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境の民は歌を忘れない  作者: 結城らい


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第1話 枯れた冬

 冬が、渡瀬わたせを殺しにかかっている。


 ひいらぎなぎはそう思いながら、薬棚の引き出しを開けた。乾燥させた薬草の束がいくつか残っているだけで、棚の奥には埃が薄く積もっている。指先でつまみ上げた葛根の欠片は、本来あるべき土と青草の匂いをとうに失い、ただ枯れた紙のように軽かった。


 三度目の冬だ。


 異形たちが街を追われてから、三度目の。


 渡瀬は国境の街である。東に王都、西に深い森を抱く峡谷。その狭間にへばりつくようにして、この街は何百年と息をしてきた。人間と、異形と呼ばれる者たちが肩を寄せ合いながら。


 異形といっても、その姿は人間とそう変わらない。耳がわずかに尖り、瞳の色が琥珀や翡翠に淡く光る程度だ。ただ一つ、決定的に違うものがあった。


 歌だ。


 異形は歌う。朝焼けに歌い、種を蒔くときに歌い、雨を呼ぶときに歌った。その声が大地に染みこむと、作物は驚くほど豊かに実り、井戸の水は清く湧いた。渡瀬ではそれを「歌耕かこう」と呼んだ。人間が土を耕し、異形が歌で大地を潤す。それが、この街の当たり前だった。


 当たり前は、いつだって失われてから気づくものだ。


 凪は棚を閉め、溜息とともに店の表へ出た。


 渡瀬の目抜き通りは、かつて異形たちの歌声が絶えない場所だった。市場に並ぶ果実の香り、石畳を行き交う人々の笑い声、そして風に乗ってどこからともなく聞こえてくる、低く柔らかな旋律。


 今は違う。


 通りを歩く人々の顔は一様にこわばり、頬はこけている。果実屋の軒先に並ぶのは、しなびた根菜ばかりだ。風が吹いても聞こえるのは、乾いた土埃が石畳を擦る音だけ。街全体が、色を失くしていた。


「凪先生、お願いします」


 声をかけてきたのは、通りの向かいに住む女だった。名を、たしか佐和というはずだ。腕の中に、毛布にくるまれた小さな体を抱えている。


「息子が、また熱を出して……」


 佐和の目の下には濃い隈があった。唇は乾いてひび割れ、それでも子を抱く腕だけは震えていなかった。凪は黙って頷き、二人を店の奥へ招き入れた。


 寝台に横たえた子どもは、五つか六つだろう。頬が赤く染まり、小さな胸が苦しげに上下している。凪は額に手を当てた。じわりと伝わる熱。乾いた肌の、紙やすりのような感触。


「いつからですか」

「三日前から。最初はただの風邪だと……」


 凪は子どもの瞼をそっと持ち上げ、喉を診た。栄養が足りていない。体が冷えている。薬を処方することはできるが、この子に本当に必要なのは、温かい食事と清潔な水だ。そのどちらも、今の渡瀬では贅沢品になりつつある。


「薬を出します。ただ、できれば温かいものを食べさせてあげてください」


 そう言いかけたとき、凪の手が止まった。


 子どもが、何かを口ずさんでいた。


 熱に浮かされた、かすれた小さな声。意味のある言葉ではない。ただ旋律だけが、途切れ途切れに唇から漏れている。


 凪の胸の奥で、何かがきしんだ。


 知っている。この歌を。


 音程の崩れた、幼い声。それでも旋律の骨格は、凪の記憶に深く刻まれたものと同じだった。種蒔きの歌。春を呼ぶ歌。かつて渡瀬のあらゆる畑で、異形たちが朝ごとに歌っていた旋律だ。


 ――なぜ、この子がこの歌を知っている?


 異形が追放されたのは三年前。この子はまだ二つか三つだったはずだ。覚えていられる年齢ではない。


「この歌……どこで覚えたんですか」


 佐和は戸惑ったように首を傾げた。


「歌? さあ……。でも、この子、夜になると歌うんです。熱が出るといつも。なんだか気持ちが落ち着くみたいで」


 凪はもう一度、子どもの歌に耳を傾けた。


 旋律が途切れた。小さな寝息に変わり、赤い頬だけがそこに残った。


 佐和に薬を渡し、見送ったあと、凪は長いこと店先に立ち尽くしていた。


 歌耕の歌は、異形だけが知るものではなかった。少なくとも、かつてはそうだった。渡瀬で生まれ育った者なら、誰もが聞き覚えのある旋律だ。だが排斥令以降、その歌を口にすることは暗黙の禁忌となっていた。異形に連なるものは、すべて。


 あの子どもは、歌を「覚えていた」のではない。どこかから「聞いている」のだ。


 だとすれば、どこから?


 凪の脳裏に、ひとつの顔が浮かんだ。


 琥珀の瞳。肩のあたりでふわりと揺れる銀灰色の髪。小さな唇から紡がれる、透き通った歌声。


 ルゥ。


 その名を心の中で呼んだだけで、三年分の痛みが喉の奥にせり上がってきた。

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