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ごゆっくり

作者: まりこ

長野県の野沢温泉には麻釜おがまという名所があります。

地面から湯気と音を立てて熱湯が湧き出し、その力を利用して、地元の方々は野沢菜を茹でたり、卵を茹でたりします。 長い冬を生きる人間たちは、この湯気を見て、温もりと暮らしの知恵を思い出すのだそうです。

また、野沢温泉は木造の小さな小屋の共同浴場がいくつかありまして、それをめぐる外湯めぐりが楽しい温泉地なのです。


そんな野沢温泉の一角に、河原湯という小さな外湯があります。


申し遅れました。私は、河原湯の湯船の石です。

ずっとここにおります。運び込まれたのではありません、最初から、ここに居ました。 日々、人間たちが湯に浸かり、会話を交わし、独り言をもらすのを聞きながら、私は人間の世界を学んできました。 もっとも、聞くばかりで自分の目で見たことは一度もありませんから、ときどき見当違いな理解をしているかもしれません。 ですがそれでも、人間というものは、面白い生き物だと私は思っているのです。


その日やってきたのは、スキー旅行の家族でした。

お父さんは、娘二人をお母さんに任せて女湯へと送り出し、自分は男湯の暖簾をくぐってきました。

「お母さんの言うことをきくんだぞ」

それが、父親としての一日の最後の仕事に見えました。

湯に足を入れるなり、「あっつ!」と情けない声をあげたのは、ちょっと残念です。 水を足そうとする手に、私は内心でぶすっとしていました。 この熱こそ、野沢の湯の誇りですのに。 けれどもお父さんは、すぐに肩まで湯に沈み、ぽつりとこぼしました。

「熱くても……いい湯だ……」

私は気を良くしました。 そう、そうでしょう。 あなた、今日一日、家族の笑顔を引き出すためにがんばりましたもの。 やっと得た自分だけの静かな時間。湯の中で、それを味わってください。

そんなあなたには、野沢菜のおやきがよく似合いますよ。

すると、お父さんは湯から上がりながら、ふとつぶやきました。

「……風呂上がりに、おやきでも食べるか……」

まるで私の念が届いたかのようでした。 私は、嬉しくなりました。 私は、食べたことはありませんが、野沢菜のおやきが好物です。

好物って、好きな食べ物のことだと、誰が決めたのでしょう?

私は、好きな物語のことだと思っています。 風呂の底で、野沢菜のおやきを食べた人たちの、幸せな話をいくつも聞いてきました。 だから私は、それが好きです。 それで、じゅうぶんなのです。


お父さん、食べたら明日、また私に、ひとつ幸せな物語を語りにきてくださいね。


さて、つぎにやってきたのは、若者三人組。 スキーウェアを脱ぎ散らかして、はしゃぎながら湯船に飛び込んできました。

「おおおお〜!すげぇ、これが“外湯”かよ!」

「っっっっつ!!ヤッベ、マジで煮えるかと思った!」

「ダメだダメだ、水入れよ、水!」

そのときです。 桶に汲まれた水が、バシャァァ、と私の頭にかかりました。

……いや、ね? たしかに、あなたがたにとっては熱いかもしれない。 けれど、これは文化です。伝統です。魂です。 私は、怒りました。

あああああ……おやめなさい。お願いですから、やめなさい。 その水は、湯の味を壊します。 湯温を守ってきた者たちの、百年の努力を踏みにじらないでください。 ……って、申し上げているでしょうが。 誰も、聞きゃあしない。

湯がぬるくなり、私はすっかりふてくされました。

「これでやっと人間の入る湯って感じだよな!」

と笑いあう彼らを、私は全身で無視しました。 ふん、と湯の底で鼻を鳴らすような気持ちで。

……こうしてまた、文化は埋められていくのです  なんてね。ちょっと詩人気取りでしょうか。

ま、いいんです。 また明日、お父さんが戻ってくることを願いましょう。 そして私はまた、尻を支え、話を聞き、相槌を打って、幸せな物語をひとつ、いただくのです。


◆◆◆


河原湯には外国からのお客さまもよく来ます。世界のNOZAWAですね。 私は相変わらず、河原湯の下でじっとしています。

ある日、陽気な白人の大学生グループがやってきました。湯の熱さに「Wow!」と叫び、水を足そうとします。

湯船の脇には「加水の際は他の入浴されている方にご配慮ください」と書かれてあります。

「Hey, it’s really hot! Should we add some water?」

(ねえ、すごく熱いよ!水足そうか?)

