大賢者の夫と魔法が使えない妻
私の夫、アベル・グランディスは、この国で一番の魔法使いだ。
空を飛び、天候を操り、指先一つで巨大な竜さえも退ける。
その魔力は王国の守護神と称えられ、人々は彼を「大賢者」と崇め、畏敬の念を抱いていた。
彼は常に忙しく、王宮の塔にある研究室に籠もりきりで、家に帰ってくるのは月に数えるほど。
対して私は、ベル・グランディス。
魔力はからっきし。マッチがなければ火も点けられないし、重い荷物は自分の手で運ぶしかない。
どこにでもいる、ただの町娘だった。
そんな私たちが結婚したのは、五年前のことだ。
魔獣に襲われていた私を、通りかかったアベルが助けてくれた。
一目惚れだったそうだ。
彼は強引に私を口説き、周囲の反対――「魔力のない娘など、賢者様の妻にふさわしくない」という声――を押し切って、私を妻にした。
まるで、おとぎ話のようなシンデレラストーリー。けれど、現実は物語のようにはいかなかった。
結婚してからも、アベルは「魔法」が恋人のようだった。
「ベル、すまない。今日も帰れない」
「新しい術式の解明まで、あと少しなんだ」
「君は家にいてくれればいい。何も不自由はさせないから」
豪奢な屋敷に、便利な魔道具の数々。
掃除も洗濯も、調理さえも、夫の魔力が込められた魔石をセットすれば自動で行われる最新鋭の設備。
私は何もしなくていい。ただ、彼が帰ってくるのを待っていればいい。
それはとても恵まれた生活のはずなのに、私の心はどこか冷えていた。
彼は私を愛していると言ってくれる。けれど、彼は私を見ていない気がした。
彼が見ているのは、常に「高み」であり、「真理」であり、「世界」だった。
魔力を持たない私は、彼の世界を共有することができない。
私は、彼の人生の「飾り」のようなものなのだろうか。
そんな不安を抱えながら過ごしていたある日。
王宮から早馬がやってきた。
「奥様! 大変です! アベル様が……実験中に事故に遭われました!」
◇
アベルは生きていた。
五体満足で、外傷もほとんどなかった。
けれど、彼はもっと大切なものを失っていた。
「……魔力が、ない」
病院のベッドで目覚めたアベルは、青ざめた顔で自分の手を見つめていた。
禁忌とされる古代魔法の解析中に暴走が起き、その代償として、彼の体内の魔力回路が焼き切れてしまったのだという。
魔力欠乏症。
魔法使いとしては、死刑宣告にも等しい診断だった。
「嘘だ……。俺から魔法を取ったら、何が残るんだ……」
アベルは半狂乱になり、枯渇した魔力を絞り出そうとして、吐血した。
国一番の大賢者は、一夜にして「ただの人」以下の存在に成り果ててしまったのだ。
それからの転落は早かった。
魔法を使えない賢者に用はないと、彼は筆頭魔導師の地位を解かれた。
あれほど彼を崇めていた貴族たちは、「元・賢者」を嘲笑い、潮が引くように去っていった。
屋敷は国に返還することになり、私たちは王都を追われることになった。
「ベル……」
荷造りをしている私の背中に、アベルが声をかけた。
その声は、別人のように弱々しく、震えていた。
「離婚しよう。……俺はもう、君に何もしてやれない。富も、名誉も、便利な生活も、何もかも失った。……俺と一緒にいても、不幸になるだけだ」
彼は俯き、拳を握りしめていた。
プライドの高い彼にとって、無様な姿を晒し続けることは耐え難い屈辱なのだろう。
私は手を止め、彼に向き直った。
そして、静かに言った。
「あなたは、私があなたの『魔法』と結婚したと思っているのですか?」
「え……?」
「私はアベル・グランディスという男性と結婚しました。大賢者様と結婚したわけではありません」
私は彼の手を取った。
魔法を使えなくなったその手は、冷たくて、そして初めて「人間らしい」体温を感じさせた。
「行きましょう、アベル。私、ちょうど田舎暮らしがしたかったんです」
◇
私たちが移り住んだのは、王都から遠く離れた山奥の小さな村だった。
私の祖父母が遺してくれた、古びた小屋。
もちろん、自動掃除機も、魔法のコンロも、あたたかい魔石の暖炉もない。
あるのは、隙間風と、冷たい井戸水と、自分たちで何とかしなければならない「現実」だけだ。
「……寒い」
アベルは毛布にくるまり、暖炉の前で震えていた。
火はついていない。彼は、薪への点火魔法すら使えなくなっていたのだ。
「マッチでつければいいじゃないですか」
「マッチ……? そんな原始的なもの……」
「じゃあ、凍えていてください」
私は溜息をつき、手際よく薪を組み、マッチを擦った。
ボッ、と小さな炎が生まれ、やがてパチパチと薪が爆ぜる音が響き始める。
「……ついた」
「ええ。魔法がなくても、火はつくんです」
アベルは呆然と炎を見つめていた。
彼にとって、火とは「指先から出すもの」であり、「手間をかけて熾すもの」ではなかったのだろう。
それからの生活は、アベルにとって苦難の連続だった。
水は井戸から汲み上げなければならない。重いバケツを運ぶだけで、彼は息を切らしてへたり込んだ。
「身体強化」の魔法が使えない彼は、私よりも非力だったのだ。
「くそっ……! こんな重いもの、どうやって……!」
「腰を入れて。腕だけで持とうとするからよ」
「風呂を沸かすのに一時間もかかるのか!? 魔法なら一瞬なのに!」
