのは違うだろう、と思っただけである。
その後、折り畳み机も作られた。
真琴は、また目を輝かせた。
「机も要る!」
「書くためか」
「壊すため!」
職人たちは困惑した。
だが、作った。
壊すためには数が要る。
数が要るなら、同じものをたくさん作る必要がある。
量産体制が整った。
金属加工も発展した。
折り畳み機構も洗練された。
だが、それは生活のためにはあまり使われなかった。
試合で使うためである。
*
「有刺鉄線デスマッチも要る」
真琴がそう言った日、神官たちは長い沈黙を置いた。
「ユウシテッセンデスマッチ」
年長の神官が、音を確かめるように繰り返した。
「どの暦に属する儀礼か」
「暦?」
真琴は首をかしげた。
「違う違う。そういうんじゃなくて、熱いやつ」
「熱い」
「痛いし、怖いし、逃げ場がない。でも、だからこそ立ち上がった時に観客が沸く」
「観客が沸く」
「そう。だから要る」
「要る」
「要る」
神官たちは頷いた。
暦には、まだ空白があった。
「本当は、電気が流れるともっとすごいんだけどね」
「デンキ」
「雷みたいなやつ」
「雷を、線に流すのか」
「まあ、そんな感じ」
真琴は軽く言った。
言っただけだった。
その時代のザポテックに、雷を線へ流す術はなかった。
だから神官たちは、その言葉を暦の外へ置いた。
いつか、雷を線へ降ろせる日まで。
真琴は知らなかった。
その数年後、神官たちが本当に雷を線へ流すことを。
*
真琴は、神話にも口を出した。
口を出したつもりはなかった。
ただ、推しの話をしただけである。
太陽。
羽の蛇。
笑う女神。
強い姉。
宝具。
都市。
神名。
英霊。
召喚。
廃課金。
それらを、真琴は身振り手振りで語った。
言葉は半分も通じていない。
だが、熱量は十割通じた。
「ケツネェはね!」
真琴は叫んだ。
神官たちは記した。
ケツネェ。
太陽に近き姉神。
「テノチティトランみたいじゃん!」
真琴ははしゃいだ。
神官たちは記した。
テノチティトラン。
暦外より来たりし水上都市神。
真琴は壁に絵を描いた。
羽の蛇。
燃える石。
落ちる陽。
笑う女神。
ついでに、三つの技の形も描いた。
「これは?」
神官が聞いた。
「三大奥義」
「三つの、奥義」
「そう。継承されるやつ。簡単に破られちゃ駄目なやつ。あと、名前が強くないと駄目」
真琴は真顔だった。
神官も真顔で頷いた。
この時点で、誤解は完成していた。
*
衣装にも、真琴は余計なことを言った。
「ケツネェに下着は無い!」
勢いで言った。
神官たちは筆を止めた。
「したぎ」
「ない!」
「なぜ」
「ケツネェだから!」
説明になっていなかった。
だが、真琴の目は真剣だった。
神官たちは、真剣な目に弱かった。
後にザポテックでは、鳥の仮面を戴く成人の衣装に一つの作法が加わる。
余計な布を挟まぬこと。
仮面と身体でリングに立つこと。
羽の名を受ける者は、隠すためではなく、見せるために立つこと。
もちろん、真琴はそこまで考えていない。
ただ、推しの解釈を叫んだだけである。
黒豹の仮面にも、別の呪いが残った。
「ポカニキはね、投げたら当たらない」
真琴は真顔で言った。
神官たちは記した。
「ならば、黒豹の仮面を戴く者は、投げぬのか」
「違う」
真琴は首を振った。
「投げる」
「当たらぬのに」
「当たらぬから、いい」
神官たちは沈黙した。
「しかも、投げた本人が痛い目を見るまでが様式美」
「様式美」
「そう。そこまで含めてポカニキ」
説明になっていなかった。
だが、後世の黒豹仮面はこれを守った。
投げる。
外れる。
自分が痛む。
観客が沸く。
黒豹は、痛みを背負ってなお立つ。