「Wait, it says ‘please consider others when adding water.’ Let’s not mess it up too much.」

(待って、加水の際は他の人に配慮してくださいって書いてあるよ。あんまりやりすぎない方がいいよね?)

思いとどまるその姿に、私は感心しました。あなたは大和の心を持っておられます! けれど、ひとりがこっそり蛇口をひねり始めたのです。私は不機嫌になりますが、石なので口には出せません。

Oh no, no, no!

(ああ、だめだめだめ!)

「The thing I just ate was amazing. It's called Oyaki.」

      (さっき食べたやつ、最高だったね。おやきっていうやつ)

彼らはおやきを食べてきたみたいです。グッドチョイスです。

「Yes, that's right. The melting of the chocolate is the perfect match.」

       (そうだなあ。チョコの溶け具合がベストマッチだ) 

What!? That’s not Nozawa oyaki!

(なんですって!?それは野沢のおやきじゃありませんよ!)

邪道なおやきを食べていることに、私は湯底で小さく震えて、泡ぶくを2つ吐きました。


続いて中国からの観光客が二人、のれんをくぐってやってきました。

一人は初めての訪問、もう一人は野沢温泉の常連のようです。湯に浸かりながら、二人はゆったりと話しはじめます。

「你觉得野泽温泉最大的魅力是什么?」

(野沢温泉の一番の魅力は何だと思いますか?)

「我觉得是这里不仅是泡温泉,更像是和大自然对话。泉水带来的温暖和周围的山景,让人心灵都平静下来。」 (ここはただ温泉に浸かるだけじゃなくて、大自然と対話しているような感じなんだ。温泉の暖かさと山々の景色が心を落ち着かせてくれるんだよ。)

没错!没错!就是这种感觉!

(そうです!そうなんですよ!まさにその感じです!)

「我一直觉得日本的温泉文化很特别。」

(ずっと思ってたんだけど、日本の温泉文化ってすごく独特だよね。)

すると常連の彼は少しだけ真剣な面持ちで、湯に目を落としてから、こう語りました。

「我觉得……人都是70%的水,对吧?所以,当我们泡在同一池温泉里时,其实就像是身体的一部分互相融合。哪怕之后分开,身体里也留着相同的水分。我们在这里分享的不只是温度,而是记忆。」

(僕はね、人は70%が水分でしょ?だから、同じ湯に入ることで、僕らの身体の中に同じ水が刻まれると思うんだ。離れても、心のどこかで繋がっているような気がするんだよ。)

まぁ!そんな目の付け所が!

温泉は温度だけではなく、記憶を分かち合う場所――

それは、石としてここにずっと座ってきた私にも思い至らなかった真理です。 そうですか、あなた方には、見えているのですね。この湯の深さが。


あなた方には、特別に路地裏のおやきの名店をお教えしましょう。麻釜で茹でた野沢菜を使っているらしいですよ。

こうやって、私は海外の方から日本の温泉の素晴らしさを教えてもらうこともあるのです。

日本の方は、ステレオタイプな感想を無意識なうちにおっしゃいます。台本でもあるのですか? その台本は海外には普及していないようですので、新しい価値観を海外の方から見せていただけるのです。


お気づきかもしれませんが、私、トリリンガルなのです。話しませんが。

実はこっそり、タイ語を勉強してります。ぜひ、タイの方々、私に会いにきてくださいね。あなた方が来て頂けなければ、私の勉強はいつまでも“初級編”のままなのです。困りましたね。。


◆◆◆


河原湯には、決まった時間に現れる顔ぶれがあります。いわゆる“常連さん”というやつです。

その中でも、毎週火曜と金曜の夕方に現れるのが高菜さん。地元の観光案内所に勤めているそうで、仕事帰りにふらりと湯に浸かるのが日課なのだとか。 軽く湯をすくって肩にかけ、それからじっくりと身を沈める。その一連の動作が、とても自然で落ち着いています。


……高菜さん。

はい、高菜さんです。 いっそ「野沢菜さん」に改名なさっては?

