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世界は灰色だった。少なくとも、アルトが生まれてから十五年間、この街「ネブラリス」の色はずっとこうだ。頭上を覆うのは、幾重にも重なった分厚い雲と、工場群が吐き出し続ける煤煙ばいえんの層。太陽なんてものは、お伽噺の中にしか出てこない架空の光源だ。ここでは昼間でも薄暗く、ガス灯の淡いオレンジ色が、亡霊の道標のように揺らめいている。


「おい、アルト!まだ終わらねえのか!」


頭上の排気口から、親方の怒鳴り声が降ってきた。アルトは口元に巻いたボロ布を引き上げ、すすだらけの顔で上を見上げた。


「今終わるよ!ここの煤、百年分くらい溜まってるんだ!」

「減らず口叩いてないで手ぇ動かせ!次の現場が待ってんだよ!」


アルトは舌打ちをして、手にしたワイヤーブラシを強く握り直した。彼の仕事は「煙突掃除夫スイープ」。蒸気機関で動くこの街において、煙突は呼吸器だ。ここが詰まれば、ボイラーは逆流し、人々は一酸化炭素中毒で死ぬ。だというのに、大人たちは狭い煙道を嫌がり、アルトのような小柄な孤児たちを安値で雇っては、真っ黒な穴の中へ突き落とすのだ。


ガリ、ガリ、と煉瓦にこびりついたタール質の煤を削ぎ落とす。狭い。暗い。そして臭い。腐った卵と焦げた油を混ぜたような悪臭が、鼻の奥にこびりついて離れない。だが、アルトはこの閉塞感が嫌いではなかった。この細いくだを登りきった先には、必ず「出口」があるからだ。


ちまちまと煤をそぎ落としていき、長い時間をかけて最後の詰まりをブラシで突き崩すと、ドサッという重い音と共に、黒い塊が下の暖炉へと落下していった。風が通る。下からの上昇気流が、アルトの前髪を揺らした。


「ふう……貫通」


アルトは煤まみれの手袋で額の汗を拭い、両手足を突っ張って、尺取虫のように煙突を這い上がった。頭を出すと、そこは屋根の上だった。視界が開ける。といっても、見えるのは隣の工場の錆びついた配管と、遠くに霞む時計塔のシルエット、そして空を埋め尽くす灰色のスモッグだけだ。それでも、地上の路地裏よりは空気が美味い気がした。


「終わったか、すすネズミ」


屋根の縁でパイプを吹かしていた親方、ガストンが鼻を鳴らした。何もしてない癖に偉そうだな、という本音は隠して報酬について聞く。


「ああ。完璧だよ。……で、今日の給金は?」

「おう、うけとれ」


そういって投げ渡されたのは、わずかな銅貨が三枚。


「はあ?冗談だろ。あそこの屋敷、煙突が三本もあったんだぞ」

「文句があるなら辞めろ。代わりなんざ、路地裏にいくらでも転がってんだ」


本来の報酬としてはもっと高いのだろうが大部分がガストンの懐に入っている。それをとがめるために口を開くが一蹴される。ガストンは嘲笑うように煙を吐き出すと、梯子を降りていった。なんの後ろ盾もないものはいつだって搾取される。アルトは銅貨を握りしめ、ギリリと奥歯を噛んだ。いつか、見てろよ。いつかこんな煤だらけの街を出て行ってやる。このスモッグの向こう側、親父が酔っ払って話していた「青い空」ってやつを、この目で見てやるんだ。


だが、今のアルトには、明日のパンを買う銅貨さえ惜しいのが現実だった。


その日の夕方。アルトは、親方には内緒である場所に出かけた。街の北区画、かつて貴族が住んでいたという廃洋館エリア。そこは幽霊が出ると噂され、近づくと呪われ、死んでしまうということから正規の業者は誰も寄り付かない場所だ。興味本位で遊びに行った連中は誰もが不審死したといわくつきの場所である。


だが、噂好きの古物商から「あそこの暖炉には、貴族の隠し財産が眠っているかもしれない」という話を聞きつけたアルトは、危険を承知で潜り込むことにしたのだ。このままの生活をしていてもらちが明かない。なのでここで一発逆転を狙おうと考えた。


北区画は封鎖されており境界には柵で区切られていた。この先危険という看板がいくつも並ぶ様子は異様だった。アルトはそれらを見た瞬間怖気づいてしまったが、決意を胸に進むことにした。


