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工場地帯は地獄絵図と化していた。墜落した飛空艇の残骸が、瓦礫の山となって通りを塞いでいる。ひしゃげた鉄骨、引き裂かれた翼、そして至る所から噴き出す蒸気と黒煙。周囲の建物も巻き添えを食らい、壁が崩れ落ちている場所もあった。
「おい、こっちだ!中に誰かいるぞ!」
「水だ!火を消せ!」
野次馬や工場の作業員たちが叫び声を上げているが、誰も炎熱に阻まれて近づけない。アルトは群衆をかき分け、最前列に出た。熱気が肌を焼く。墜落現場の中心には、奇妙な形をした銀色の機体が横たわっていた。軍用機のような武骨さはなく、どこか優美な流線型を描いている。だが、今は見る影もなく黒焦げだ。
「……ありゃあ、助からねえな」
隣にいた男が、諦めたように呟いた。確かに、あのコクピット周りの潰れ方では、中の人間が無事だとは思えない。アルトもそう思い、踵を返そうとした。金目のものを探すどころではない。巻き込まれたら火だるまだ。
その時だった。
『……けて……』
微かな声が聞こえた気がした。耳鳴りか?いや、違う。ポケットの中が熱い。アルトは反射的に懐中時計を取り出した。硝子の中の煙が、狂ったように渦巻いている。そして、時計の針のない文字盤が、一点を指し示すように発光した。光が伸びる先は、燃え盛る機体の残骸――その奥にある、半壊した倉庫の方角だ。
「あっちか?」
アルトは一瞬躊躇したが、時計が示した「何か」への好奇心と、得体の知れない衝動に突き動かされた。彼は群衆の目を盗み、崩れた壁の隙間から路地裏へ滑り込んだ。熱気と煙に咳き込みながら、倉庫の裏手へと回り込む。
そこには、奇跡的に炎が回っていない空間があった。瓦礫の山の中に、小さな人影がうずくまっている。
「……おい、生きてるか?」
アルトは恐る恐る声をかけた。人影がビクリと震え、ゆっくりと顔を上げた。
煤と埃にまみれてはいるが、その顔立ちは驚くほど整っていた。透き通るような白い肌、大きな碧眼、そして肩まで伸びた金色の髪。少女だった。歳はアルトと同じくらいだろうか。だが、身につけている服は、この下層街の人間が決して着ることのない、上質な絹のドレスだ。ただし、今はあちこちが破れ、血が滲んでいる。
「た、助けて……」
少女は掠れた声で懇願し、何かを必死に抱きかかえていた。それは、革製の大きな鞄だった。自分の命よりも大切そうに、その鞄を胸に抱いている。
「怪我してるのか?立てるか?」
アルトが手を差し伸べると、少女は警戒するように身を引いた。だが、直後に激しく咳き込み、その場に崩れ落ちそうになる。
「無理すんな。ここはもうすぐ火が回る。逃げるぞ」
「……お願い、これを……」
少女は鞄をアルトに押し付けようとした。
「これを、守って……。彼らに、奪われないように……」
彼ら?誰のことだ?アルトが問い返す間もなく、頭上から重たい足音が響いた。瓦礫を踏みしめる、軍靴の音だ。
「逃げたぞ!この近くにいるはずだ!」
「探せ!『遺物』を回収しろ!」
男たちの怒号が近づいてくる。軍だ。しかも、ただの警備隊じゃない。この街を支配する「統制局」の特務部隊だ。黒い制服に身を包み、蒸気式のライフルを構えた男たちが、瓦礫の向こうに見え隠れしている。
「チッ、面倒なことになったな」
アルトは舌打ちをした。この少女は、軍に追われているのか。関われば命はない。見捨てて逃げるのが正解だ。だが、少女の碧眼が、すがるようにアルトを見つめていた。その瞳の奥にある恐怖と、消え入りそうな命の灯火を見た瞬間、アルトの中で何かが弾けた。
「……ついて来い。こっちだ」
アルトは少女の手を引き、背負っていた鞄を奪い取ると、自分の肩にかけた。
「えっ、でも……」
「黙って走れ!捕まりたくないんだろ!」
アルトは土地勘を頼りに、入り組んだ路地裏を駆け抜けた。煙突掃除で培った健脚と、迷路のような下層街の知識が役に立った。追っ手の足音を撒き、地下水道のマンホールをこじ開け、その中へ飛び込む。
「うっ……臭い……」
「我慢しろ。ここなら犬も鼻が利かねえ」
汚水と湿気が充満する地下道を進む。少女は何度も躓きかけたが、その度にアルトが腕を引いた。不思議なことに、少女の手は氷のように冷たかった。まるで人間ではないかのように。
一時間ほど歩き続け、ようやく追跡を振り切ったと確信した頃、二人は廃墟となった地下鉄の駅に辿り着いた。古びたベンチに少女を座らせ、アルトは荒い息を吐きながら水を差し出した。
「ほら、飲めよ」
「……ありがとう」
少女は震える手で水筒を受け取り、一口だけ口をつけた。「あんた、名前は?」「……セリス」「俺はアルトだ。セリス、あんた一体何者だ?なんで軍に追われてる?」
セリスは口を閉ざし、視線を逸らした。言いたくないのか、言えないのか。アルトはため息をつき、預かった鞄を指差した。
「じゃあ、こいつの中身は?『遺物』って言ってたな」
「……開けないで」
セリスが鋭い声で制した。
「それは、世界を変えるかもしれないもの。そして、世界を滅ぼすかもしれないもの」
