出発
「行っちまった」
ビリーは空に消えたMr.BBを少しだけ追いかけたが、あまりの高さにすぐ足を止めた。
「ビリー」
「ん、あぁ、大丈夫…じゃねぇな」
ビリーが首を捻って目を閉じる。
「ダメだ、考えてたんじゃ埒が明かねぇ。
お前さん、もう歩けるか?」
「あ、うん。もう大丈夫」
実はまだ本調子じゃなかったのだけど、歩けないと言ったら置いていかれそうで、僕はちょっと嘘を吐いた。
「そうか。なら急でスマンが、ちょいと下まで付いて来てくれ」
そう言ってビリーは西の方を顎で指した。
ビリーに促されて西に来ると、西の端は大地が途切れ、行き止まりの断崖になっていた。そして、その崖の下からは大きな木の先端が覗いている。
ただ、先端といっても平屋の一軒家くらいの高さはありそうなので、これをただの先端といっていいものなのかわからない。
ビリーはその木の隣、崖の淵ぎりぎりのところに立って下を見下ろすと、
「ちょっとうるせぇから、耳塞いでろよ」
「え?」
言うが早いか、突如遠吠えを始めた。
それはさっきまで人の言葉を話していたとは思えないほど犬らしい遠吠えで、すぐ隣で聞くと耳を塞いでいても体の芯まで響いてくる。
ビリーは崖下まで広く木霊する遠吠えを三回繰り返した。
「よし、これでいいだろう。待たせたな」
僕の耳にはまだ遠吠えの余韻が残っているが、当の本人は平気なんだろうか。
ビリーは何事も無かったように振り返り、今度はその木の枝の間、人一人通れそうな隙間を顎で指した。
「んじゃあ、ここから降りるぞ、ぶどうの木だ。
一応、手すり代わりにロープが張ってあるけど、足元には気を付けろ」
(手すり?木を降りる?…木の上を歩くの?)
僕がぶどうの木の隙間を覗くと、足元に一際太い枝が段差のない螺旋階段のように伸びていて、その枝の両脇にはビリーが言った通り、手の高さに合わせて丈夫そうなロープが張られていた。
「あ、ここ…?」
(けっこう足元悪そう…歩けるかな?)
僕はさっきの小さな噓を、もう後悔した。
それでも、歩き出してみると、意外にぶどうの木の上は歩きやすかった。
日頃この上を歩く者が居るからか木の表面は躓くような凹凸はないし、道幅が狭く視界の悪い下り坂ではあるものの、ビリーと一緒ならアスレチック感覚で進んでいける。
出だしは緊張したけど、しばらく歩くうち僕はだんだん楽しくなってきた。
お陰で気持ちに余裕のできた僕は、ちょっと話がしたくなってビリーに声をかけた。
「ねぇビリー、聞いてもいい?」
「ん?歩きながらでいいか?」
前を歩くビリーが、顔だけこちらに向ける。
「うん。あの、さっきの遠吠え?あれは?」
「あぁ、あれか。あれはサイレン代わりだな。俺はここで番してっから、なんかあった時は皆に知らせなきゃなんねぇんだ。
遠吠え一回なら集合、二回なら注意、三回は警戒ってな」
「じゃあさっきのは警戒で、それってやっぱMr.BBのこと?」
「あぁ、まぁな。一応、何も壊さねぇとは言ってたが、怪しいもんだ。
あの風船野郎を見かけたら気を付けろってことで、皆に知らせたんだよ」
「遠吠えだけで、そこまで伝わるの?」
「まぁ普通なら難しいだろうが、あの野郎はここじゃちょっとした有名人だからな。
俺が警告して、その後で風船野郎を見かけたヤツは『これのことか』って気付くはずだ」
確かにあの見た目と性格、一度でもMr.BBに会ったら、それこそ一生忘れられないだろう。
(それにしても…)
「ねぇMr.BBって、どういう人?」
(いや、そもそも人なのかな?とは思うけど)
「ん、あー。待て、話すと長いから歩きながら全部話すのは難しいな…。
まぁすごく簡単に言うとあれだ、ストーカーってヤツだな」
「それ最悪じゃん」
僕の口から間髪入れず非難の言葉が飛び出して、ビリーは声をあげて笑った。
「違いねぇ、最悪だな」
そしてひとしきり笑うと、ビリーは続けた。
「アイツはな、魔女を探してるらしいんだ。
けどアイツの探してる魔女はもうこの世に居ねぇ。ずっと昔に死んじまってる。
そんでもまだ諦められねぇみてぇでな」
「……」
(ストーカーなんて言ってしまったけど、亡くなった人を今も…それは、なんか切ない)
「だが、相手はあの風船野郎だからな。勝手な言い分で橋を壊すし、それで怪我人が出てても、あの通りどこ吹く風だ。
『愛しの魔女』なんて言っちゃいるが、本当に愛だの恋だのが理由で魔女を追っかけてんのか、怪しいもんだ」
「あ、そ…っか」
そう言われると、またMr.BBに対する気持ちが揺れる。
あのMr.BBだ。本心が何処にあるか、言葉だけでは分からない。
「まぁ理由はどうあれ、何十年か前にも魔女を探してここに来てるし、執着心だけは本当に凄ぇんだけどな」
「何十年も前?え、じゃあ何十年もずっと、その魔女を探してるって事?」
「あぁ、ずっとだ。しかし長すぎるよなぁ。
執念深いって言うかしつこいって言うか…まぁ、あそこまでいくと、もし純粋な恋心だったとしても、やっぱストーカーだな」
ビリーが呆れた様子で深い溜め息を吐いた。
「さ、これであと半分くらいってとこだな。
大丈夫か?一回休憩するか?」
気を取り直したビリーが、立ち止まって僕を振り返る。
だから僕も気持ちを切り替えて笑顔で返そうと思ったのだけど…
「…え?半分?」
もう結構歩いた。下り坂の歩き難い道をかれこれ二十分くらいは歩き続けている。
実はさっきからちょっと、脹脛が痛い。
(なのにまだ半分?)
「あぁ…うん、休憩しような」
言葉に出なくても顔には出てしまったらしい。
ビリーはちょっと心配そうな顔をして、その場に座った。
「ごめん」
気を使わせて申し訳ないけど、休憩なしにもう半分は厳しそうだったので、僕はビリーの言葉に甘えて一緒に座った。
ついでに脹脛を軽くマッサージする。
「なんだ、足痛かったのか?」
「あー痛いって言うか、張ってるみたい。
運動不足かな?たぶん、軽く揉み解しとけばすぐ治ると思う」
ビリーを心配させたくないのもあるけど、これは本当だ。
痛いと言っても『痛めた』とは違う痛みだし、マッサージしておけば十分だろう。
「そうか?なら良いが…本当に痛くなったらすぐ言えよ。ここ降りた後も、まだ歩くからな」
「うん、ありがと」
僕は顔を上げてビリーの方を見た。
するとビリーの後ろ、生い茂った枝葉の間に、葉が少なく外が見える隙間があった。
そこから僅かに空が覗いている。
(そっか。さっきまでは立ってたから、気が付かなかったんだ)
僕は手を止めて、その隙間から外を見た。
そこには空が広がっていた。




