第5話 再会
振り返ると、異形の男が立っていた。痩せて頬がこけ、琥珀の瞳だけがぎらぎらと光っている。着ているものは擦り切れた外套一枚。その下の腕は枯れ枝のように細い。
男に導かれ、小屋の群れの中を歩いた。所々で異形たちの視線を感じた。怯えと警戒が入り混じった目。子どもを背中に隠す母親の姿もあった。凪は視線を落とし、ただ黙って男の後をついた。
言葉が出なかった。
何を言えばいい? 三年間、壁の向こう側を見ないふりをしてきた人間が、ここで何を言える?
小屋の群れを抜けると、丘の斜面に出た。そこに、他の小屋とは少し離れた場所にひとつ、小さな小屋があった。壁に使われた廃材の隙間から、ちらちらと弱い灯りが漏れている。
「ルゥ。客だ。街の人間だが……お前の知り合いだそうだ」
男がそう告げると、廃材の扉が内側からゆっくりと開いた。
三年という時間は、人を変える。
凪は、それを知っていたつもりだった。
だが、扉の向こうに立つルゥを見た瞬間、凪は知っていたつもりのものと、実際に目にするものの落差に、膝から力が抜けるのを感じた。
痩せていた。頬の線が浮き出るほどに。銀灰色の髪は以前のような艶を失い、乾いた冬草のようにくすんでいる。肩にかけた布は薄く、その下で肩甲骨の輪郭が見えた。
だが、瞳だけは変わっていなかった。
琥珀色の、澄んだ光。三年前、群衆の中で凪を見つけたあの瞳と同じものが、今も静かに凪を見つめている。
「凪」
ルゥがその名を呼んだ。驚きはあった。だが、その声は不思議なほど穏やかだった。怒りでも、恨みでもない。ただ、懐かしい名前を久しぶりに口にした、それだけの響き。
その穏やかさが、凪の胸を抉った。怒鳴られたほうが楽だった。泣かれたほうがまだ耐えられた。
「……久しぶりだな、ルゥ」
声が掠れた。喉の奥がきつく締まって、それ以上の言葉が出てこない。
ルゥは小さく頷いて、凪を小屋の中へ招き入れた。
中は狭かった。大人二人が座ればいっぱいになるほどの空間に、藁を敷いた寝床と、小さな火鉢がひとつ。火鉢には申し訳程度の炭が燻っていたが、吐く息が白い。指先がじんと痺れる寒さだった。
ルゥは凪の向かいに座り、火鉢の上に手をかざした。その指は、記憶にあるよりもずっと細かった。
「どうして来たの」
「……話したいことがある。それと」
凪は一度言葉を切った。喉の奥の小骨が、三年分の重さで突き刺さっている。
「謝りに来た」
「謝る?」
「あの日、何もしなかった。お前が振り返ったとき、俺は目を逸らした。それを――」
「凪」
ルゥが静かに遮った。
「あの日のことは、いいの」
「よくない」
「よくなくても、いいの。あなたが目を逸らしたこと、私は怒ってない。怖かったのは、あなただけじゃなかった。街の誰もが怖かったんだと思う」
凪は唇を噛んだ。ルゥの言葉はいつもこうだった。怒りではなく理解で返す。それが優しさなのか諦めなのか、凪にはわからなかった。
「……聞きたいことがあるんだ」
凪は話題を変えた。変えなければ、このまま溺れてしまいそうだった。
「街で、子どもが歌を歌っていた。歌耕の旋律だ。排斥以降に生まれた子が知るはずのない歌を、夜ごとに口ずさんでいる」
ルゥの表情が、わずかに動いた。
「それは……届いていたの」
「届いていた?」
ルゥは火鉢の炭を見つめたまま、静かに語りはじめた。
「私たちは、毎晩歌っているの。ここから、壁の向こうに向かって」
凪は息を呑んだ。
「歌耕はね、土地に染みこむものなの。あの壁ができてから、私たちの歌は街の畑には届かなくなった。石が、歌を遮るから。でも、ゼロじゃないかもしれないって。ほんの少しでも、染みこんでいるかもしれないって。だから――」
ルゥの声が、小さく震えた。
