プロローグ1
夕日が沈み切る少し前。僕はこの時間が好きで、今日も西の空を眺めていた。
今日は空と雲のバランスがいい。
夕方から夜へ変わっていく空に色を足すように、上空で茜色に染まる筋雲と、低空でねずみ色に染まる綿雲が加わって、空に模様が描かれる。
そして、それぞれの雲が夕日の光を遮ったり反射したりして、その一瞬限りの、水彩画のパレットのような夕焼け空を作り出す。
夕日が沈むまでのこの僅かな時間、一日の終わりに相応しい最高の空だ。
この景色を眺めながら少し冷えた空気を吸い込めば、気分もだいぶ良くなってくる。
そんな夕焼け空の高いところに、見慣れない一筋の雲が浮いていた。
その雲は夕日の黄色とまだ青さの残る高い空の色に染まって、その雲はやや緑がかって輝いて見える。
(彩雲…かな?)
僕は目を細め、右手で夕日を視界から隠しながら雲を確認した。
すると確かに雲は光っていたけれど、その輝き方は彩雲とは違って虹のような色味がない。
全体に明るい緑一色でその色合いは、雲自体が内側から光っているんじゃないかと思わせる不思議な魅力がある。
このあまり見かけない特別な雲に、僕は目を奪われた。
(まるで龍雲みたいだ)
龍雲というのは龍の形に見える雲のことで、見られたら縁起がいいものらしい。
具体的にどんな良いことがあるかはよく知らないけど、見た人がそう思うくらい、龍雲は美しくて迫力があるのだろう。
そしてこの雲は、その龍雲に思えた。
強く光を帯びるこの龍雲に惹き込まれ、僕は目を離せなくなっていた。
真っすぐに筆を引いたような輪郭は飛行機雲に似てるけど、表面が少し立体的で細長いうろこ雲のようにも見える。
ゆっくりと流れる他の雲と重なることもなく、でも風を受けて少しずつ大きくなっていく…。
はじめて目にする光景ばかりで、龍雲を見つめていると、だんだん他のものが視界に入らなくなってきた。
龍雲に惹き込まれるほどに、いつの間にか足元の地面が遠く感じて、僕の体も空に浮いていけるような気がしてくる。
このまま時間さえも遠くに忘れてしまいそうだ。
(…あっ、そうだ時間)
ふと我に返り、僕は龍雲から目を放した。
今日はこっそり抜け出してきたから、五時には部屋に戻らないと、抜け出したことがバレてしまう。
当然、今すぐ戻ったほうが良いんだけど、こっそり抜け出すのに成功した爽快感もあって、僕はもう少しこの時間を楽しみたかった。
それにここからなら、部屋へ戻るのに十分とかからない。
まだ時間に余裕があるはずだ。
(でも一応、正確な時間を確認しないと。
今は腕時計を付けてないし、スマホも…
あぁ、そういえば今日の日没、確か四時四十分頃だったはず)
僕は顔を上げ、西の空に太陽を探した。
太陽はその明るさで直ぐに見つけられたけど、もう地平線に半分沈んでいる。
思ったよりボーっとしていた時間が長かったようで、かなり時間が経っていた。
(もう少し居たかったけど、直ぐ戻らないと)
そう思いながらも名残惜しくて、僕はもう一度だけ龍雲を探した。
すると龍雲もすぐに見つかった。
けど、見つけた龍雲はさっきよりもずっと大きくなってるように見えた。
雲が風に吹かれ、形を変えて膨らんでいくことはよくある。
でも、これは少し違う。
形をそのままに大きくなって…龍雲はいつの間にか、こちらに近付いてきていた。
今、地上では風がほとんど吹いていない。だから低い雲ほど流れる速度は遅い。
なのに龍雲だけがその風を無視して、意思を持った生き物のようにスーッと早い速度で、こちらへ向かって降りてきている。
(いや、風が吹いていたとしても、普通の雲がこんな速さで流れてくるわけないっ)
こちらに近付くほどに龍雲は大きくなり、間近に迫る頃には水族館で見たシャチくらいのサイズになった。
そして近付けば近付くほど、この龍雲が「こっちの方」ではなく、明らかに「僕」を目指して向かってきているのを感じた。
いつの間にか太陽はもうほとんど地平に沈み、あと少しで完全に見えなくなる。
薄暗くなる空の下で、僕は急に怖くなった。
(ここから離れよう)
そう思って右足を後ろに引いたものの、僕はまだ龍雲から目を離せない。
恐怖からか、まだ龍雲の魅力に引き込まれているのか…。
どちらにせよ、もう瞬きも出来なかったから、僕は視線はそのまま、下半身だけで半歩後ろに下がった。
そしてそのまま、静かに慎重に後退りする。
だけどそんな僕の動きを全てお見通しかのように、龍雲は突如スピードを上げ、一気に僕の目前に迫って来た。
(ぶつかる!)
そう思った瞬間、龍雲の体は僕の足をするりとすり抜けた。
龍雲の綿毛のように柔らかそうな体表が足を撫でるのに、僕の足には何の感触もない。
(…実体がない?
そうか。雲は水滴の集まりだから、ぶつかってもすり抜けるのか)
と、僕は一瞬気を抜いた。
が、それとほぼ同時に、今度は龍雲の体が革のように硬い質感に変わり、殴りつけるように僕の足元をはね上げた。
「うわっ」
はね上げられた衝撃で思わず声が出る。
気の緩んでいた僕は受け身をとるのも間に合わず、龍雲の上に尻もちをつき、後ろに倒れて背中も打ち付けた。
全身に鈍い衝撃が伝わって、痺れるような痛みが広がる。
僕は龍雲の上で身悶えしたが、龍雲は僕のことなんかお構いなしに今度はさっきよりスピードを上げ、真上に向かって急上昇をはじめた。
(このままじゃ振り落とされる!)
僕は体の痛みを堪え、振り落とされないよう必死に龍雲にしがみついた。
龍雲は進路を変えることなく、真上に向かって上昇を続ける。
(何だよ、真上って!一体どこへ行くんだ!?)
僕は龍雲が上昇する風圧に耐えながら、薄目で周囲を確認した。
もう僕の横に見えるのは空と雲ばかり。地上の街並みは遥か下、遠く霞んできている。
龍雲の速度は予想以上に早く、既に僕が自力で飛び降りられる高さじゃない。
(どうしよう。こんなことになるなら、もっと早く振り落とされていた方がマシだったかな)
空に向かう龍雲を遮るものはなく、龍雲はどこまでも昇っていく。
(これからどうなるのだろう?)
僕はだんだん頭が痛くなって、吐き気も催しはじめた。
今すぐ考えなきゃならないことがたくさんあるのに、気分が悪くて集中できない。
それを考える前に意識が途切れ途切れになる。
(…これ…まずい、よなぁ)
ぼんやりそう思うだけで、何もできないまま、僕は気を失った。




