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境の民は歌を忘れない  作者: 結城らい


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第4話 壁の向こう

 渡瀬の外壁は、凪が子どもの頃にはなかったものだ。


 壬生が領主として赴任した年の秋、異形排斥令とともに突貫工事で築かれた。高さは三間ほど。粗く積まれた灰色の石は、もう苔むしはじめている。たった三年で、まるでずっと昔からそこにあったかのような顔をしている。


 人間は壁に慣れるのが早い、と凪は思った。


 街の西端から雑木林に入ると、人の気配はぱたりと途絶えた。冬枯れの枝が頭上で絡み合い、曇天の灰色を細かく切り刻んでいる。足元には霜が降りていた。踏むたびに、薄い氷の割れる小さな音が耳についた。


 この道を最後に歩いたのは、いつだったか。


 排斥令の前年の夏だ。ルゥと二人で丘の上に登り、渡瀬の街を見下ろした。あの日、ルゥが言った言葉を覚えている。「この街がずっとこのままだといいね」。凪は「そうだな」と答えた。当たり前のことだと思っていた。この街が変わるはずがないと。


 あの頃の雑木林は緑が濃く、木漏れ日が足元に金色の斑点を散らしていた。虫の声が絶え間なく響き、どこからかルゥの歌声が聞こえてきた。今は枯れ枝が風に軋む音しか聞こえない。同じ道なのに、まるで別の場所のようだった。


 排水路の入り口は、枯れた蔓草に半ば埋もれていた。子どもの頃は二人でくぐり抜けたが、今の凪の体格では這うようにして進むしかない。湿った石の壁が肩を擦り、水気を含んだ土の匂いが鼻をついた。膝と掌が冷たい泥に沈む。暗闇の中で、自分の荒い息だけがやけに大きく響いた。


 這い進みながら、凪は思った。もし見つかれば、禁を破った罪で捕まる。壬生が黙っているはずがない。それでも、膝を前に出す手が止まることはなかった。あの子どもの歌が、まだ耳の奥で鳴っていた。


 壁の向こうに出たとき、最初に感じたのは風だった。


 街の中とは明らかに違う、骨まで染みる西風。遮るものがない。外壁を境にして、街が持っている温もりのようなものが、すべて剥ぎ取られている。凪はコートの襟を引き寄せ、目を凝らした。


 境外きょうがい


 かつては渡瀬の延長だった土地だ。街の西門の外に広がる緩やかな丘陵地帯で、異形たちの畑や住居が点在していた。凪も子どもの頃、ルゥに手を引かれて何度も遊びに来た場所だ。丘の上から見下ろす渡瀬の街並みは美しく、夕暮れ時にはルゥの歌声が丘を染める茜色に溶けていくようだった。


 その面影は、もうない。


 畑だったはずの土地は荒れ果て、乾いた土が剥き出しになっている。家屋はあった。だが、それは「家」と呼ぶにはあまりに粗末だった。廃材と泥と枯れ草で組み上げた、風よけ程度の小屋が身を寄せ合うように並んでいる。煙突の煙すら上がっていない。燃やすものもないのだろう。


 凪は立ち尽くした。


 わかっていたはずだ。追い出された者たちがどうなるか、想像できなかったわけではない。だが「想像」と「目の当たりにする」ことの間には、残酷なほどの距離があった。


 想像は、いつだって都合よくぼやけている。現実は、こうして匂いを伴う。乾いた土と、腐りかけた木材と、そして微かに漂う、人の――いや、異形たちの体臭。飢えた体から発する、甘酸っぱい衰弱の匂い。薬師として、凪はそれを知っていた。


 足音が近づいていることに、凪は気づかなかった。


「――動くな」


 低い声とともに、首筋に冷たいものが当てられた。刃ではない。木を削って尖らせた、即席の槍の穂先だった。それでも、肌に押し当てられた木の先端は十分に鋭い。


「人間か。見張りの目を盗んで来たか」


 声の主は凪の背後にいた。振り返ることを許さない圧が、穂先を通じて伝わってくる。


「薬師だ。街の者だが、討伐隊じゃない」

「街の者。それが信用になるとでも?」


 声には怒りがあった。だが、それ以上に疲弊があった。張り詰めた糸が、あと一息で切れそうな響き。


「ルゥに会いに来た」


 凪がその名を口にした瞬間、穂先の圧がわずかに緩んだ。


「……ルゥを、知っているのか」

「幼馴染だ」


 沈黙が落ちた。冬の風が二人の間を吹き抜け、枯れ草を揺らした。


 やがて、穂先が首筋から離れた。


「ついてこい」

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