冗談です。失礼しました。私の鉄板ジョークです。石ですけど。


……いや、あの、私が滑ったのではありません。湯船の石というのはですね、滑りやすいのです。 皆さんもどうか、お気をつけて。


……はい、ごめんなさい。私も気をつけます。


今日も高菜さんは、のれんをくぐってやってきました。 いつものように軽く湯をすくって肩にかけ、それからじっくりと湯に身を沈めます。 ふう、とひとつ吐く息に、仕事の疲れがにじみます。

「いやぁ、今日は参ったなあ……」

湯気越しに聞こえるそのひとりごと。 私は、そっと泡をひとつ吐きました。慰める代わりになるでしょうか。ならないでしょうね。 でも、いいのです。ただ、そばにいるだけで。

なんでも、最近は海外のお客様がどんと増えて、観光案内所は人手不足なのだそうです。 私でよければ、英語圏の方と中国の方相手ならお手伝いできますので、お力添えさせて頂きたいです。案内所には行けませんが。 内緒ですよ。タイ語は最近諦めました。

高菜さんはちょっと難しい顔をしていらっしゃいます。


今は辛抱の時です。石の上にも三年、って言うじゃないですか。


思わず、心の中でつぶやきました。もちろん聞こえはしません。

……もっとも、私の上に三年も乗ったら、高菜さんのお浸しの完成です!

おっと、「私も気をつけます」とお約束したばかりでした。


お疲れな様子の高菜さんが、湯に肩まで浸かりながら、ぽつりとおっしゃいました。

「たまには熊の手洗い場で、もうひとっ風呂するか」

……え? て、手洗い場? 高菜さん、その……おトイレでお風呂に入られるのですか? いや、否定はしません。私はこの石として百年おりますからね、いろんな方を見てきました。 でも、でも……お手洗い……?

高菜さんは、続けてつぶやきました。


「外湯も気づいたら河原湯ばっかり入るようになったな。気分転換に別の外湯にでも」


あっ! そういうお名前の外湯があるのですね、熊の手洗い場さん。びっくりしました。てっきり……いや、本当に。 すぐお隣に大湯さんもございますが、熊のおトイレ……いえ、熊の手洗い場さん、どちらでしょう。お車で行かれるのでしょうか。

あとで知りました。歩いて五分程度の場所のようです。

「あっちは、熱すぎなくていい湯なんだよなぁ」

……あ、あのー……まさか…… 高菜さん、まさか私のところにもう戻ってきてくださらない、なんてことは……ないですよね……? 私、黙っておりますけれど、ちゃんと、待っておりますからね。 ……石ですけど。


次の金曜日、高菜さんは、当たり前の顔をして河原湯に来てくださいました。 私は、ちょっと安心して泡を三つ吐きました。


◆◆◆


河原湯の湯船の底に今日も沈んでいます。いつからここにいるのか、もう思い出せないほど長い時をこの湯の中で過ごしてきました。

ここには、いろんな人が来ます。観光客もいれば、地元の方もいます。けれど私が言葉を交わせるのは、たったひとり——あの子だけでした。

でも、あの子の声が、しばらく聞こえていません。


私は、毎日待っていました。戸が開くたびに、あの子の軽やかな足音が響くのではないかと、湯に身を沈めながら耳を澄ませました。でも、来たのは観光の家族連れや、知らない若者たちばかりでした。

湯が熱いと文句を言って、水で埋めようとする人がいるたびに、私は小さな泡を出します。けれど、あの子はちがいました。

「石さん、きょうもちょっと熱いけど……でも、この熱さがいいんだよね」

そう言って笑う、その声が恋しいのです。


初めてあの子と話したのは、何年か前の冬の終わりでした。

誰もいない平日の夕方、、ぱたぱたと慌てた足音がして、男湯にひょっこりとあの子が現れました。小学生のような、小さな男の子でした。

誰もいないことを確認すると、湯に足を入れて「ふう……」と声を漏らしました。そのときです。湯の中にひときわ響いた、その小さなため息に、私は思わず話しかけてしまったのです。


---そんなに熱かったかですか?


