第40話 VSマスカレード(6)
《桜仙花学園 大講堂》
イスカちゃんからわたしを庇うように、ライムちゃんが仁王立ちしている。
わたしを捜して大講堂まで来てくれたんだ。
床に散乱する割れた狐面を見たライムちゃんは、サラサラの髪が逆立つほどの怒気を露に、吹っ飛ばしたイスカちゃんに言い放った。
「お前だったんだな、僕を脅して陽香ちゃんに襲わせたのは! 絶対に許さない! 退学処分になったって構うもんか! 恩も仇も三倍にして返す、それがウチの組の流儀だ!」
そしてライムちゃんは、わたしに視線を向ける。
「陽香ちゃん、あとは僕に任せて! 汚れ役は僕が引き受けるから――」
「ライムちゃん、危ない!」
間合いを離して油断したライムちゃんの肩越しに、イスカちゃんが動いたのを見て、わたしは咄嗟に声を上げた。
イスカちゃんは長椅子から背もたれを力任せに引きはがし、それをフリスビーのようにライムちゃんに投げつけた。
わたしの声で気付いたライムちゃんは、命中する寸前、顔を背けてかわした。
高速回転する木板の角が、ライムちゃんの頬に傷を付ける。
奇襲の回避で足元をよろめかせたライムちゃんに、イスカちゃんは一瞬で距離を詰め、彼女の顔面にフルスイングの拳を叩き込んだ。
宙を舞い、背中を打ったライムちゃんの胸を、イスカちゃんは容赦なく踏み抜く。
「あぐっ……!」
「すっこんでろよ、反社のゴミがッ!」
苦悶の声を上げるライムちゃんに、イスカちゃんはさらに容赦のない蹴りを浴びせる。
「離宮に来たからって勘違いしてんじゃねーぞ! お前が桜仙花学園に入れたのはカタギから巻き上げた大金のおかげだろうが! 善良な市民がお前の素敵な人生のために泣きを見てんだろうが!」
蹲るライムちゃんを、イスカちゃんは何度も蹴り、踏みつける。
何度も何度も何度も。
快活で爽やかなお嬢様だったイスカちゃんは、今や醜く顔を歪ませ、暴力に陶酔する化け物になってしまっている。
この時、わたしは初めて見た。
闇堕ちお嬢様が生まれる瞬間と、お嬢様事変の惨状の片鱗を。
沸々と脳が茹だるわたしなど目もくれず、イスカちゃんは絶え間ない暴力と暴言をライムちゃんにぶつけている。
「被害者ヅラも友達ヅラもできた身分かよ! そもそも我が身惜しさに友達を襲ったのはお前自身だろうが! お嬢様のガワを被ったところで、お前は骨の髄まで社会の敵なんだよ! 存在価値のないクズが、偉そうにあたしの邪魔すんじゃねーよ!」
「勘違いしてんのはイスカちゃんの方だろうがッ!」
わたしはイスカちゃんの体側に猛然とタックルし、強引にライムちゃんから引き離した。
二人してもつれ合い転がった後、わたしはイスカちゃんを組み伏せる形で絶叫した。
「自分がお嬢様だと思い込んでるのも、善良な人を踏みにじってるのも、離宮の敵も、全部イスカちゃんのことじゃんか! 輝知会長たちがどんな思いで離宮の平和を守ったかも知らずに、ライムちゃんがどれだけ苦しんでいるかも知らずに、勝手なことばっかり言うな!」
体勢こそ有利だが、わたしに余裕はまるでない。
互いが互いの腕を掴んで押し合い、気を抜けば一瞬で押し負けてしまいそうだ。
イスカちゃんは口元を歪め、嘲笑を込めて吐き捨てた。
「へぇ、まるで自分は何でも知ってるみたいに言うじゃん、下々の庶民が! そっちこそ何か勘違いしてるみたいだけどね、本当はみんなすごく不思議がってたんだよ! 『しょぼい家の生まれで大した取り柄もない、何でこんな奴が桜仙花学園に入れたんだ』ってね!」
その言葉を聞き、イスカちゃんを押さえ付ける力が一瞬緩む。
その隙にイスカちゃんは全力でわたしを押しのけ、浮いたわたしの体に蹴りを叩き込んだ。
腹に強烈な衝撃が加わり、わたしの口から泡が飛び散る。
膝を付いて呼吸を繰り返すわたしに、イスカちゃんは更なる侮蔑の台詞を浴びせてくる。
「社交辞令を真に受けてヘラヘラ笑うお前は傑作だったね! お嬢様がお前に表面上優しくしてくれるのはね、優越感の裏返しなんだよ! お前は『ああ、私は高遠さんよりはマシですわ』って見下して安心するためのベンチマークでしかないんだよ! お嬢様っていうフィルターを通して、お前の顔にはいつも『庶民』ってラベルが貼られてんだよ! お前もそこに転がってる反社のゴミと同じ、何をしようと対等のお嬢様になれることはないんだよッ!」
じんじんと、耳鳴りのように耳が痛む。
イスカちゃんの声量ではなく、言葉そのものが質量を持ち、暴れ回っているかのようだ。
呼吸を落ち着けたわたしは、我知らずポツリと呟いていた。
「……そっか、やっぱりそうだったんだね」
吹き荒れる戦闘が一時凪ぎ、イスカちゃんの宿す雰囲気がわずかに変化した。
幾分か和らいだ声音で、わたしに提案を持ちかけてくる。
「何なら陽香ちゃんさ、あたしと一緒に来る? あたしは陽香ちゃんのこと、他の高慢ちきなお嬢様と違って結構評価してるし、庶民寄りのあたしとは上手くやれると思うんだよね。今回は喧嘩両成敗ってことで水に流して、しばらく他所で一旗揚げて、充分に力を付けたら離宮に殴り込みに来ようよ。世間知らずのクソザコお嬢様にバカにされっぱなしじゃムカつくでしょ? 陽香ちゃんのことを舐め腐ったお嬢様共に、本当の最強は誰なのか知らしめてやろうよ」