神官たちは、それを黒豹の不発儀礼と呼んだ。
もちろん、真琴はそこまで考えていない。
*
ククルンの衣装については、さらに面倒だった。
「ククルンは悩ましい」
真琴は、壁画の前で腕を組んだ。
神官たちは筆を構えた。
「一つは、身体にぴったりした、つやつやの衣装」
「つやつや」
「そう。羽蛇の光沢。身体の線。強さと神性。分かる?」
神官たちは分からなかった。
だが、記した。
「胸のところは、ちゃんと分かれてるやつ」
「なぜ分ける」
「そこにこだわりがあるから」
「神学上の意味が」
「ある。たぶんある。少なくとも私にはある」
神官たちは記した。
羽蛇の光沢衣には、胸の起伏を独立して示す造形を置くべし。
後世の職人は、それを高度な縫製技術として受け継いだ。
成人の仮面継承者がリングに立つ時、その衣装は身体の線を隠すのではなく、神の形として見せる。
もちろん、発端は真琴の趣味である。
だが、真琴はそれだけでは満足しなかった。
「でも、もう一つはウェスタン風」
「ウェスタン」
「荒野。姉御。帽子。陽気。強い。これも捨てがたい」
真琴は頭を抱えた。
「これはね、宗教戦争なんだよ」
神官たちは顔色を変えた。
「戦争」
「キノコタケノコ、分かる?」
「分からぬ」
「分かり合えないんだよねえ」
その日、ザポテックの羽蛇衣装には二つの流れが生まれた。
光沢の密着衣を尊ぶ者。
荒野の姉御衣を尊ぶ者。
どちらも羽蛇を奉じる。
どちらも正統を名乗る。
どちらも譲らない。
後にザポテックでは、同じ神を奉じながら衣装や解釈で絶対に譲れない争いを、キノコタケノコと呼ぶようになる。
真琴は、また一つ余計な言葉を残した。
*
真琴は、台詞にもこだわった。
立ち上がる時には、言葉が要る。
勝つ時にも、負ける時にも、言葉が要る。
観客の胸に刺さる言葉。
魂に残る言葉。
推しが言った言葉。
自分が言いたかった言葉。
それらを、真琴は惜しみなく教えた。
女王の座は譲らない。
愛していると叫べ。
焦るな。
まだ終わっていない。
負けるために上がるのではない。
リングはここからが面白い。
そういう言葉を、真琴は何度も言った。
ハリウッドめいた女の言葉も。
チェリーの名を持つ女の言葉も。
氷雪の名を持つ女の言葉も。
赤い名を持つ女の立ち方も。
リングの夢を描く遊戯の言い回しも。
全部、混ぜて言った。
神官たちは、それを魂の古の台詞と呼んだ。
古くはない。
真琴の記憶である。
だが、後世のザポテックの子供たちは、それを真面目に唱えるようになる。
朝の受け身のあと。
仮面を結ぶ前。
試合に出る日。
負けた夜。
泣いた朝。
魂の古の台詞は、ザポテックの子供たちを育てた。
すべては、真琴が濃すぎたせいである。
*
真琴は、名付けもした。
最初は一人だった。
生まれた子に、強い名をくださいと頼まれた。
真琴は考えた。
強い名前。
立ち上がる名前。
負けても折れない名前。
観客が呼びやすい名前。
推しに恥じない名前。
「サキ」
真琴は言った。
次は、ユキ。
その次も、その次も、真琴は覚えている名を授けた。
レスラーの名。
ゲームの名。
リングの名。
魂に残った名。
ザポテックの親たちは喜んだ。
強い名だと受け取った。
神官たちは名付け帳を作った。
後世、ザポテックの人物名には、やたらとレスラーめいた響きが増えることになる。
もちろん、真琴のせいである。
*
関係性にも、真琴は余計なことを言った。
「ベビーフェイスとヒールが、リングの外で組んずほぐれつするの、見たいでしょ」
神官たちは沈黙した。
「女と女も、男と男も、タッグには魂があるわけ。分かる?」
神官たちは分からなかった。