あの子は、きょろきょろとあたりを見回しました。でも、誰もいないことを確かめると、目を細めて湯船を撫でました。

「熱いよ。でも熱くないと温泉じゃないよね」

私は驚きました。人間が私の言葉に言葉を返してきたなんてありえなかったからです。

---私とお話できるのですか?

「できるの?って・・・石さんが話しかけてきたんでしょ?」

そう言って、あの子はくすりと笑いました。


それが、私たちの最初の会話でした。


それからというもの、あの子は何度も湯に入りに来て、いろんな話をしてくれました。学校のこと、友達とのこと、好きな給食のメニューや、川で拾った変な形の石の話まで。私は、聞いて、たまに相槌を打って、少しだけ言葉を返すだけ。でも、あの子はそれをとても楽しんでいるようでした。


「ねえ石さん、今日さ、国語で短歌を書いたんだけど、聞いてくれる?」

「石さん、ここの湯って、なんでこんなに熱いのかな? ……ま、いいか、石さんは好きなんだもんね、この熱さ」


そんなやり取りを、私たちは何度も交わしました。


ある年の三月、あの子が河原湯にパタッと来なくなりました。

いつもの時間に扉が開くたびに耳を澄ませていましたが、軽やかな足音は戻ってきませんでした。泡も、自然と出ることが少なくなっていきました。

そんなある日の昼下がり、高菜さんが町の人たちと一緒に湯に入りに来てくれました。

「そういえば、あの子、最近見ないな」

高菜さんが肩まで浸かりながら、ぽつりと口にします。

「全寮制の高校に行ったらしいよ。東京の学校に」

「へえ、まだ小さいと思ってたけど、もうそんな歳か……」

「俺たちも歳をとったってことだな」

湯気の中、三人の声がやわらかく響き、笑い声とともに湯に溶けていきました。

私は湯の底で、じっと耳を澄ませていました。


そうか。あの子は東京へ行ったのですね。

誇らしくもあり、やっぱり少しだけ、寂しさもありました。



六月。たけのこまつりの日がやってきました。


湯の中に沈んでいても、この日の賑わいは、はっきりと伝わってきます。

おまつりは河原湯のすぐ裏手の細い路地で賑やかに開かれます。

その細い路地は、普段は静かでひっそりしていますが、この日はまるで別世界のようです。屋台がずらりと並び、地元の人たちが集まって、楽しそうに笑い合っています。

香ばしい匂いが風に乗って湯の中にも届きます。根曲がり竹のたけのこご飯やたけのこ汁はもちろんのこと、変わり種もいろいろあります。

たけのこのシャキシャキとした食感を生かした焼きそばや、オリーブオイルとにんにくで味付けしたアヒージョ風のたけのこ料理も並んでいます。

さらには、地元の蒸留所でつくられたジンを炭酸で割った爽やかなジンソーダも屋台で売られていて、大人たちはそれを片手に笑顔を交わしています。


太鼓の音や笛の音はありませんが、子どもたちの元気な声が路地いっぱいに広がっています。私は湯船の底で、その賑わいを耳で感じながら、ふわりと漂ういろんな香りを楽しんでいました。

このお祭りの賑やかな空気は、毎年私を元気にしてくれます。今日もまた、ここでたくさんの人たちの笑顔が生まれているのだなと、心が温かくなります。


戸が開いて、賑やかな声が湯気をかき分けて入ってきました。

「熱っつ!」「これが野沢の湯だよな!」

楽しそうな笑い声が浴室に広がります。私は思わず、身を沈めたまま耳を澄ませました。聞き覚えのある足音。少し声変わりしたような、それでもどこか懐かしい声が聞こえてきます。


