第6話 竜の反省と愛の涙
地響きとともに、物凄い轟音が森中に響き渡った。
砂埃がもうもうと立ちこめ、鳥どころか森に棲む動物たちまでが一斉に悲鳴を上げ、枝葉を揺らしながら逃げ惑う。
愛は、自分がやったことに呆然としながら、そっと拳を見つめた。
「……え?」
瞬間的にこみ上げた怒りのままに拳を振るった――ただそれだけのはずだった。
まさか、あの巨体が吹っ飛ぶなど想像すらしていなかったのだ。
殴った拳には傷一つなく、痛みどころか衝撃の感覚さえもない。
不思議に思いながら、愛は肩をぐるぐると回し、その場で軽くジャンプしてみる。
「……なんか、軽い?」
体がやけに軽く、まるで十代の全盛期に戻ったような感覚だった。
試しに、昔習っていたバレエの動きを真似してみる。
すると、柔軟さも動きのしなやかさも昔のままで、思いのままに手足が伸びた。
身体能力が明らかに向上していることに驚くと同時に、ふと指先に目をやる。
最近は乾燥しがちだったその肌が、いつの間にかふっくらとした張りと艶を取り戻している。
これが――オズウェルの言っていた“契約の影響”なのだろうか。
この世界に戻ったことで、契約の効力がようやく十分に発揮されたということなのかもしれない。
愛は、改めて自分の手をまじまじと見つめた。
指先の一本一本、肌のきめ、髪に落ちる光の反射、どれをとっても、最近のどの自分よりも瑞々しく、若々しい。
――やはり、明らかに若返っていた。
『やっぱり怒ったぁぁぁっ!』
身体の異変に困惑している愛をよそに、遠くの方ではオズウェルが悲しそうに嘆きながら大きな身体を丸めていた。
話を聞くかぎり、竜になる前は立派な成人男性だったはずなのに、今は言葉の端々にどこか幼さが滲む。
永い時を竜として過ごしてきたせいで、思考がかなり獣寄りの単純なものになってしまっているらしい。
『だって……不安だったんだ! 君は神に執着されるくらい魅力的だったから! そのまま行かせたら、きっとまた酷いことが起きるんじゃないかって……。それに、僕以外に目を向けてほしくなかったんだ……。でも、それが変な風に作用して、君を苦しめてしまったんだね……僕はなんで駄目な竜なんだ……』
とりあえず自分のことはひとまず置いておくことにして、愛は盛大に「うわぁぁん」と泣きじゃくるオズウェルのもとへ向かうことにする。
思っていた以上に遠くまで吹き飛ばされていた彼は、すっかり更地になった地面の上で、大きな身体をこれでもかというほど丸め、顔を尻尾で隠していた。
あの壮大な神話譚に登場する伝説の竜だとは到底思えないほど、弱々しく情けない姿である。
そのあまりの落差に、愛も怒りを持続できず、思わず深いため息をついた。
「ねぇ、本当に……悪気はなかったのよね?」
問いかけると、オズウェルはビクリと身体を震わせ、慌てて首を横に振った。
『あ、あるわけないよ! ただ、僕のことを忘れてほしくなくて……。だって、ずっと、ずっと愛してたんだ。誰よりも大切で、守りたかったのに、結局いつも守れなくて。そのせいで君を苦しめて……本当は全部忘れて幸せになってほしかったけど、でも僕は……君と過ごした日々を忘れることなんてできなかったんだ……。だから、つい……』
そう言って、ポロポロと大粒の涙を零すオズウェル。
それは宝石になると光を帯びてきらめき地面へと落ちていく。まるで彼の想いの純粋さを物語っているかのような光景に、思わず目が奪われた。
あまりにも健気で、あまりにも可哀想で――そして、なんとも愛らしい。
愛は、自分でも気づかぬうちに、目の前の竜にだいぶ絆されているのを感じていた。
「……もう、そんなに泣かれたら、何も言えなくなるじゃない」
『ごめん……』
すっかりしょげ返ってしまったオズウェルの身体に寄りかかるように、愛は深いため息をつきながら、そっと腰を下ろした。
彼が歩んできた永い時の流れに比べれば、愛の人生などほんの瞬きのようなものだ。
前世の痛みも悲しみも憶えていない愛とは違い、オズウェルはそのすべてを憶えている――戻ることのできない幸福な日々も、目をそらしたくなるような絶望の記憶も。
その中で彼は、どれほど幸福の残滓に縋り、どれほど深い孤独に涙してきたのだろう。
自分のためではなく、ただ“愛する人を守りたい”という想いだけで生き続けてきた彼に、愛がこれ以上怒れるはずもなかった。
たとえその想いが、今の自分――“愛”という一人の女性”――に向けられたものでなかったとしても。
「――さて、これから、どうしようかな」
オズウェルに寄りかかったまま、愛は大きく伸びをし、深呼吸とともにぽつりと呟いた。
目を閉じれば、時折吹く風に揺れて草木がサァ、と柔らかく音を立てる。
深緑の瑞々しい香りに、淡く甘い花の匂いがまじり合い、どこか懐かしい。
都会では決して感じられなかった穏やかな空気の中、背もたれ代わりの竜の体温がやけに心地よく感じられた。
ほんの短い間に起きた理不尽な出来事も、信じがたい前世の話も――盛大にオズウェルを殴り飛ばしたあたりで、どうでもよくなってきた。
どうやら自分は、あの時“向こうの世界”で死んだらしい。
そして、死んだ愛の魂を神々が拾い上げ、再びこちらへと送り返したのだという。
おそらくそれは、世界を救ったオズウェルへの褒美でもあったのだろう。
死んだのなら、もう元の世界には戻れない。
あれほど優しく包んでくれた家族とも――もう、二度と会うことはできない。
「そっかぁ……もう、会えないんだ」
愛はそういうと、膝を抱えたまま、静かに涙をこぼした。
泣き虫な竜が、愛につられるように宝石の涙を落とす音がする。
けれど愛は、しばらくのあいだ顔を上げることができなかった。




