第4話 愛の人生と渇き
愛には正直なところ、オズウェルの言う“番”特有の感覚が、いまひとつわからなかった。
いきなり非日常へと放り込まれ、気がつけば飛行機ほどもある巨体の竜に縋られ、鼻を鳴らして泣かれていたのだ。
そんな光景に胸の奥がキュッと締めつけられた気がしたが――それが“契約”とやらの影響なのかと問われれば、首を傾げるほかない。
ただひとつ、確かに不思議だと思ったのは、未知の生物である竜に対してまったく恐怖を感じなかったことだ。
本来ならば恐怖のあまり腰を抜かし、心臓が止まっていてもおかしくないはずなのに。
「そういえば……あなたを見ても、不思議と怖くはなかったわね」
『違うよっ! いや、それもあるけど……そうじゃなくて、もっと他に感じたこと、なかった?』
オズウェルは目を輝かせながら、期待に満ちた表情で愛を見つめた。
彼の大きな尻尾がぶんぶんと左右に揺れるたび、周囲の木々がばきばきと音を立てて倒れ、土埃が盛大に舞い上がる。
「そ、そうね……綺麗だとも思ったわよ? 泣いてるところも可愛かったし」
『……それって喜んでいいのかな? やっぱり別の世界に居たせいでわかりにくくなってるのかもしれないね。僕はこんなにも君のことがわかるのに』
そう言いながら愛にすり寄る姿は、やはり犬猫のような可愛さがある。
愛がふたたびその鼻先を優しく撫でると、オズウェルの下降していた機嫌はたちまち回復していく。
話を総合するに、オズウェルと愛の前世は夫婦であり――記憶を失った愛とは違って、オズウェルは当時の記憶を維持し続け、その身を竜へと変えてまで、彼女を守り愛し続けてきた。
しかも何百年という気の遠くなるような時を、いつ愛が戻るかもわからないのに、たった一人で待ち続けてきたのなら、愛に対する重すぎる期待や諸々の感情も理解できる。
そうして、ようやく再会を果たした今、抑えていた感情が溢れ出しているのだろう。
さきほどから暴れ回る尻尾のせいで、すでに森の一部はただの平地と化しつつあった。
――彼の言う“番の感覚”というやつが、今は他のいろんな感情にかき消されてわからないだけなのかもしれない。
どう返すべきかと愛が考え込んでいると、オズウェルがハッとしたように顔を上げた。
『……あっ、そうだ! 魂の契約を結ぶとね、互いの魂に“影響”が出るんだ!』
「影響?」
愛が眉を上げて問い返すと、オズウェルは力強く頷いた。
『番の契約っていうのは、互いの魂を交わらせて強固な繋がりを作るものなんだ。それによって、互いの“力”を分け合えるようになる』
「ふーん……?」
『だからね、僕の力も君に渡っているはずなんだ。ただ、君が別の世界に行ってしまってからは、どう作用しているのか分からなかったけど……それでも、多少の影響は残っていたはずだよ』
オズウェルの言葉を受けて、愛はふと日本でのこれまでの生活を思い返した。
自分の人生は「特に変哲もない」と思っていた。
けれど、改めて振り返ると――そう言い切るのは、少し違うのかもしれないと感じた。
山も谷もなく、穏やかに過ぎていったはずの人生。
しかしその“順調すぎる平穏”は、いつしか誰かの嫉妬を呼ぶものになっていた。
家族に恵まれ、学校でも職場でも大きな問題はなく、希望した道を歩むことができた。今にして思えば、それは奇跡のような日々だったのだろう。
努力すれば報われる――そんな当たり前を信じて疑わなかった自分が、今では少し恥ずかしい。
愛は、人生でほとんどのことに躓くことなく歩んできた。
……ただ、たったひとつのことを除いて。
***
兄妹の中でも遅くに生まれたせいか、愛は昔からひときわ家族に愛されて育った。
周囲は彼女が過ごしやすいようにと環境を整え、その温かな配慮の中で、愛は何不自由なく人生を歩んできた。
――ただひとつ、“恋愛”だけを除いて。
絹のようにさらりと流れる黒髪に、わずかに吊り上がった蠱惑的なアーモンド形の瞳。
日々の努力で引き締められた体は、柔らかな曲線を描き、その姿は誰の目にも魅力的だった。
愛自身、それを自覚していた。
だからこそ、髪も肌も丁寧に手入れし、化粧も研究し、ボディメイクにも余念がなかった。
環境に甘えるだけではいけないと、学業にも励み、教養を磨いてきた。
それでも――なぜか、誰とも恋愛関係には至らなかった。
もう少しでそうなりそうだという段階になると、決まって相手に不幸が起きた。
突然の転勤で海外に行ってしまったり、不可解な事故に巻き込まれて恋愛どころではなくなったり、挙げ句の果てには犯罪に手を染めて逮捕された者までいた。
まったくもって意味がわからない。
学生時代からそうした出来事が何度も重なり、地元ではいつしか「近づくと不幸になる」と噂され、誰も寄りつかなくなった。
都会に出てからも同じようなことが続き、出会いの場では散々な結果ばかり。
職場には恋愛を持ち込みたくないという意識もあり、社内恋愛とは無縁のままだった。
両親から結婚を急かされることもなく、兄たちからも「ずっと家にいればいい」と言われていた。
それでも――愛は、心のどこかでずっと思っていた。
誰かを好きになりたい。
誰かを愛して、幸せになりたい。
まるで自分自身の心に急かされているような感覚は、年を重ねるごとに強くなっていった。
婚活を重ね、様々な出会いの場に足を運んでみても、惹かれた男性からは決して振り向かれない。
一方で、金や容姿を目当てに近づいてくる男たちは後を絶たなかった。
しかし、彼らのあからさまな態度に愛が不機嫌な顔を見せると、何故か彼らは酷く怯え、逃げ出してしまう。
――まるで、化け物でも見たような目で。
たとえそれが、下心しかない男たちであっても、そんな風に怯えられると、やはり胸が痛んだ。
そんなこんなで気づけば三十を過ぎ、未だに恋愛未経験のまま今日に至るというわけだ。
容姿にも体力にも衰えを感じてはいないが、それでも三十を超えた途端、異性の反応は目に見えて変わった。
子を産み育てるという観点から、若さを重んじられるのは仕方のないことだと頭では理解している。
だが中には、あたかも女性としての価値がそこにしかないかのような言い方をする者もいて、胸の奥が冷え込むような不愉快さを覚えることもあった。
既婚女性たちからは同情にも似たような言葉をかけられた。でも、瞳の奥には隠し切れない優越感が滲んでいたのを知っている。
そういう相手には――「仕事で見返してやる」と、静かに心の中で呟く。
その瞬間、さざ波のように荒れていた心が、ふっと静まり返っていくのを感じた。
生活が苦しいわけではない。愛には、惜しみなく支えてくれる家族がいる。
それでも――何かを焦がれてやまない感覚だけは、どうしても消えてくれなかった。
まるで心の奥に、満たされぬ渇きが巣食っているかのように。