「だから、毎晩歌い続けた。三年間、一日も欠かさずに」
凪は黙っていた。黙っているしかなかった。
追い出された者たちが、追い出した街のために歌い続けている。恨みではなく。呪いではなく。ただ、あの土地が死なないように。
「なぜだ」
声が裏返った。
「なぜそこまでする。お前たちを追い出した街だぞ。飢えているのはお前たちのほうだ。自分たちのことだけ考えていればいいだろう」
「それは違うよ、凪」
ルゥは首を振った。琥珀の瞳が、消えかけの炭火を映してちらちらと揺れた。
「あの土地は、私たちのものでも、人間だけのものでもない。あの土地は、あの土地のものだよ。私たちはただ、歌うことしかできない。だから歌うの。それだけ」
凪は拳を握った。爪が掌に食い込む痛みが、辛うじて感情の堤防を支えていた。
「……戻ってきてくれ、ルゥ。渡瀬に」
ルゥは答えなかった。しばらくの沈黙の後、小さく息を吐いた。
「戻っても、また追い出される」
「そうさせない」
「どうやって?」
「壁を壊す」
その言葉は、考えて出たものではなかった。胸の底から、ほとんど反射のように飛び出した。言ってしまってから、凪は自分の言葉に驚いていた。
ルゥもまた、驚いた顔をしていた。
「……壁を?」
「ああ。物理的にとは言わない。だが、門を開ける。お前たちの歌が街に届くようにする。そのために――」
凪は立ち上がった。狭い小屋の天井に頭がつきそうになりながら、ルゥを見下ろした。
「俺が街の連中に話す。歌耕のことを。不作の本当の原因を。お前たちがここで何をしているかを」
「聞いてもらえると思う?」
「わからない。たぶん、最初は無理だ。石を投げられるかもしれない。壬生に捕まるかもしれない」
凪は一度目を閉じ、もう一度開けた。
「でも、三年前に逸らした目を、もう一度逸らすわけにはいかない」
ルゥは長いこと凪を見上げていた。その瞳に、感情の波が幾重にも重なっているのが見えた。驚き。戸惑い。そしてその奥に、微かに灯るもの。
希望と呼ぶには、まだ弱すぎる光だった。
「……無茶だよ」
「ああ。無茶だ」
「あなたは昔から、大事なことになると急に無茶をする人だった」
その言葉に、かつての少女の面影が一瞬だけ重なった。凪は不覚にも、目頭が熱くなるのを感じた。
「ひとつだけ、お願いしていい?」
ルゥが言った。
「明日の夜、門の近くまで来て。歌うから。もし門が開いたら――その歌が、街に届くかどうか試したい」
凪は頷いた。
小屋を出ると、夜空が広がっていた。雲が切れて、冬の星がいくつか覗いている。吐く息が白い。耳が痛むほどの冷気の中、凪は来た道を引き返した。
排水路をくぐり、雑木林を抜け、外壁の内側に戻ったとき、凪は立ち止まった。
振り返る。
灰色の壁が、暗闇の中にぼんやりと聳えている。
その向こう側から、聞こえた。
かすかに。本当にかすかに。
歌声だ。
一人ではない。何人もの声が重なり合い、溶け合い、低く澄んだ旋律を織り上げている。石の壁に阻まれ、ほとんど消えかけた声。だが確かに、そこにある。
種蒔きの歌。春を呼ぶ歌。
渡瀬がまだ「渡瀬」だった頃の歌。
凪は壁に手を当てた。粗い石の表面が、冬の冷気を吸って氷のように冷たい。だがその奥の奥に、歌の振動が微かに伝わってくるような気がした。
気のせいかもしれない。
だが、あの子どもは歌っていた。壁に遮られているはずの旋律を、熱に浮かされながら口ずさんでいた。
届いているのだ。ほんの少しだけ。石の壁を越えて、歌は滲み続けている。
凪は壁から手を離し、街へと歩き出した。
明日だ。
明日、すべてを話す。聞いてもらえなくてもいい。石を投げられてもいい。三年分の沈黙を破るのに、これ以上ふさわしい日はない。
背中に、歌が聞こえていた。
遠く、小さく。けれど確かに。