——あの子です。


最後に会ったのは、三月のまだ寒い頃でした。それ以来、私は毎日湯の中で、あの子の足音を待ち続けていたのです。今日の足音は、少しだけ重たく、一歩一歩に自信がにじんでいました。背も声も、ほんの少しですが大人びていた気がします。

「でさ、通学がけっこう大変でさ。駅からまた坂道なんだよ」

「マジ?朝練とかあるとキツくない?」

「うん、まあね。でも、寮だから起きたらすぐ行けるのは楽っちゃ楽」

あの子は友人と、楽しそうに近況を語り合っています。その様子を、私は静かに、けれど胸を躍らせながら聞いていました。


やがて、友人のひとりが湯の縁に腰をかけ、「熱くてもう無理!」と笑いながら上がっていきました。

「僕はもう少し浸かってくね」とあの子が言いました。

「お前、こんなに熱いのによく入ってられるな」

「何言ってんの。この熱さが僕には幸せなんだよ」

その言葉に、私はぐっと嬉しさをこらえきれず、小さな泡を一つ立てました。やがて湯船に静けさが戻り、あの子と私だけが残りました。

「……石さん、久しぶり」

その一言に、私は心の底から嬉しさがこみ上げてきました。

---はい。あなたの声をまた聞ける日を、どれほど待っていたことでしょう。

「僕も、来たかったよ。ほんとはもっと、帰ってきたかった。でも、高校が忙しくて……」

---寂しかったですが、あなたが元気に過ごしているとわかって、私は安心しました。

「うん……こっちも色々あるけど、やっぱりここに来ると落ち着く。こうして石さんと話すの、なんか懐かしい」

---私も、こうしてあなたと言葉を交わせることが、本当に嬉しいのです。

湯気の向こうで、あの子は少しだけ笑ったように見えました。

でも少し寂しそうな笑顔でもありました。


「来るの、最後になるかもしれないんだ」

静かな声でした。私のまわりの湯が、少し揺れたように感じました。

「この夏は寮で補習もあって、秋には合宿や遠征もあるし……冬はたぶん、こっちまで戻ってこられないと思う。だから——今日は、来たかったんだ」

私はしばらく黙って、あの子の言葉をかみしめました。人は育つのですね。そして、旅立っていくのですね。


「……それにね」

あの子が、ぽつりと言葉を継ぎました。

「一緒に入ってた友達、来年には就職で村を出るんだって。だから、こうして一緒に温泉に入るのも、たぶん今日が最後になるかもしれなくて」

私は黙って、湯の中で耳を傾けました。

「……それと、もうひとつ。こっちに帰ろうって思ったのには、もうひとつ理由があるんだ」

あの子の声が、少しだけ震えました。

「去年の冬、ばあちゃんが亡くなったんだ。小さい頃、僕のこといつも河原湯の前まで連れてきてくれてたばあちゃん。……最後まで、温泉に入れるくらい元気だったんだけどね」

