第2話 琥珀の記憶
ルゥの歌を、凪は今でもはっきりと覚えている。
出会ったのは、凪が七つの夏だった。
薬師だった父に連れられて、街の西側にある異形たちの集落へ向かう道すがらのことだ。父は人間にも異形にも分け隔てなく薬を処方する男で、凪はよくその鞄持ちをさせられていた。
集落の外れに、小さな畑があった。そこで一人の少女が歌っていた。
歌というには、あまりに自然だった。呼吸するように声が流れ、その旋律が風に乗って畑の土に染みこんでいく。凪は足を止めて聞き入った。少女の声が触れた場所から、土の色がほんのわずかに変わっていくのが見えた。乾いた灰色が、湿り気を帯びた黒へ。まるで、声そのものが雨のように降り注いでいるかのようだった。
少女が振り向いた。
琥珀色の瞳が、夏の陽光を受けてきらりと光った。尖った耳の先に、汗の粒がひとつ。銀灰色の髪が頬に張りつき、少女はそれを指先で払いながら、不思議そうに凪を見つめた。
「ねえ、聞こえた?」
それが最初の言葉だった。凪は頷くことしかできなかった。
「よかった。人間にも聞こえるんだね、歌耕」
少女は笑った。白い歯が覗き、目尻にくしゃりと皺が寄った。その笑顔は、まるで畑に差す木漏れ日のようだと、七つの凪は思った。
それがルゥだった。
それからの日々を、凪は宝石のように覚えている。
二人で丘の上に座り、渡瀬の街並みを見下ろしたこと。ルゥが歌うと、足元の草花が目に見えて背を伸ばし、小さな蕾が綻ぶのを何度も見たこと。ルゥの歌声はいつだって温かかった。夏は木陰のそよ風のように涼やかに、冬は囲炉裏の炭火のように柔らかく、声の色が季節とともに移り変わった。
「凪は薬師になるの?」
「たぶん。父さんの後を継げって言われてる」
「いいね。薬師は、人を治す仕事でしょう。私は歌で土を治す。凪は薬で人を治す。一緒だね」
一緒だね、とルゥは笑った。あの笑顔を、凪は生涯忘れないだろう。
やがて凪が薬師の修行を始め、ルゥが歌耕の歌い手として一人前になってからも、二人の関係は変わらなかった。凪が調合に失敗して落ち込んでいると、ルゥは黙って隣に座り、小さな声で歌を歌った。不思議なもので、その声を聞いていると、苛立ちや焦りが静かに溶けていった。
「ルゥの歌は、土だけじゃなくて人も治すんだな」
凪がそう言うと、ルゥはくすりと笑って首を振った。
「治してなんかいないよ。ただ、聞いてくれる人がいると、歌は嬉しくなるの。嬉しい歌は、聞いてる人も嬉しくなる。それだけ」
それだけ、とルゥはよく言った。大げさなことを言わない。ただ目の前の一つを、丁寧に。それがルゥのやり方だった。
だが、ルゥとの穏やかな日々は、ある秋の日に終わりを告げた。
三年前のあの日。領主・壬生が読み上げる排斥令を、凪は群衆の中で聞いていた。
壬生は王都から派遣された新しい領主だった。赴任して間もなく、彼は「異形排斥令」を布告した。異形は人間の繁栄を脅かす存在であり、渡瀬の「浄化」のために境外へ追放する――それが壬生の掲げた大義だった。
街の広場に集められた異形たちの前で、兵士たちが槍の穂先を並べた。異形の老人が声を上げた。「ここは我らの故郷でもあるのだ」と。兵士の一人が老人を突き飛ばし、広場に乾いた音が響いた。子どもが泣いた。母親が子を庇い、怯えた目で兵士を見上げていた。だが、壬生の兵士たちは一歩も引かなかった。
群衆の中から、異形を庇う声は上がらなかった。ある者は目を伏せ、ある者は壬生の言葉に頷き、またある者は――凪のように――ただ黙って立ち尽くしていた。広場に漂う空気は重く、冷たかった。誰もが何かを感じ取っていたはずだ。これは正しくないのではないか、と。だが、その疑問を声にする者は、一人もいなかった。
凪もまた、黙っていた。
異形たちが兵士に囲まれ、街の東門から追い立てられていく。列の中に、ルゥの姿があった。銀灰色の髪が人混みの中でも目を引いた。ルゥは振り返った。群衆の中に凪を見つけて、何か言おうとした。口が動いた。声は、喧騒にかき消されて聞こえなかった。
だが凪は、目を逸らした。
ルゥの口が何を形作っていたのか、凪にはわかっていた。わかっていたからこそ、見ていられなかった。
――さよなら。
あの瞬間の、自分の臆病さ。
それは三年経った今も、凪の喉の奥に小骨のように刺さっている。
――回想が途切れた。
風が吹いた。西の森の方角から、湿った冷たい風。凪はコートの襟を立て、目を細めた。店先に立ったまま、いつの間にか記憶の中に沈んでいた。あの子どもの歌が、封をしていたはずの記憶をこじ開けてしまったのだ。
西の方角。境外。街の外壁の向こう側。異形たちが追いやられた、あの場所。
足が竦む。いつもここで立ち止まる。何度この風を感じても、何度あの歌を思い出しても、凪は結局、この店先から動けずにいた。