イスカちゃんの台詞には、皮肉だけでなく多分の本気も含まれていた。
動きを止めたわたしの背に、八千重ちゃんの切迫した声が掛けられる。
「陽香さん、騙されないでください! 少なくともわたくしはあなたのことを――」
「ありがとう八千重ちゃん、でもそういうことじゃないんだ」
焦燥に駆られかけた八千重ちゃんを、わたしは静かに制した。
立ち上がって口元を拭い、ずっと隠していた思いの丈を吐露する。
「実はね、同じようなことはわたしも思ってたんだ。だからイスカちゃんにはっきり言ってもらえて、正直すっきりしたの。わたしとイスカちゃんがそう思うってことは、口にしないだけで同じように思ってるお嬢様も他にいるってことだから。でもわたし、やっぱり桜仙花学園に来てよかったと思ってる。後悔どころか、今すごくワクワクしているんだ」
全身が痛い。息が苦しい。心がつらい。
期待したお嬢様生活とは程遠い満身創痍。
それでもわたしは、お嬢様としての矜持を宿し、胸に右手を当てて。
精一杯の笑顔で、八千重ちゃんとライムちゃんを振り返った。
「だって、そんなすごい人たちに本気で憧れてもらえるようになったら、その時は胸を張って最強のお嬢様になれたって言えるじゃん?」
おかしな話だった。
こんな最悪の状況にありながら、わたしは今この瞬間、人生で一番いい笑顔をしていると確信していた。
八千重ちゃんとライムちゃんは、まるで信じられないものを目の当たりにしたと言いたげに、一様に呆けた表情をしている。
八千重ちゃんの唇が、わななくように動き、微かな声を形作る。
「……戦姫……?」
交渉決裂と判断したイスカちゃんが、全力疾走を乗せた拳を振りかざした。
「だから、なれねぇって言ってんだよ! 寝言をほざくのもその辺にしろ――」
イスカちゃんの言葉が不自然に途切れたのは、後ろを向いたままのわたしがイスカちゃんの手首を的確に掴んだからだった。
奇妙な感覚だ。
声や音の響き、空気の流れ、みんなの感情の機微まで、ありとあらゆる情報が手に取るように理解できる。
イスカちゃんの攻撃や間合いもノールックで把握できるほどに。
イスカちゃんを握る左手に、わたしは力を込める。
「わたしはずっと起きてるし、本気だよ」
「ちょっ、離せっ……!」
これから何をされるか理解したのか、イスカちゃんは怯んだ様子で振りほどこうとするが、もちろんわたしは頑として離さない。
八千重ちゃん、ライムちゃん、そしてわたし。
都合三人分の借りを込め、わたしは右手を固く握る。
「イスカちゃんの方こそ、いい加減……ッ!」
そして左手を思いっきり引っ張り、前につんのめったイスカちゃんの顔面に、全力の拳を叩き込んだ。
「目を覚ましやがれ、バカヤロ――――ッ!!!」
咆哮と共に、イスカちゃんの左頬にわたしの拳がめり込んだ。
弧を描いて吹っ飛んだイスカちゃんは、重々しい音を立て、大講堂の床に豪快に転がった。
イスカちゃんは数秒だけ、仰向けのまま床を掻いたものの。
「う……ううーん……」
やがて呻き声を上げ、動きを止めた。気絶したのかもしれない。
静まり返った大講堂に、わたしの激しい呼吸音だけが響く。
紛れもない戦闘の終幕。
疲れ果ててへたり込んだわたしに、八千重ちゃんが歩み寄り、拳を差し出した。
「やりましたわね、陽香さん」
「ありがとう、八千重ちゃんがいてくれたおかげだよ」
微笑んで答えながら、わたしは傷だらけの拳を持ち上げて突き合わせた。
続いてわたしは、少し離れた所に立つライムちゃんに顔を向ける。
「ライムちゃんも加勢、ありがとう。すごい蹴られてたけど体は平気? 医務室まで肩貸そうか?」
「あ、あの、そんなことより……」
見ればライムちゃんは困り顔になり、大講堂の入口とわたしをしきりに見比べていた。
入口のドアはいつの間にか開け放たれ、その向こうから複数のお嬢様が恐る恐る様子を窺っている。
「高遠……さん……?」
「今、バカヤローって言いながら一ノ瀬さんを……」
騒ぎすぎたせいで生徒を呼び寄せてしまったようだ。しかも結構前から見られてた。
わたしは飛び跳ねる勢いで立ち、怯えた顔付きのお嬢様たちに釈明を始める。
「あっ、いやこれはそのー、一言では言い表せないのっぴきならない複雑かつ一筋縄ではいかない事情がありましてですね! ていうかなんかいっぱいいらっしゃってますねー、ごきげんよう驚かせちゃって御免あそばせ、本日はお日柄もよくご多忙の中お集まりいただき、お嬢様におかれましては日々ご健勝のことと……」
「陽香さん、もう結構ですよ。あとの諸々はわたくしにお任せなさい」
パニック状態のわたしの肩に手を置き、八千重ちゃんは優しく制止した。
八千重ちゃんの言葉と体温が伝わった途端、全身から一気に力が抜け。
「うん、そうしてくれると、助かる……」
崩れゆく砂城のごとく、わたしの意識は遠のいていった。




