第2話 おかえりと神話譚
地面にこぼれ落ちたいくつもの涙が陽の光を受け、まるで宝石の小山のように輝きを放つ。
最後に二つ、三つときらめく雫が重なったころ、ようやく竜の涙は止まった。
瞳を閉じ、穏やかな表情で撫でられるままの竜は、その巨体に似つかわしくないほど人懐っこい。
まるで大きな犬か猫のように、鼻先を愛の手にすり寄せている。
愛はその鼻先を撫でる手を止めることなく、ようやく頭の中で状況を整理し始めた。
――車にはねられた。
その瞬間の衝撃も、全身が砕けるような痛みも、はっきりと覚えている。
なのに気がつけばこの森の中。身体はどこも痛まず、傷ひとつ見当たらない。
さらに今さらながら、自分が見知らぬ民族衣装のような服を着ていることにも気づいて、思わず目を瞬かせる。
そして、先ほどから視界の端でやけに存在感を放っていた赤い糸のようなものに気づいた。
手に取ってみると、それは――自分の髪。
「……赤? なんで……、どういうこと? 」
思わずその一房を引っ張りながら、愛はさらに混乱の渦に沈んでいった。
『番、混乱してる? 呼吸が浅いし、心音も速い。……そうだよね。前の世界で生を終えて、ここに戻ってきたばかりなんだもの。自分のことばかりで、ごめんね』
パチリと目を開いた竜は、そう言いながら静かに視線を愛へと向けた。
竜であるがゆえに表情の細かな起伏は読み取りにくい。
けれど、その瞳にはどこかしょんぼりとした色が宿っているように見えた。
しかし、愛の心を捉えたのはその優しさではなく、竜の言葉だった。
「……今、なんて言った?」
『え? 自分のことばかりで、ごめんって……』
「違う、その前っ!」
『ひぇっ!? え、えっと……“前の世界で生を終えて、ここに戻ってきた”って……?』
愛の勢いに気おされたのか、竜はびくりと身を震わせ、情けない声を上げながらも恐る恐る言葉を続ける。
「……戻ってきた? 私が? どこに?」
呟くような問いに、竜はまるで当たり前のことを告げるように、穏やかな声音で答えた。
『だから、おかえりって言ったじゃないか。――君は戻ってきたんだよ。この〈ヴェナルシス〉に』
***
今さらながら、愛が今の状況をまったく理解していないことを知った竜は、悲しげにその瞳を揺らめかせ、ぽつり、ぽつりと語りはじめた。
――今からおよそ五百年前。
この世界〈ヴェナルシス〉において、数多の神々のうち二柱が争いを起こした。
その理由は、ひとりの人間を同時に愛してしまったがゆえの熾烈な奪い合い――つまり、言ってしまえば痴情のもつれである。
神々が争えば、当然その影響は世界に及ぶ。
天は裂け、大地は歪み、豊かな緑は枯れ果て、水源は干上がって、広大な砂漠が広がっていった。
やがて人々は疲弊し、心は荒み、互いに争いをはじめる。
そうして世界中のあらゆる命が次々と途絶え、人もまた数を減らしていった。
一方、二柱の神に愛されたその娘は、飢饉や戦乱の中で家族も友も、そして恋人さえも失った。
神に愛されたがゆえに、ただひとり生き残った娘。
魂が神々のもとへ渡ることを恐れ、後を追うことすら許されぬ孤独。
人々が飢えに苦しむ中で、その娘だけはなぜか痩せることも老いることもなく、いつまでも美しいままだった。
――その異様な姿が、周囲の目にどう映り、やがて彼女をどのように追い詰めていったのか。
それを想像するのは、あまりにも痛ましい。
娘が絶望と不幸という名の坂を転げ落ちるように歩み続ける中、神々はついに争う二柱を止めるべく集結した。
――このままでは、世界が終末を迎えてしまう。
よりにもよって、愛に狂ったのは「破壊と激情」を司る神ヴァルクと、「理と静謐」を司る神ゼファルであった。
彼らは神々の中でも上位に位置する存在。
なぜそのような存在が、ひとりの人間を狂おしいほど愛してしまったのか――その理由を知る者はいない。
だが、彼らの力が地上にもたらす影響は計り知れず、かつて豊かに実り、命に満ちていた世界は、いまや荒廃の極みにあった。
辺り一面に荒野が広がり、風は乾き、流れる川は命を奪われて腐り果て、無数の亡骸が連なる「死の川」と化している。
そんな惨状を前に、神々は決断した。
天界で終わりなき争いを続ける二柱を止めるため、そしてその間、荒れ果てた地上をこれ以上荒廃しないように維持するために、神の代理として「世界を管理する存在」を地上に遣わすことにしたのだ。
――それが、竜。
各神は、地上に強い未練を残す清らかで強靭な魂を選び、己の力でその形を編み上げ、その魂を吹き込んだ。
そうして神々の手によって創られ、地上に遣わされたのが、愛の目の前にいる竜である。
その名は――オズウェル。
彼こそ、絶望に喘ぐ娘の夫の魂を受け継いだ竜であった。