錆びついた鉄柵を乗り越え、枯れたつたが絡まる洋館へ侵入する。中は酷い有様だった。床は腐り落ち、家具は埃の山に埋もれている。アルトは慎重に足場を選びながら、一番大きなホールの暖炉を目指した。


「……でかいな」


その暖炉は、アルトが立って入れるほどの大きさがあった。懐中電灯代わりのオイルランプを掲げ、中を覗き込む。煙道は緩やかにカーブを描きながら、遥か上方へと続いている。空気の流れはない。完全に詰まっているようだ。


「お宝、お宝……」


アルトは自分に言い聞かせ、煤で黒ずんだ煉瓦に手足をかけた。内壁は意外なほど乾燥していた。長年火が入れられていない証拠だ。五メートルほど登ったところで、何かに頭をぶつけた。詰まりの原因だ。ブラシを取り出し、慎重につつく。硬い感触。ただの煤の塊ではない。鳥の巣か?それとも、煉瓦が崩れているのか?


ガッ、と強めに叩くと、その物体はバランスを崩し、アルトの目の前に滑り落ちてきた。思わず悲鳴を上げそうになり、喉で押し殺す。


それは、骨だった。人間の、肋骨。ボロボロの衣服を纏った白骨死体が、煙突の湾曲部に引っかかっていたのだ。


「う、うわぁ……!」


アルトはバランスを崩しそうになりながら、必死で壁にしがみついた。心臓が早鐘を打つ。幽霊屋敷の噂は本当だったのか。いや、これは事故か?それとも殺人か?逃げよう。そう思った時、白骨の胸元で、何かがキラリと光った。


銀色の輝き。恐怖よりも、貧困からくる欲望が勝った。アルトは震える手を伸ばし、死体の衣服のポケットらしき場所から、その物体を引き抜いた。


それは、古ぼけた懐中時計だった。鎖は切れているが、本体はずっしりと重い。表面は煤と酸化で黒ずんでいたが、袖口で磨くと、美しい装飾彫りが現れた。絡み合う蔦と、翼を持つ蛇の紋様。高級品だ。これを売れば、一ヶ月、いや三ヶ月は遊んで暮らせるかもしれない。


「……悪いな、旦那。これは俺が貰っとくよ」


アルトは死体に短く詫びると、時計をポケットにねじ込み、大急ぎで煙突を降りた。背後で、カラカラと骨が崩れる音がした気がしたが、振り返らなかった。


隠れ家にしている廃給水塔の最上階に戻ったのは、夜も更けた頃だった。アルトはランプの明かりの下で、戦利品を取り出した。改めて見ると、奇妙な時計だった。竜頭りゅうずを回しても手応えがない。ネジが切れているのか、壊れているのか。耳を当ててみる。カチ、コチ、という秒針の音はしない。代わりに、ヒュウ、ヒュウ、という、風が吹き抜けるような微かな音が聞こえる。


「なんだこれ……」


アルトは親指でノッチを押し、蓋を開いた。パカッ、と乾いた音がして、硝子ガラスの風防が現れる。


「……は?」


アルトは目を疑った。文字盤がなかった。数字も、長針も、短針もない。そこにあるのは、底知れぬ「闇」と、その中で渦巻く灰色の「煙」だけだった。硝子の中に、小さなスモッグが閉じ込められている。煙は生き物のように蠢き、形を変え続けていた。


「壊れてるのか?まあ、銀としての価値はあるか……」


ため息をついて蓋を閉めようとした時、不意に硝子の中の煙が激しく回転し始めた。同時に、時計全体が熱を帯びる。熱い。落としそうになるのを堪える。煙が、文字盤から溢れ出しそうになるほど膨れ上がり――そして、一つの情景を結んだ。


それは、映像だった。白黒映画のような、荒い粒子の映像が、時計の上にホログラムのように浮かび上がったのだ。


映し出されているのは、どこかの部屋だ。豪華な絨毯。大きな暖炉。さっきの廃洋館だ、とアルトは直感した。映像の中では、二人の男が言い争っている。音声はないが、緊迫した空気は伝わってくる。一人は身なりの良い紳士。もう一人は、作業服を着た男。作業服の男が、隠し持っていたナイフを取り出す。紳士が目を見開く。揉み合いになり、紳士が頭から血を流して倒れる。作業服の男は慌てふためき、死体を引きずって、暖炉の中へ――。


「う、わ……!」


アルトは思わず時計を放り出した。ガチャン、と時計が床に転がると同時に、煙の映像は霧散して消えた。


肩で息をする。今のは何だ?幻覚?いや、あまりにもリアルだった。あの時計は、あの洋館で起きた「過去」を見せたのか?


