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地下への階段は、まるで巨大な怪物の食道のように暗く、湿っていた。


「……ここが、旧地下街」


アルトが掲げたランプの灯りが、異様な光景を浮かび上がらせた。そこは、かつて地上にあった街がそのまま地層に埋もれたような場所だった。崩れかけたコンクリートのビル群が鍾乳石のように天井から垂れ下がり、地面には得体の知れない蛍光色の苔が絨毯のように繁茂している。空気は重く、鼻を刺すような化学薬品の臭いが充満していた。


「気をつけろよ。ここは俺たちの知ってるネブラリスじゃない」


アルトは声を潜め、セリスを背後に庇いながら慎重に進んだ。セリスは青ざめた顔で頷き、アルトのジャケットの裾をギュッと握っている。


二人は『クロノス・キー』が示す光の道筋を頼りに、廃墟の迷路を進んでいった。だが、その道行みちゆきは過酷を極めた。


「グルルル……」


瓦礫の影から、異形の獣が飛び出した。皮膚がただれ、複数の目を持つ巨大な野犬――変異生物ミュータントだ。


「くそっ、やっぱり出やがった!」


アルトは背負っていたワイヤーブラシを構えた。本来は煙突掃除の道具だが、先端を尖らせた金属製のブラシは、近接戦闘において凶悪な武器になる。


「セリス、下がってろ!」


アルトは身軽な動きで獣の突進をかわすと、すれ違いざまにブラシを獣の眼球に突き立てた。獣が悲鳴を上げて暴れる。その隙に、二人は崩れた建物の二階へと駆け上がった。


戦闘と逃走の連続。そのたびに、アルトは懐中時計の力に頼らざるを得なかった。『右だ』『次は伏せろ』『三秒後に崩れる』時計の煙が示す予知に近い導きは、百発百中で二人を死地から救った。だが、その代償は確実にアルトを蝕んでいった。


(あれ……?)


獣の群れを撒き、ひと時の休息をとっていた時だ。アルトは自分の手の甲にある古傷を見て、首を傾げた。この傷は、いつつけたんだっけ?確か、初めて煙突に登った時……いや、親方に殴られた時か?思い出せない。傷の痛みは覚えているのに、その背景にある「エピソード」が、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せている。


恐怖が、冷たい水のように背筋を伝った。ドクの顔も、隠れ家の場所も、そして自分の体の傷の由来さえも。俺は、俺でなくなっていく。


「アルト、大丈夫?」


セリスが心配そうに覗き込んでくる。


「……ああ、平気だ。ただの疲れだよ」


アルトは笑って誤魔化したが、その笑顔の作り方さえ、少し忘れてしまっているような気がした。


数時間の探索の末、二人は地下街の最深部、巨大な地下空洞に辿り着いた。そこには、圧倒的な光景が広がっていた。


「これが……『空の塔』の基部……」


闇の底から天に向かって、直径数キロメートルはある巨大な金属の柱が伸びていた。表面には無数のパイプと歯車が脈動し、低い駆動音を奏でている。それは人工物というより、巨大な金属の神木のようだった。そして、その根元には、検問所のような堅牢なゲートが設置されていた。


「あそこを通れば、塔の中に入れるはず」


セリスが指差す。だが、ゲートの前には、黒い制服を着た兵士たちが待ち構えていた。統制局の部隊だ。地下ルートさえも、彼らは予測していたのか。


「万事休すか……」


アルトが歯噛みした時、懐の時計が激しく発熱した。ジジジッ、という音と共に、硝子の中の煙が暴れ狂う。今回は、ただの道案内ではない。もっと強烈な、警告のような輝きだ。


煙が空中に投影したのは、過去の映像だった。場所は、このゲート前。映っているのは、あの日、洋館で見つけた白骨死体の生前の姿――作業着を着た壮年の男だ。そして、彼に対峙しているのは、優雅な燕尾服を着た紳士。


『……父様!』


セリスが叫んだ。映像の中の作業着の男を見て、彼女は目を見開いた。


「えっ、あいつが親父さんなのか?」


アルトは混乱した。洋館で見つけたあの骨が、セリスの父親?


映像の中で、二人は会話を交わしていた。音声はないが、アルトの脳内に直接、思念のようなものが流れ込んでくる。


『渡せ、クロノス。その「鍵」と「種子」は、君のような下賤な技術者が持つべきものではない』

『断る。これは、世界を浄化するための希望だ。お前たち支配層が独占していいものではない!』

『残念だ。ならば、力尽くで奪うまで』


燕尾服の紳士が合図を送ると、隠れていた兵士たちが一斉に発砲した。セリスの父は被弾し、血を流しながらも、懐から何かを取り出した。それは、今アルトが持っている懐中時計――『クロノス・キー』だった。彼は時計を操作し、煙幕のようなものを発生させて逃走した。映像はそこで途切れ、場面が洋館の暖炉へと飛ぶ。そこで、彼は力尽き、追いついてきた紳士の手にかかって殺されたのだ。