だが、記した。
「夜のベッドもリングみたいなもんだから」
そこで、年長の神官が筆を止めた。
「そこも記すのか」
「記すでしょ。様式美だし」
真琴は言い切った。
この一言により、後世のザポテックでは、寝所のタッグ、変則式、マネージャー介入、夜のリングといった妙な語彙が生まれる。
真琴は最初、完全に観客のつもりで語っていた。
女は女と。
男は男と。
ベビーはヒールと。
マネージャーは介入し。
夫は参戦し。
タッグは乱れ。
観客は沸く。
そういうものが見たい。
お前らも見たいだろ。
私は見たい。
ひどい話である。
そして、さらにひどいことに、彼女自身もその文化に巻き込まれた。
現地の男と結婚した。
マネージャーもいた。
女の夜のタッグ相手もいた。
真琴は、少しだけ天を仰いだ。
まさか自分が。
そう思った。
だが、差し出されたものを前に、彼女の中のレスラーが言った。
据え膳食わぬはレスラーの恥。
「ごっちゃんです!」
神官たちは、それも記した。
止めろ。
誰か止めろ。
だが、誰も止めなかった。
*
真琴は同人誌も作った。
紙は粗い。
墨も粗い。
絵も、最初はうまく乗らなかった。
だが、作った。
仮面の解説。
技名の由来。
推し神の設定。
太陽女神の妄想。
三大奥義の図。
タッグ相関図。
夜の変則式の注意書き。
リングドクターの役割。
卵ご飯の作り方。
だいたい全部、同じ冊子に入っていた。
神官は困惑した。
「これは、何の書であるか」
「布教本」
「神典か」
「いや、同人誌」
「ドウジンシ」
「好きなものを詰める本」
神官たちは震えた。
好きなものを詰める本。
それは、ザポテックの筆の文化を少し変えた。
後に神官たちは、祭りのたびに小冊子を作るようになる。
仮面紹介。
因縁紹介。
奥義解説。
推し神官の語り。
新作神具の説明。
もちろん、頒布もした。
真琴は、増刷という言葉を教えた。
これもまた、罪深い神託であった。
*
印刷は、そこで止まらなかった。
真琴は、もっと色が欲しかった。
「カラーで見たいじゃん」
神官たちは、また筆を取った。
「スポーツ新聞みたいにさ。昨日の試合が、朝には紙で読める。技の瞬間が絵で載る。煽り文もある。選手コメントもある。いいでしょ?」
神官たちは、よく分からないまま頷いた。
職人は紙を薄くした。
顔料を増やした。
版を重ねた。
色を合わせた。
同じ絵を何百枚も刷れるようにした。
興行ポスターが生まれた。
試合速報が生まれた。
推しの特集紙が生まれた。
フルカラーの同人誌が生まれた。
外の文化圏なら、それは行政や教育に使われただろう。
ザポテックでは、興行と推し活に使われた。
神殿の記録は石でよかった。
石は長く残る。
紙と色は推しに使う。
これもまた、暦外の預言者の教えである。
もちろん、真琴はそんな文明論を語っていない。
ただ、カラーで見たかっただけである。
*
やがて、遠くへ言葉を飛ばす仕組みも生まれた。
最初は太鼓。
次に旗。
次に火。
次に光。
次に、何かよく分からない魔法と工学の混ざった板。
真琴はそれを見て、目を輝かせた。
「レスラーも発信しないとね!」
「ハッシン」
「今の時代、レスラーも自分で言葉を出すべきって、どこかの男爵が言ってた気がする!」
「男爵」
「たぶん!」
たぶんであった。
だが、ザポテックでは十分だった。
レスラーが自分の言葉を遠くへ届ける文化が生まれた。
試合前の煽り。
試合後の感謝。
仮面の写真。
今日の卵ご飯。
新衣装の進み具合。
スミ入れの途中経過。
ファンへの一言。
神官はそれを記録し、職人はそれを支え、観客はそれを待った。
情報革命は起きた。