「マジかよ……とんでもないもん拾っちまった」


アルトは震える手で、再び時計を拾い上げた。時計は冷たくなっていた。硝子の中の煙も、今は穏やかに漂っている。すごい。これはただの銀時計じゃない。魔法のアイテムだ(この街では「遺失技術ロスト・テクノロジー」と呼ばれる類のものかもしれない)。これがあれば、警察よりも先に事件の真相を知ることができるかもしれない。あるいは、失くした物を探したり、誰かの秘密を暴いたり……。金になる。莫大な金になるぞ。


アルトの顔に、下卑た笑みが浮かんだ。高揚感で心臓がバクバクといっている。喉が渇いた。何か飲もう。水筒に手を伸ばして水を飲む。水を飲んだことで多少は緊張感が和らいだ。そこでようやく自分が空腹であることに気づいた。そこでアルトは、今日の夕飯は何にしようかと考えた。


パンにするか?それとも、奮発して秘蔵の缶詰を開けるか?いや、待てよ。昼間は何も食べていないから、腹ペコだ。朝は……朝は何を食べたっけ?そこまで記憶を辿ったときに違和感覚えた。


アルトは動きを止めた。記憶を辿る。今朝、隠れ家を出る前。顔を洗って、着替えて、それから……。


思い出せない。


食べたはずだ。腹が減って仕事に行けるわけがない。固い黒パンだったか?それとも、昨日の残りのスープか?いや、食べたという「事実」は覚えているのに、その「内容」だけが、まるで黒く塗りつぶされたように欠落していた。


「……あれ?」


アルトはこめかみを押さえた。おかしい。たかが半日前のことだぞ。どうして思い出せない?頭の中に、もやがかかっているようだ。記憶の糸を手繰り寄せようとするたびに、その糸が灰になって崩れ落ちていくような感覚。まるで煙に巻かれたように記憶は自分の頭の中から逃げていった。


ふと、手の中の時計を見た。硝子の中の煙が、さっきよりも少しだけ、濃くなっているような気がした。


まさか。アルトの背筋に、冷たい汗が伝った。「遺失技術」は素晴らしい効果を得られる代わりに代償を払わなくてはいけないということを思い出した。


あの映像を見た代償か?この時計は、俺の記憶を燃料にして動いたのか?


まさかな、とアルトは笑おうとした。だが、顔が引きつってうまく笑えなかった。朝食のメニューなんて、些細なことだ。忘れても生きていける。だが、もしも。もっと重要な記憶を持っていかれたら?親方の顔。この隠れ家の場所。あるいは、ずっと胸の奥にしまっている、あの「約束」の記憶まで――。


アルトは時計を、机の一番奥の引き出しに乱暴に押し込んだ。二度と使うものか。こんな気味の悪いもの、明日にでも古物商に売り払ってやる。


そう決心して、アルトは毛布を頭から被った。しかし、目を閉じても、硝子の中の煙が渦巻く光景が焼き付いて離れなかった。



翌日。アルトが時計を売り払うことはなかった。なぜなら、目覚めた時にはもう、時計を「売り払おうとした決意」そのものを、どうしても思い出せなくなっていたからだ。ただ、ポケットの中にある重たい感触だけが、妙に気になって仕方がない。


街は相変わらず分厚いスモッグに覆われている。仕事に向かうため、路地裏を歩いていた時だった。頭上から、轟音が響いた。雷ではない。もっと物理的な、空気が引き裂かれるような音。


「うわっ!」


通行人たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。アルトが見上げると、灰色の雲を突き破って、何かが落下してくるのが見えた。隕石?爆弾?いや、違う。それは、鉄の塊だった。小型の飛空艇だ。片翼から黒煙を上げ、きりもみ回転しながら、真っ直ぐにこの下層街へと墜ちてくる。


ドガァァァァァン!!


凄まじい衝撃音と共に、数ブロック先の工場地帯に土煙が上がった。アルトは呆然と立ち尽くした。飛空艇なんて、上層の富裕層か、軍の人間しか持っていない代物だ。それがなぜ、こんな掃き溜めのような場所に?


野次馬根性が騒いだ。それに、もしかしたら金目のものが落ちているかもしれない。アルトは無意識にポケットの時計を握りしめると、黒煙の上がる方角へと走り出した。


それが、彼の運命を大きく変える、二つ目の「出会い」になるとも知らずに。

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