映像が消えると、セリスはその場に崩れ落ちた。


「嘘……父様は、塔で待ってるって……手紙に……」

「セリス……」


アルトは言葉を失った。残酷な真実。彼女の父親は、とっくの昔に死んでいた。しかも、アルトはその遺体から時計を奪い、ここまで来てしまったのだ。


「……素晴らしい上映会だったね」


不意に、背後から拍手の音が響いた。アルトとセリスが振り返ると、そこには映像の中にいたあの「燕尾服の紳士」が立っていた。シルクハットに片眼鏡モノクル。手には銀のステッキ。歳月を感じさせない冷ややかな美貌。統制局長官、ヴァルガス。このネブラリスを支配する男だ。


「まさか、ドブネズミが『クロノス・キー』を使いこなすとは。適合者だったとはな」


ヴァルガスは薄ら笑いを浮かべ、アルトを見下ろした。


「返してもらおうか。その時計と、娘が持っている『原初の種子レリック』を」


周囲を兵士たちが包囲する。逃げ場はない。


「セリス、立て!」


アルトはセリスを立たせようとしたが、彼女は絶望で動けない。


「父様は……死んだの?私が遅かったから……?」

「違う!こいつが殺したんだ!」


アルトはヴァルガスを睨みつけた。


「てめえ、よくも!」


アルトはワイヤーブラシを構えて突っ込んだ。だが、ヴァルガスはステッキを軽く振っただけで、見えない衝撃波を放った。「ガハッ!」アルトは吹き飛ばされ、瓦礫に叩きつけられた。全身の骨が軋む。レベルが違う。これは、人間じゃない。


「無駄だ。君たちの時間は、ここで終わりだ」


ヴァルガスがステッキを振り上げる。死ぬ。そう直感した瞬間、アルトの懐で時計がかつてないほどの熱を発した。


『代償ヲ支払イマスカ?』


脳内に、無機質な声が響いた。『「未来」ヲ視ルタメニ、「過去」ヲ捧ゲマスカ?』


このままでは二人とも殺される。アルトは迷わなかった。


「払うよ!全部持ってけ!」


カチリ。時計の針がない文字盤に、幻影の針が現れた。世界が、スローモーションになった。


ヴァルガスのステッキが振り下ろされる軌道。兵士たちが引き金を引くタイミング。跳弾が飛んでくる角度。数秒先の「未来」が、光の線となってアルトの視界に描かれた。


アルトは弾かれたように動いた。痛みが消えた。恐怖も消えた。光の線をなぞるように体を捻り、ヴァルガスの攻撃を紙一重で回避する。「なっ!?」驚愕するヴァルガスの懐に飛び込み、ワイヤーブラシを突き出す。狙うは心臓ではなく、彼が持っているステッキの宝石部分。直感で、それが彼の力の源だとわかったからだ。


ガギィィン!


ステッキの宝石が砕け散った。衝撃波が暴走し、ヴァルガスと兵士たちを吹き飛ばす。


「今だ!セリス!」


アルトは呆然とするセリスを抱え上げ、混乱に乗じてゲートの中へと飛び込んだ。


塔の内部へ。追っ手の声が遠ざかる。エレベーターシャフトのような縦穴を、非常階段を使って駆け上がる。心臓が破裂しそうだ。だが、止まるわけにはいかない。


「はぁ、はぁ……ここまで来れば……」


安全圏と思われるフロアまで辿り着き、アルトは膝をついた。時計の熱が冷めていく。助かった。あの怪物を退け、塔の中に入り込んだ。これなら、勝機はある。


「……ねえ、アルト」


背中で、セリスが震える声で呼びかけた。


「ありがとう。あなたのおかげで助かったわ。……でも、大丈夫?怪我は?」


アルトは顔を上げ、セリスを見た。金色の髪。碧色の瞳。美しい少女。彼女は、俺の命の恩人であり、守るべきパートナーだ。それはわかっている。


でも。


アルトの口から、乾いた言葉がこぼれ落ちた。


「……あんた、誰だっけ?」


セリスが息を呑む音が聞こえた。


「え……?嘘でしょ、アルト。私よ、セリスよ」


「セリス……」


アルトはその名前を口の中で転がした。聞き覚えはある。大切な響きだという感覚もある。だが、彼女とどこで出会い、どんな会話を交わし、なぜ一緒にいるのか。その「記憶」が、ごっそりと抜け落ちていた。あの戦闘で、未来を見る代償として、彼女との思いエピソードを全て捧げてしまったのだ。


「悪い……名前はわかるんだが……あんたが俺にとって何なのか、思い出せねえんだ」


アルトは困ったように笑った。その笑顔は、かつての少年のような無邪気なものではなく、どこか壊れた人形のように空虚だった。


セリスの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。彼女は悟ったのだ。彼が、自分のために何を犠牲にしたのかを。そして、その残酷な運命を強いているのが、亡き父が残した『クロノス・キー』であることを。


「ごめんなさい……ごめんなさい……!」


セリスはアルトに抱きつき、泣きじゃくった。アルトは、なぜ自分が抱きしめられているのかもわからず、ただ戸惑いながら、本能的に彼女の背中を優しく撫でた。手の中に残る温もりだけが、今の彼に残された唯一の真実だった。


塔の上層階からは、機械仕掛けの警報音が鳴り響いている。記憶を失った少年と、父を失った少女。二人の最後の戦いは、あまりにも絶望的な状況で幕を開けようとしていた。

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