だが、役所はあまり便利にならなかった。
商館もあまり便利にならなかった。
外との外交もあまり便利にならなかった。
そんな暇があるなら、推しの発信を整えろ。
それがザポテックである。
*
写真も生まれた。
最初に写されたのは神殿ではない。
王でもない。
暦でもない。
真琴の決めポーズである。
「もっと下から!」
真琴は言った。
「光! こっち! 仮面が光るように!」
職人は困惑しながら、光を調整した。
神官は感心しながら、写された影を見た。
「これは、記録か」
「宣材」
「センザイ」
「試合前に必要なやつ」
必要だった。
ザポテックでは必要になった。
写真は、レスラー写真集のために発展した。
決めポーズ。
入場衣装。
仮面。
肉体。
タッグショット。
試合後の包帯。
夜の診察式は、さすがに写すべきかどうかで一度神学論争になった。
それもキノコタケノコとなった。
神殿の記録は、やはり石でよかった。
写真は推しに使う。
それがザポテックである。
*
プラスチックめいた素材が生まれた時、真琴はしばらく黙った。
軽い。
色が乗る。
型から抜ける。
同じ形で作れる。
削れる。
曲げられる。
透明にもできる。
真琴は、震えた。
「プラモ……」
神官たちは、その震えを神意と見た。
職人たちは、素材を磨いた。
試作機を作った。
形を直した。
関節を入れた。
中に骨を入れた。
肩が動く。
腰が回る。
膝が沈む。
仮面は別成形。
衣装は多色。
記念興行版は偏光。
満月決戦版はパール。
有刺鉄線デスマッチ版はメタリック。
ザポテック驚異のメカニズムである。
そして、真琴はさらに余計なことを言った。
「キャストオフは必須」
神官たちは、また筆を止めた。
「キャストオフ」
「そう。外れること。剥がせること。見えること」
「だが、最終的に接着するなら、見えぬのではないか」
「見えないから塗らない、は甘え」
真琴は真顔だった。
「見えないところまで塗る。衣装の内側も、身体の先端も、ちゃんと塗る。たとえ接着して二度と見えなくなっても、そこに色がある。それが魂」
職人たちは震えた。
見えぬところに色を置く。
剥がせるように作り、なお接着できるように仕上げる。
外す腕。
戻す腕。
剥がしの技と、接着の技。
それは、模型職人たちの新しいリングとなった。
誰が一番きれいに剥がせるか。
誰が一番跡を残さず戻せるか。
誰が、見えない内側まで手を抜かず塗れるか。
そして、最も細かな先端のポッチまで正確に彩色できる者は、職人たちの間で王者と呼ばれた。
そこには、確かにチャンピオンベルトがあった。
リングの上ではなく、作業机の上に。
真琴は満足げに頷いた。
「そういうところに神は宿る」
神官たちは記した。
後にザポテックの可動模型職人は、接着されて見えなくなる箇所であっても、内側の彩色を怠らなくなった。
生活の椀は、まだ木でよかった。
水桶も、焼き物でよかった。
そんなものを改良している暇があるなら、次の限定版の金型を磨け。
それが、暦外の預言者より続く職人の心得であった。
そして、推しの模型の見えない内側が、特に女性の胸のポッチが無彩色であることは決して許されなかった。取っ組み合いのケンカである。
文明の優先順位とは、そういうものである。
外の文化圏なら、それは容器になっただろう。
農具になっただろう。
水路の部品になっただろう。
医療具になっただろう。
ザポテックでは、ルチャドーラとルチャドールの可動模型になった。
なんなら、写真技術、印刷技術、プラスチック加工がタッグを組んで、自らアクスタを作り上げた。
巣立ちの時である。
*
魔法も科学も、すべてリングへ吸われた。
