泉
「でも、たぶん中には入れないよ?」
チビが言葉を続けると、Mr.BBはまた悲し気な顔をあげた。
「入れないのですか?」
「うん。あの家…?チョコ姫は『城』って呼んでるけど、あそこはチョコ姫が勝手に出て来られないように、魔女が結界を張ったんだって。
だから僕たちじゃ城の周りのフェンスが越えられないんだ」
「それはそれは…城からの出入り制限されておしまいとは、チョコ姫様は相当の問題児のようで。
ですが魔女様がそちらにいらっしゃると分かれば、私はそれで満足です。フェンスの外であっても構いません。一晩でも二晩でも、彼女が目の前に現われるまで、私はいくらでもお待ちします」
胸に両手を当て、体をくねらせながら語るMr.BBは、まるで自分に酔っているようだ。
ちょっとだけMr.BBを哀れに思ったチビも、その動きを見て急にその気持ちが萎える。
「ねぇ、もういい?僕、他に行きたいところあるんだけど…」
「あぁっ!これはこれは失礼いたしました。お時間を割かせてしまい申し訳ありません、チビちゃん。ですが貴方のお陰で魔女様との再会の希望が繋がりました。本当にありがとうございます。
このお礼はいつか必ず、お返しすべきタイミングでお返しできるよう、私も全力を尽くせるよう努力しようと心に誓い、チビちゃんとの再会も楽しみにしていたいと思いたいと思えると思っています」
…最後なんて言った、この風船?
チビはMr.BBがお礼なんてする気が無いんだろうなと思った。
別にこの程度の事でお礼なんて期待してないけど、Mr.BBの態度は何かと気に障る。
チビは文句を言うより、最初に考えた通り、さっさとMr.BBから離れることにした。
「もういいから…僕、行くね。あ、街はここから北東。行けば分かるよ」
そう言いながら、チビはMr.BBの前を通り過ぎ、南東の方に向かって歩き出す。
「あぁ北東ですね。いやはや、本当にありがとうございます、チビちゃん。
貴方の旅路の幸運を祈っています!」
Mr.BBはチビの背中に大きく手を振ると、歩いて北東の方角へと向かった。
Mr.BBにああ言ったものの、チビは南東には特に目的が無かった。
ただ早くMr.BBと離れたかったし、それには街とは反対方向に向かった方が良いと思っただけだ。
なので、Mr.BBの姿が見えなくなるとすぐ足が止まった。
ついこっちに来ちゃったけど、こっちって何があったっけ?
辺りはまだ草原が続いているが、この辺りの草は誰も踏み荒らした様子もないので、同じ草原の中にあっても人が寄り付く場所ではないのかもしれない。
チビもこの草原を進むうち、だんだん草丈が高くなって歩き難くなってきていた。
なんか嫌だな、この辺。
人気もない見知らぬ場所に徐々に心細くなってきて、チビは引き返すことにした。
しかし、そのまま北東に引き返せばその先にMr.BBがいる。歩く速度にもよるだろうが、もしかしたら街の手前でMr.BBに追いついてしまうかもしれない。
チビは少し迷ったが、進路を南西へと変えることにした。
南西もしばらくは開けた草原が続くが、その先は薄暗く、空はもう青黒く染まっている。
真夜中が迫る今、太陽はちょうど東から北に向かっているところだ。
その正反対に進もうとしているのだから、どんどん暗くなって当然なのだが、少し心細さを感じている今のチビには、その暗さがどうにも気を重くさせる。
あんなのに会わなければ、今頃、僕も街に向かってたのに…。
チビはなんだか悲しくなってきた。
あ~ぁ、小川の水なんて飲んでるんじゃなかった。
水…?
チビはふと、以前、仲間と小川の水源に行った時の事を思い出した。
小川の水源になっているのは泉の湧き水で、前に他の猫たちと遊びに行った時は、その空間だけ空気が澄んでいて、まるで身も心も清められるような、心地良い清涼感を感じたのだ。
あそこなら気分転換に丁度いいかも。
ここからは少し距離があるが、目的地が決まれば、それだけでも気持ちが軽くなる。
チビは草原を勢いよく駆け抜けて、小川の川上へと向かった。
この小川の流れを辿ると、深い森の奥へと入っていく。
そして水源が近付くほどに、流れは少し太く、深くなっていった。
川辺の草の植生も徐々に変わり、森の中に入ると、草原から続いていた草花は姿を消し、丈の低いコケやシダのような湿り気のあるものが増えていく。
チビは川辺に寄り過ぎて川に落ちないよう、気を付けながら小川の横を走った。
確か、そろそろ泉が見えるはず。
森の臭いが変わり、泉が近付くのを感じたチビは、ぐんと速度を上げた。
走って体が温まったのもあるのだろうけど、それ以上に今は心がわくわくしている。
泉に着くまでが楽しくて仕方ない気分だ。
さっき水を飲んだばかりだけど、また喉が渇いてきた。
泉に着いたらすぐに水を飲もう。
きっと水源に近い分、さっき飲んだ水よりずっと冷たい水だろう。
いつもなら冷たすぎると感じるくらい冷たいのだろう、とチビは思う。
でも今はその冷たすぎる水が飲みたい。
チビは泉に着く前なのに、もうすっかり気分が良くなっていた。
さらに進むと、ようやく泉が現れた。
森の木々に囲まれた、直径で十メートルほどの丸い小さな泉だ。
湧き水によって出来た泉で、今も泉の真ん中あたりからこんこんと水が湧き出ている。
この泉のおかげで辺りの空気はしっとりとうるおい、静かな風がそれを清らかに流す。いつもと変わらない、静かな泉。
のはずだった。
だが。
なんだろう、何か飛んでる?
泉の上には何か、光るものが浮いていた。
ロウソクの炎のように揺らめいて光るそれは五~六個ほどで泉の中央に浮き、風に舞う蝶のように飛んでいるようにも見える。
キレイだなぁ。
チビはそれをしばらく眺めていた。
だがその光はそこに留まったまま、淡い点滅を繰り返すばかりで動く気配がない。
猫としては少し動いてほしいんだけどな。
あまりに変化がないので、眺めるのに飽きたチビは小さく溜め息を吐いた。
すると、その時ふわりと柔らかい風が吹き、泉に木の葉が一枚落ちる。
それと同時に、泉の水が噴水のように真上に向かって勢いよく噴き上がった。
ちょうど光るものの真下だ。
光っていたものは全てその噴水に飲み込まれ、一瞬で見えなくなる。
驚いたチビは泉から飛び退いて、近くの木の後ろに隠れた。
少しすると噴き出した水が泉に返り、泉の水面で弾け飛び、やがて全ての水がまた泉へと還っていった。
そうして、一連の出来事が静まり、泉が穏やかな水面を取り戻した頃。
チビはそっと木の後ろから顔を出した。
…何だったんだ…?
まだ緊張の残るチビは、背中から尻尾にかけて毛が逆立っている。
耳を伏せられるだけぴったり伏せて、そろりそろりと泉の縁へと向かう。
泉は先ほどの噴水など無かったかのような静けさだ。あれだけの噴水だったのに泉の縁は濡れてもいない。
ただ、泉の上で光っていたものだけは、もうどこにも見られなかった。




