名前
僕たちは今、余程高い場所に居るのだろう。
正面に広がる空は遮るものなく続いていて、地平線までよく見渡せる。
空の高いところはもう夜の帳が降り始め、地平に差し掛かる太陽の光を、音もなく吸い込んでいく。
でも低いところでは、太陽が沈む間際にひと際強い光を放ちながら、地平にかかった薄雲を照らし、そこに反射した光が真昼のような明るさを見せる。
これは夕暮れ時だ。
さっきまで曖昧だった時間がはっきりするほど、鮮やかな夕暮れだ。
それに。
(建物や電線に邪魔されない空は、こんなにも深く遠くまで広がってるんだ)
枝葉の隙間の僅かな空間からだけど、この光景は胸の奥にずんと沁みた。
「どうした?」
「え?」
ビリーが一緒に枝葉の隙間を覗き込む。
「なんか見えたのか?」
「あ、いや何も」
(そうだ、一人じゃなかったんだった)
僕は空を見るのに夢中になって、何をしてたかすっかり忘れていた。
「ただ空がキレイだなって」
「あぁ、もうこんな時間か」
「あ、そろそろ出発する?」
「そうだな。早い方が良いだろう」
僕たちは立ち上がり、また下へと歩き始めた。
(あと半分、大変そうだな)
そう思っていたのに、いざ降り始めてみると、残り半分の方が足取りが軽かった。
既に半分歩いた後だし、休憩をとったといっても体力が回復するような長時間じゃない。
そのうえ、さっきまで脹脛だって痛かったのに…なんだか不思議な感じだ。
今はすいすい歩いていける。
「なんだ、さっきより調子良さそうだな」
「あ、やっぱりそうかな?」
「あぁ。ペースも早いぞ。無理してねぇか?」
そう言葉では心配してるけど、ビリーの顔はニコニコしている。
「大丈夫。なんか休憩してから元気出たみたい。すっごい空見られたからかな」
「空?」
「うん、夕焼け空」
僕はビリーにさっき見た空がどれだけキレイだったか夢中で語った。
よく考えたらビリーも同じ空を見ていたのだから、こんなに熱心に話さなくてもよかったんだけど、僕は話し出したら止まらず…。
僕が気付いた時には、ビリーの表情が笑顔のまま固まっていた。
「あ…ごめん、ちょっと話過ぎたよね」
「いや、気にすんな。
それより、そんなに好きになれる事があるってのは良い事だ。大事にしろよ」
そう言ってビリーがふと立ち止まった。
「なぁ、お前さん…『ソラ』ってのはどうだ?」
「え?」
「名前だよ。名前が思い出せねぇつっても、思い出すまで名無しって訳にもいかねぇだろ」
「あ」
(忘れてた)
ビリーと居て何も不自由しなかったから、僕は、僕が名前まで忘れてることをすっかり忘れていた。
「下に降りれば他のヤツ等にも会うことになるし、そん時、お前さんの名前が無いと何かと不便するだろうからな。
思い出すまでの仮の名前って事でどうだ?」
「『ソラ』…」
「そう『ソラ』だ。
どうせ付けるなら好きなもんからとったほうが、覚えやすくて良いだろ?それに『ソラ』なら、人の名前にもよくありそうだ」
確かに、僕自身も覚えやすいし、他の人にも受け入れられやすい名前だと思う。
空が好きだから『ソラ』。
安直で照れくさいけど、なんだか嬉しい。
「…うん、良いと思う」
「そうか、じゃあ改めて。よろしくな、ソラ」
ビリーがにっと笑って尻尾を大きく振った。
「うん。ありがと、ビリー」
こうして、僕はしばらくの間『ソラ』になった。
ビリーに仮の名前を貰ってから、僕は何度も自分の名前を頭の中で反芻しながら、下り坂を歩いていた。
(せっかくもらった名前だし、呼ばれたらちゃんと返事が出来るようにしないと)
でも何となくだけど、呼ばれたらすぐ反応できる気もしているからおかしなものだ。
そんなに空が好きなのか、それとも元の名前が似たような言葉なのか…。
考えながら歩くうちに、枝葉に覆われていた視界が急に開けてきた。
「よし、あとちょっとだ。葉っぱが無くなっちまう分、ちと見た目が怖いかもしれねぇが、まぁ無理せずゆっくり降りろよ」
そう言うビリーの背中を見送って辺りを見渡すと、眼下にはぐるぐると渦を巻いた木の根が地を這っていた。
そして、その根の這う地面は僕のいる場所から遥か下、間に二階建ての建物がまるっと収まりそうな距離がある。
今までこれよりずっと高いところを歩いて来たわけだけど、周りを枝葉で覆われていた分、建物の中を歩いてるような安心感があった。
けど今度は違う。
この高さを吹きさらしの中、歩いて降りなければいけない。
幸い手すりのロープは続いているものの、これはなかなかの緊張感だ。
僕は唾を飲み、両手でロープを握って、さっきより更に慎重に足を進めた。
少しずつ丁寧に進む僕は、少し進むのにも、これまでの倍くらい時間がかかる。
お陰でビリーとの差はあっという間に開き、ビリーは先に地面まで降りてしまった。
「待ってるから、ゆっくり来いよ」
下からの励ましに、かえって気持ちが焦る。
(僕も早く地面に降りたいっ)
そんな時、少し遠くから誰かの声がした。
僕には何を言ってるかまでは分からなかったけど、下に居たビリーには聞こえたらしく、ビリーはその声に返事をしている。
「よぉ、どうした?」
「どうしたじゃねぇよ!あんたが遠吠えしてっから様子見に来たんだろ?」
二言目は僕にもはっきり聞き取れた。
どうやら誰か男の人が近くに来たらしい。
がらがらと何かを引きずるような音もする。
「あぁ、そうか、悪いな」
「んで?警戒なんて何事だよ、珍しい」
ここでようやく僕にも相手の姿が見えた。
大きめの木製のリヤカーを引いた、緑色の帽子にハーフパンツ、首に赤いスカーフを巻く男の…
(男の、トカゲ?)
僕が驚いて足を止めると、そのトカゲも僕に気が付きこちらを見上げた。
「お?なんだ、流れ者か?」
トカゲがこちらを見上げたので、僕もトカゲの顔がはっきり見えた。
トカゲにしてはやや目が大きく、帽子の下から少しだけ前髪らしきものが覗いている。
でも全身が鱗に覆われたその姿は、やっぱりトカゲだ。
「あ…」
気を取られた僕は次の一歩を踏み外し、残り二メートル弱の道を転がり落ちた。