火の魔法は入場演出へ。
風の魔法はマントのはためきへ。
光の魔法は仮面の反射へ。
雷の魔法は有刺鉄線へ。
金属加工はパイプイスへ。
木工は折り畳み机へ。
農業は卵ご飯へ。
養鶏はタンパク質へ。
医療はリングドクターへ。
印刷は同人誌へ。
通信は推しの発信へ。
写真は写真集へ。
成形技術はプラモデルへ。
そして人材は、リングへ。
ザポテックのリングは、ブラックホールである。
技術を吸う。
資金を吸う。
人材を吸う。
食料を吸う。
医療を吸う。
印刷を吸う。
情報を吸う。
宗教を吸う。
学校教育を吸う。
恋愛文化を吸う。
何も外へ漏れない。
外貨獲得を考える者がいても、誰かが言う。
「外貨獲得とかの暇があるなら、スミ入れしろ!」
その声は、暦外の預言者のものとされる。
たぶん真琴は言った。
言っていてもおかしくない。
言っていなくても、もう遅い。
ザポテックでは、それが真琴の教えであった。
*
真琴は、興行主になった。
プロモーターになった。
ただ試合を教えるだけでは足りなかった。
客を呼ばなければならない。
因縁を作らなければならない。
強い者同士をただぶつけても駄目。
初めて見る者にも分かる物語が要る。
悪役にも華が要る。
正義役にも弱さが要る。
実況が要る。
解説が要る。
レフェリーが要る。
レフェリーには、見えていたが見なかったという芸も要る。
隠れて見ている男も要る。
神官が聞いた。
「なぜ隠れて見ている男が要る」
「要るから」
「役目は」
「普段は語らない。でも、ここぞという時に出てきて、ファンは黙って見ろって言う」
「神官なのか」
「違う。いや、神官かもしれない。兵士でもある。兄でもある。とにかく要る」
神官たちは困惑した。
しかし、真琴の目があまりにも真剣だったので、暦の余白にその役を置いた。
後に、迷彩をまとった隠れ神官が生まれる。
これも、真琴のせいである。
*
年月が流れた。
ザポテックは変わった。
いや、表面はそれほど変わらなかった。
暦は残った。
神官は残った。
仮面は残った。
太陽神も、羽の蛇も、祭壇も、石の広場も残った。
外の者は、そこだけを見る。
古い文化。
石に刻む民。
暦を読む神官。
仮面を戴く戦士。
そう見える。
間違いではない。
だが、全部ではない。
中身はほとんどルチャリブレになっていた。
子供は受け身を習う。
若者は仮面を望む。
大人は興行を語る。
職人はパイプイスと折り畳み机を作る。
医者はリング脇に立つ。
農夫は鶏と米を育てる。
印刷師は同人誌を刷る。
写真師は宣材を撮る。
成形師は可動模型の関節を調整する。
発信係はレスラーの言葉を遠くへ飛ばす。
神官は実況する。
解説神官はうなる。
レフェリーは時に見なかったことにする。
隠れ神官は黙って見ている。
そして観客は、倒れた者へ叫ぶ。
立て。
まだ終わっていない。
愛している。
焦るな。
魂の古の台詞が、広場に響く。
古くはない。
だが、もう古い。
文化とは、そういうものでもある。
*
ザポテックの文明は、いつも二つの声の間で進んだ。
誰か止めろ。
いいぞもっとやれ。
真琴が余計なことを言う。
神官が記す。
職人が作る。
弟子が試す。
観客が沸く。
ならば、正しい。
止める者はいない。
あるいは、止めようとした者もいた。
だが、次の興行が近かった。
スミ入れが残っていた。
限定成形の色味が決まっていなかった。
同人誌の締切が迫っていた。
写真集の撮影もあった。
卵の衛生検査も済んでいなかった。
誰も止められなかった。
そうして、ザポテックは発展した。
魔法も。
科学も。
印刷も。
医療も。
農業も。
衣装も。
通信も。
模型も。