「その一時間で、今日あったことを話すのが楽しいんじゃないですか」
私は彼に、一つ一つ「生活」を教えていった。
薪の割り方。
野菜の育て方。
泥のついた服の洗い方。
最初は癇癪を起こし、「俺は賢者だったんだぞ!」と叫んでいた彼も、空腹と寒さには勝てなかった。
不器用な手つきで芋の皮を剥き、煙に巻かれながら火吹き竹を吹き、筋肉痛に呻きながら水を運ぶ。
そんな生活が、三ヶ月ほど続いた頃のことだ。
「……できた」
夕食のテーブルで、アベルがポツリと言った。
目の前には、少し焦げたパンと、形の崩れた野菜スープ。
初めて、彼が自分一人で作った食事だった。
「いただきます」
私がスープを口にすると、アベルは不安そうに私の顔を覗き込んだ。
「……どうだ? やっぱり、魔導調理器のようにはいかないか?」
「いいえ」
私は微笑んだ。
「少し塩気が強いけれど、野菜の味がしっかりして……とても美味しいです」
お世辞ではなかった。
泥だらけになって育てた野菜と、苦労して熾した火で作ったスープ。
そこには、魔法でポンと出した料理にはない、「温かみ」があった。
アベルも恐る恐るスープを口に運んだ。
そして、目を見開いた。
「……うまい」
彼は震える声で言った。
「なんだ、これは。……ただの野菜と塩だぞ? なのに、王宮で食べたどんな高級料理よりも、味がする……」
「それが、『手間』の味ですよ、アベル」
私は彼の手を握った。
三ヶ月前は白くて滑らかだった彼の手は、今では傷だらけで、豆ができ、少しごつごつとしていた。
でも、私には今の彼の手の方が、ずっと素敵に見えた。
「魔法は便利です。時間を短縮し、苦労をなくしてくれます。……でも、その『苦労』の中にこそ、生きている実感や、誰かを想う気持ちが宿ることもあるんです」
アベルの目から、涙がこぼれ落ちた。
彼は泣きながら、パンを齧り、スープを飲んだ。
「俺は……何も知らなかった。世界がこんなに、色鮮やかで、重みのあるものだなんて」
「ええ」
「ベル。……君はすごいな。魔法も使えないのに、こんな大変なことを、毎日当たり前のようにやっていたのか」
彼は私を見て、初めて心からの敬意のこもった眼差しを向けた。
「俺は、魔法使いとしては一流だったかもしれない。だが、人間としては三流だった。……君に守られてばかりで、何も返せていなかった」
「そんなことありません。あなたは今、私に美味しいスープを作ってくれたじゃありませんか」
「……これだけで、いいのか?」
「はい。これがいいんです」
その夜、私たちは狭いベッドで身を寄せ合って眠った。
魔導具の空調はないけれど、お互いの体温があれば、冬の寒さも心地よかった。
アベルの寝息を聞きながら、私は思った。魔法を失った彼は、可哀想な人なんかじゃない。
ようやく、「人間」になれたのだと。
◇
季節が巡り、春が来た。
私たちの家の周りには、アベルが植えた花々が咲き乱れていた。
魔法で咲かせた花ではない。土を耕し、種を撒き、水をやって育てた、不揃いだけど力強い花たちだ。
ある日、王都から使者がやってきた。
かつての同僚だった魔導師だ。
「アベル様! 朗報です! 古代遺跡から『魔力回復の秘薬』が見つかりました!」
使者は興奮気味に言った。
「これを飲めば、焼き切れた魔力回路が修復される可能性があります! そうすれば、また大賢者として復帰できます! 陛下も、アベル様が戻られるのをお待ちです!」
それは、願ってもない申し出のはずだった。
失った栄光、富、名誉。全てを取り戻すチャンス。私は、アベルを見た。
彼は畑仕事の途中で、土にまみれた作業着を着ていた。
彼は秘薬の瓶を見つめ、そして静かに首を横に振った。
「……気持ちはありがたいが、断るよ」
「なっ!? 正気ですか!? 魔法が使えるようになるんですよ!?」
「ああ。だが、今の俺には必要ない」
アベルは私の肩を抱き寄せ、穏やかに微笑んだ。
「俺は今、魔法よりも面白いものを見つけてしまったんだ。……種が芽吹くのを待つ時間や、妻の淹れたコーヒーの香りを待つ時間。そういう『待つ時間』の豊かさをな」
彼は、自分の掌を見つめた。
「指先一つで世界を変える力は、確かに魅力的だった。だが、この手で土を触り、妻の手を握る温もりの方が、今の俺には価値がある」
使者は呆然としていたが、やがて諦めたように帰っていった。
馬車が見えなくなると、私はアベルに尋ねた。
「本当によかったのですか? 大賢者様に戻れたのに」
「後悔はないよ。……それに、ベル」
彼は悪戯っぽく笑った。
「俺は魔法を失ったわけじゃない。……君という魔法使いが、隣にいてくれるからな」
「私が魔法使い?」
「ああ。君は、泣いていた俺を笑顔にし、冷え切っていた俺の心を温めてくれた。……どんな大魔法よりもすごい、『愛』という魔法の使い手だ」
キザな台詞に、私は顔が熱くなるのを感じた。
「……馬鹿な人」
「ははっ、違いない」
アベルは私を抱き上げ、くるくると回った。
空は青く、風は心地よい。
私たち夫婦は魔法が使えない
けれど、魔法がなくても、幸せを作り出すことはできる。
薪の爆ぜる音、スープの香り、そして愛する人の鼓動。
それが、私たちの世界を満たす、確かな魔法なのだから。
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