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プロローグ:最後の一秒、最初の鼓動

鼓動

「――残り、十秒か」


視界の端で刻まれるカウントダウン。 VR MMO『エテュレ・オンライン』、その始まりの場所である「はじまりの丘」には、かつての喧騒が嘘のような静寂が広がっていた。


ハルトは、隣に座る銀色の毛並みを持った狼――フェンの首元を撫でた。ポリゴンで構成されているはずのその体は、ハルトの設定した「触覚フィードバック」の極限値によって、確かな弾力と温もりを持って伝わってくる。


「……フェン。怖くないからな」


フェンは、金色の瞳でじっとハルトを見つめ返した。この一年の間、ハルトが両親の研究室から持ち出した禁断の「翻訳プラグイン」を通じ、フェンはただのプログラムを超えた、独自の思考を持つようになっていた。


『ハルト……世界が、消える音がする』


フェンの声が、ハルトの脳内に直接響く。それは運営が用意した定型文ではなく、彼自身の言葉だ。


「消させない。約束しただろ。お前の『心』は、僕が必ず連れていくって」


ハルトは、左腕のログメニューを開いた。そこには通常、アイテムやスキルが表示されるはずだが、今表示されているのは**【DNAシーケンス・アップロード:99.8%】**という、ゲームのシステムとは無関係なプログレスバーだ。


この一年のすべてを捧げた。 両親が研究していた「合成生物学」の理論を盗み、VR内のAIログを生物学的な遺伝子情報へと変換し、現実世界の自宅にある「3Dバイオプリンタ」へと転送し続けてきた。


[00:00:03]


「フェン、目を閉じて」


[00:00:02]


『信じているよ、ハルト』


[00:00:01]


世界が、白く、弾けた。 ログイン以来、一度も聞いたことのない凄まじいシステムアラートが鳴り響き、視界のすべてがデータの塵となって崩壊していく。ハルトの意識は、強烈な重力に引かれるように、深い闇へと墜落していった。


カチ、と小さな音がした。


耳に届いたのは、電子音ではない。 換気扇が回る低い唸りと、消毒液の匂い。そして、自分の荒い呼吸の音。


「はぁ……はぁっ……!」


ハルトは、顔を覆っていた重いVRヘッドセットを剥ぎ取った。 そこは、自宅の地下にある薄暗い研究室だ。モニターには『接続が切断されました』という無機質な文字が踊っている。


ハルトは震える足で立ち上がり、部屋の中央に鎮座する、円筒形の「培養槽インキュベーター」へと駆け寄った。


「フェン……フェン!」


緑色の培養液が満たされたタンクの中で、何かが動いた。 泡が立ち、排液バルブが自動で開く。シュゴォォ、という音と共に液体が引いていき、中から姿を現したのは、銀色の濡れた毛並みを持つ小さな塊だった。


それは、まだ目も開かないほど小さい。 けれど、確かにその胸は上下し、空気を吸い込み、命を刻んでいる。


「……あ」


ハルトの手が、ガラス越しにその小さな体に触れた。 デジタルな振動ではない。 血液が流れ、筋肉が収縮し、命が燃えることで発せられる、本物の、圧倒的なまでの**「熱」**。


「きゅう……ん……」


小さな獣が、弱々しく声を上げた。 それは、サービス終了と共に消えるはずだった、世界でたった一つの「魂」の産声だった。


ハルトの目から、熱い涙がこぼれ落ち、培養槽のふちに当たって弾けた。 今日、世界で一番愛されたゲームが死に、そして、世界で一番ありえない命が生まれた。

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