すべてリングへ吸われた。
誰か止めろ。
いいぞもっとやれ。
それが、ザポテックの文明である。
*
真琴は、世界を救ったつもりはなかった。
文明を進めたつもりもなかった。
神を作ったつもりも、暦を書き換えたつもりもなかった。
ただ、プロレスがしたかった。
オタ活がしたかった。
推しの話がしたかった。
受け身を教えたかった。
リングを作りたかった。
机を壊したかった。
椅子を振り上げたかった。
怪我人には医者をつけたかった。
女と女が、男と男が、夫とマネージャーが、組んずほぐれつする様式美を残したかった。
卵ご飯が食べたかった。
同人誌を刷りたかった。
カラーで見たかった。
推しの写真集を作りたかった。
可動模型を並べたかった。
レスラー自身に発信してほしかった。
その結果、ザポテックは暦を保ったまま、暦の中身をほとんどルチャリブレに差し替えられた。
後世の神官は、それを神託と呼んだ。
真琴なら、たぶんこう言っただろう。
「最高じゃん」
*
老いた真琴は、最後まで真琴だった。
膝は古傷で鳴った。
肩は何度も抜けていた。
背中には、有刺鉄線の痕が残っていた。
孫は多かった。
弟子はもっと多かった。
寝所のタッグ相手については、神官たちも途中から数えるのをやめた。
それでも、彼女はリングに上がった。
その日は、彼女の最後の興行だった。
本人はそう言わなかった。
だが、誰もが分かっていた。
神官は泣いていた。
弟子たちは仮面を伏せていた。
孫たちは受け身の姿勢を取っていた。
真琴は、ゆっくりと中央へ進んだ。
片手を上げた。
若いころと同じ高さまでは上がらない。
それでも、上げた。
「わが生涯に一片の悔いなし!!」
観客が叫んだ。
真琴は笑った。
「だからよ、止まるんじゃねぇぞ……」
そう言って、立ったまま死んだ。
後世の神官は、それを最後の神託と呼んだ。
学校は、それを朝礼の言葉にした。
子供たちは、像の前で片手を上げ、その言葉を唱えるようになった。
だが、真実はもう少しひどい。
真琴は、最後の最後までオタ活をしていただけである。
推しの台詞を混ぜたかった。
リングの上で決めたかった。
弟子と孫と観客の前で、最高の最終回をやりたかった。
そのために、立った。
そのために、片手を上げた。
そのために、死ぬ瞬間まで言葉を選んだ。
暦外の預言者。
偉大なる興行主。
最初のリング教師。
神具を授けし者。
有刺鉄線デスマッチの母。
白き卵飯の祖。
色刷り同人誌の始祖。
可動模型の母。
推し発信の導き手。
いくつもの名で呼ばれた女。
その正体は、絶命時すらオタ活を貫いた、生粋のバカヤローであった。
*
後に、ザポテックの学校には必ず像が立つようになる。
若き日のマコトが、片手を天へ掲げる像である。
実際にその姿で死んだ時、マコトは老婆だった。
だが、像は若い。
その方が映えるからである。
神官たちは、そこに異論を挟まなかった。
映えるものは、後世へ残る。
それもまた、暦外の預言者の教えであった。
像の前で、子供たちは朝の受け身を取る。
魂の古の台詞を唱える。
卵ご飯を食べる。
仮面の紐を結ぶ。
教師は言う。
倒れたなら、立て。
立ったなら、名乗れ。
名乗ったなら、見せろ。
見せたなら、沸かせろ。
沸かせたなら、次の世代へ残せ。
それが、暦外の預言者の教えである。
実際の真琴は、たぶんそこまで考えていなかった。
ただ、プロレスがしたかった。
オタ活がしたかった。
推しを語りたかった。
同人誌を刷りたかった。
リングを満員にしたかった。
最後まで、そういう女だった。
文化とは、ときに事故である。
もちろん、すべてマコトのせいである。




