プロローグ2
「あ…。あーもうっ、いつの間に…」
小高い丘の真ん中に佇む大きな木。欅の木だ。高さ三十メートルはあるだろうか。
その木の中ほどから小柄な猫が、お尻からずりずりと下りてきた。
白地にグレーのポインテッドカラーで、鼻先と耳の付け根と尻尾に、濃いグレーの毛が生えている。
ヤンチャそうな配色だが、それを帳消しにするくらい澄んだ水色の瞳が印象的な、可愛らしい猫だ。
猫は途中で体の向きを変え前足から地面に着地する。
そして傘の柄のように先の曲がった尻尾をピンと立て、背中を丸め警戒姿勢をとった。
その視線の先には、十二・三歳くらいの少年が仰向けに横たわっていた。
短く刈り込まれた黒髪と、白地に赤の入ったフード付きパーカーと揃いのボトムス。
その外見だけなら、運動好きの活発な少年のようだ。
だが今はぐっすり眠っているようで、全く動く気配がない。
それでも猫は慎重に足を忍ばせ、やや遠回りに少年に近づいていく。
するとその時、猫の背後、あの欅の木の後ろから、何かの足音が近付いてきた。
大きな音ではなかったが、緊張していた猫は驚いて、その場でぴょんと飛び上がった。
「お。なんだ、流れ者か?」
驚いた猫が振り返るより先に、足音の主が声をかけてきた。
その低く落ち着いた声色と少し訛りの入った話し方は、どこか親しみを感じさせる。
そして程なく、欅の陰から黒っぽい犬が現われた。目つきの鋭いシェパードのような柄の中型犬だ。
ただ少し高齢らしく体全体に丸みが見られ、シェパードのような精悍な印象はない。
動きも随分とのっそりとしている。
現れた犬を見て猫は小さく安堵の息を吐き、それまでの緊張をごまかすように、大きく伸びをしながら立ち上がった。
そして少年を顎で指して、顔をしかめる。
「ねービリ爺、これ子供だよね?」
ビリ爺と呼ばれた犬はゆっくりと猫の隣まで来ると、つぶさに少年の様子を確認した。
「あぁ、こりゃ子供だな。十歳ちょっとか?
…こんくらいなら、そこそこ分別は付く年頃だと思うぞ」
そこまで言って一度言葉を切ると、ビリ爺は何か言いたげに猫を見た。
それを察した猫が、不快そうに耳を伏せる。
「嫌だよ、子供は子供じゃん。僕、子供は苦手なんだ。こういうのは得意な奴に任せた方がいいって」
そう言うと猫は少年の頭にそっと前足を伸ばし、その前髪の先を少しだけ突いた。
「あ、ほら!見て見て!頭、突っついてるのにピクリともしない。
ヤバいよ、こいつ。結構毒まわってるよ!」
猫は大きな声を上げて、尻尾の毛をふさふさに逆立てる。
ビリ爺は猫のその演技じみた驚き方に、呆れて溜め息を吐いた。
「チビ、お前それホントに触れてんのか?」
「…触ってるよ」
少し躊躇って呟くようにそう言うと、チビと呼ばれた猫はビリ爺から目を逸らした。
すると今度はビリ爺が、わざと大きな溜め息を吐き、チビを押しのけて少年の口元の臭いを嗅ぐ。
そして少し安心したように目を細めた。
「あぁ、大丈夫だ。もうノロシの臭いは残ってねぇから、そのうち目ぇ覚めるぞ」
「いや、今臭いが無くても毒吸い込んでるから!目が覚めたって変わんないよ!!
てかビリ爺、コイツが来たの、もっと早く分かんなかったの⁉ビリ爺は鼻が良いんでしょ!?」
チビが苛立ったように一方的にまくし立てると、その言いようにムッとして、ビリ爺は鼻先にしわを寄せた。
「バカ言うな、俺は今戻ったとこだぞ。大体、昨日から皆出払って、ここに居たのは俺とお前だけだったろうが。
ちょっとやそっと早く気が付いたって、お前がコイツの担当なのは変わらねぇよ。
てか、お前の方こそ、ずっとここ居たくせに、なんで今まで気が付かなかったんだ?」
痛いところを突かれたようで、チビは途端に勢いを無くし、再びビリ爺から目を逸らす。
「……いや、だって僕、猫だし。寝るのが仕事って言うか…」
「ったく、まぁた寝てやがったのか。ほれ、もういいからコイツの面倒見てやれよ。
子供相手だろうが、やる事は同じだろ?」
「いや、全然難易度違うし!てか、そんな事言うならビリ爺やってよ」
「あ?」
「誰か戻ってくるまでで良いから、代わりにコイツの面倒見てよ!もしコイツが起きちゃったら、話し相手しててくれればいいからさ」
「バカ言え、んな適当なことできんだろ!」
駄々をこねてばかりいるチビに、ついにビリ爺が声を荒らげた。
しかしチビは気にする様子もなく、自信ありげに続ける。
「大丈夫だよ。どうせ毒のせいで訳分かんないことになってるんだし、目が覚めたって、しばらくは大人しくしてるよ」
「そんなのわかんねぇだろ。
突然知らねぇ所に置いてかれて、何の説明もなしじゃ、パニックになって逃げ出しちまうかもしれねぇじゃねぇか」
ビリ爺が語気を強めるが、チビは怖気付くことなく上目遣いにビリ爺を見つめる。
「だ〜か〜ら〜。適当に時間稼いどいてよ。だってビリ爺の方が子供の相手、上手いじゃん?僕だってビリ爺と居るの、話しやすくて安心だもん」
「む…」
「コイツだって知らないとこ来て不安な時に、僕が嫌々相手するより、優しくて面倒見のいいビリ爺が居てくれた方がいいと思うなぁ」
「……」
ビリ爺は目を閉じて空を仰いだ。
上手く煽てられていると分かっていても、チビの言う事には一理ある。
チビが仕事を放棄するのは癪だが、この少年の事を考えるなら、ビリ爺が相手をしてやる方がいくらかマシだろう。
「そりゃまぁ、分からなくもねぇが…」
「でしょ?僕、今すぐ代わりの猫探してくるからさ。その間だけ、ね」
チビはビリ爺にピッタリ体を寄せ、自分の額をビリ爺の肩に擦り付けた。
「僕だってまだ一人で案内した事一度もないし、最初から子供が相手なんて滅茶苦茶不安なんだもん」
「また、そんなこと言って…お前、どっか行ったらもう戻って来ねぇ気だろ?」
「そんなことない!ちゃんと戻るよ!」
「本当かぁ?」
「ホント、ホント」
チビは擦り付けた額をぐりぐりと押しつけ、喉を鳴らして甘えてみせる。
「…しょうがねぇな。じゃあ本当にすぐ帰って来いよ?」
「やった!ありがと!ビリ爺」
パッと顔を上げ満面の笑みを見せたチビは、
跳ねるように駆け出して、南西の方角に消えていった