大袈裟な物言いだ。だが、彼女の瞳は真剣そのものだった。アルトは肩をすくめた。
「わかったよ。詮索はしねえ。でも、これからどうする?あいつら、執拗だぞ。この街中をひっくり返してでも探す気だ」
「……『空の塔』へ行かなきゃ」
「はあ?空の塔だって?」
アルトは呆れた声を上げた。「空の塔」とは、この街の中心にそびえ立つ、雲の上まで突き抜けていると言われる巨大な塔だ。伝説では、そこにはかつてこの世界を管理していた「古代人」が住んでいるとか、太陽への入り口があるとか言われているが、実際には統制局の本部があり、一般人は近づくことすら許されない聖域だ。
「無理だろ。あそこは要塞だぞ。アリ一匹入れねえ」
「それでも、行かなきゃいけないの。父様が、そこで待ってるから……」
セリスは弱々しく呟くと、そのまま気を失うように眠ってしまった。緊張の糸が切れたのだろう。アルトは彼女の寝顔を見つめ、頭を掻いた。
「厄介なもん拾っちまったなあ……」
懐の時計が、微かに熱を帯びている気がした。硝子の中の煙が、眠るセリスと鞄を包み込むように揺らめいている。まるで、この出会いが運命であると告げるように。
その夜、アルトは奇妙な夢を見た。青い空。白い雲。そして、眩しいほどの太陽の光。アルトはその光の中に立っていた。隣にはセリスがいて、彼女は微笑みながら空を指差している。
『見て、アルト。あれが本当の世界よ』
だが、次の瞬間、空が割れた。黒い亀裂が走り、そこからドス黒い煙が溢れ出し、太陽を飲み込んでいく。世界が再び灰色に染まり、セリスの姿が煙の中に消えていく――。
「うわっ!」
アルトは跳ね起きた。心臓が早鐘を打っている。嫌な汗をかいていた。隣を見ると、セリスはまだ眠っていた。鞄を枕にして、胎児のように丸まっている。夢の意味はわからない。だが、一つだけ確かなことがあった。
この少女と関わったことで、アルトの灰色の日常は終わりを告げたのだ。
翌朝、アルトはセリスを連れて、馴染みの闇医者の元へ向かった。彼女の傷の手当てと、情報の整理が必要だったからだ。闇医者のドクは、無愛想だが腕は確かだ。セリスの傷を見て、眉をひそめた。
「こりゃ酷い火傷だ。それに、この痣……何か薬物でも打たれたか?」
「薬物?」
「ああ。特殊な抑制剤のような反応がある。この嬢ちゃん、ただの貴族じゃねえな」
ドクは包帯を巻きながら、低い声で言った。
「アルト、悪いことは言わねえ。これ以上関わるな。この街で『特別な人間』に関わると、ロクな死に方をしねえぞ」
「わかってるよ。でも、見捨てらんねえだろ」
アルトは強がりを言ったが、内心は不安でいっぱいだった。セリスが目を覚ますと、彼女は少しだけ顔色が良くなっていた。
「ありがとう、アルト。迷惑かけてごめんなさい」
「気にするな。で、これからどうする?『空の塔』に行くってのは本気か?」
「ええ。でも、正面からは無理。裏ルートがあるはずなの。父様が言ってたわ。『旧地下街』を通れば、塔の基部まで行けるって」
「旧地下街……?」
アルトは耳を疑った。それは、この街の地下深くに封印された、百年以上前の廃墟区画だ。有毒ガスが充満し、凶暴な変異生物が徘徊する、生きて帰ってきた者のいない魔窟だ。
「正気かよ。あそこは自殺志願者が行く場所だ」
「それでも行くわ。私には時間がないの」
セリスは鞄を強く抱きしめた。
「この中身を、父様に渡さないと……世界が終わっちゃうから」
世界が終わる。またしても穏やかじゃない言葉だ。だが、彼女の瞳に嘘の色はなかった。アルトは溜息をつき、懐中時計を取り出した。
「……賭けてみるか」
アルトは時計の蓋を開けた。硝子の中の煙が、静かに渦巻いている。
「もし、この時計が『道』を示してくれるなら、俺も付き合ってやるよ」
アルトが念じると、時計の煙が再び発光した。光の矢印が浮かび上がり、床を指し示す。その先には、地下へと続くマンホールがあった。
「……マジかよ」
時計は肯定していた。この先に道があると。
「アルト、それ……」
セリスが時計を見て、驚いたように目を見開いた。
「その時計、どこで手に入れたの?」
「拾ったんだよ。ただのガラクタだと思ってたけどな」
「違うわ。それは『クロノス・キー』。父様が作っていた、時の羅針盤……」
セリスの言葉に、アルトは戦慄した。この時計は、彼女の父親が作ったもの?じゃあ、あの洋館で見つけた白骨死体は……?いや、今は考えても仕方がない。アルトは時計をポケットにしまい、セリスに向かってニヤリと笑ってみせた。
「へえ、大層な名前だな。ま、とにかく道案内はこいつに任せようぜ。地獄の底まで、エスコートしてやるよ」
二人はドクの診療所を後にし、地下への入り口へと向かった。背後で、街のサイレンが鳴り響く。統制局の捜索網が、確実に狭まってきている。灰色の空の下、少年と少女の冒険が、今まさに始まろうとしていた。
その代償として、アルトがまた一つ「大切な記憶」を失ったことに、彼自身はまだ気づいていなかった。ドクの顔も、診療所の場所も、もう彼の頭の中には存在しなくなっていたのだから。