私は静かに、深く、湯の底から気泡を一つ送りました。それが、私にできる弔いでした。

「ばあちゃん、最後まで“あんた、ほんとに石さんと話してるの?”って笑ってた。でも僕、本気だったんだよ」

---はい。私も、本気であなたと話していました。

「だから今日は……なんというか、いろんな意味で来たくなったんだ。友達のことも、ばあちゃんのことも、……それに、石さんにちゃんと『またね』って言いたかった」

私は言いました。

---ありがとう。来てくれて、話してくれて。あなたの言葉は、私にとって何よりの贈り物です

あの子は少し俯いて、そして、うんと頷きました。

「僕が大人になっても、ちゃんと覚えてるから。この場所も、石さんの声も」

私は、湯の中でそっと目を閉じました。


——それで、十分です。

「石さん、僕ね……この湯船のこと、たぶん一生忘れられないと思う」

---忘れなくていいのです。けれど、思い出になってしまうのは……少しだけ、さびしいですね


あの子は、湯に浸かったまま、天井を見上げていました。湯気にゆらめく瞳が、どこか遠くを見ているようでした。

「東京の学校、すごく人も多くて、なんか毎日がせわしなくて。でも、頑張るって決めたから……うん、大丈夫。やれるよ、僕」

---あなたなら、きっと大丈夫です。私は、ここでずっと応援しています

「ありがとう。……石さん、これからも、ずっとここにいてね」

---はい。私はここにいます。どんなに時が過ぎても、湯の中で、あなたを待っています


しばらくして、あの子はそっと湯から上がりました。タオルで顔をふきながら、もう一度私の方を見て、にこっと笑ってくれました。

そして、湯気の向こうへ消えていきました。


私はまた、静かに湯の底に沈みました。少しだけあたたかく、少しだけさびしい気持ちを抱えて。

——けれど、あの子の言葉が胸にあります。


「これからも、ずっとここにいてね」


はい。私は、ここにいます。


◆◆◆


あれは、たしか、朝の湯気がまだ薄くて、石造りの床に差し込む光がやけにやさしかった日でした。

「ねえ、聞いた? 河原湯、リフォームするんだってさ」

聞き慣れた常連の声に、私はほんの少しだけ、泡を立てました。話しかけられたわけではないとわかっていながら、つい、返事をしてしまうのは、癖です。

「来月からだってよ。百年の節目らしいよ。建物もさすがにくたびれてきたしね」

百年。節目。 言葉の意味は、だいたいわかります。百というのは人間にとって大きな数で、何かが終わったり始まったりする目印のようなものです。 私はずっとここにいます。河原湯の底で、湯に抱かれ、客の声に耳をすまし、ぬるりと滑る足の裏を感じながら。 けれど、百年。節目。リフォーム。 その響きに、私はなぜだか、少しだけそわそわしました。

「まあ、しばらくは入れなくなるね。ここの湯がいちばん好きなんだけどなあ」

「新しくなっても、あの熱さは残してほしいね。ぬるくなったら河原湯じゃないよ」

湯の温度の話になると、私はつい身構えてしまいます。

頼む、湯は埋めないでくれ。熱いのがいいんだ。ぬるくしたら、ここじゃない。

——心のなかでそう念じるけれど、それはただの願望にすぎません。 湯船の底の私が、彼らの言葉に耳をすませ、ときには頷き、ときにはむくれていることを人間の皆さんは気づかないのです。。

そんな石の私にも、どうやら、「リフォーム」というのは、「おしまい」のことらしいと分かりました。 私の、河原湯での役目も。


——最後の一日

その日は、朝から雨が降っていました。野沢の山々はしっとりと霞み、湯の蒸気とあいまって、村全体が湯気のなかに沈んでいるようです。 河原湯の戸が開き、ぴしゃりと濡れた足音が響いきました。

「うわ、あつっ! これこれ、これだよ、これ」

久しぶりに聞く種類の声でした。旅人の声ではなく、どこか懐かしい調子です。体の芯に届くような、昔の音。 「だいじょうぶ? あっちいねえ、ここのお湯」

つづいて入ってきたのは、幼い声でした。小さな足音が、湯のへりをぱちゃぱちゃと跳ねます。私は、お湯を一滴、弾きました。ほんの少しだけ。反応したくなってしまったのです。

「昔ね、パパもここによく来たんだよ。君くらいのころに」

その声に、私は思わず身を乗り出しかけました。いや、石にそんなことはできないはずなのだけれど、確かに、すこし湯が波打った気がしました。

……えっ?

私の中にある、記憶という名の粒が揺れました。あの声です。あの子の声です。

あの日、たけのこまつりの日に、最後に声をかけてくれた

——「じゃあね、石さん」と言ってくれた

——あの子が、いま、もう「パパ」になっていました。

「ここね、石さんがいるんだ。しゃべったことあるんだよ、ちっちゃいときに」

私は、泡をひとつ浮かべて相槌をうちました。

「……あれ? いま、なんか返事した?」

私は、もうひとつ泡を立てました。間を置いて、今度はすこし湯を揺らしました。 その瞬間、彼が、まっすぐ湯の底を見て—

—言 「……石さん、ひさしぶり」

私は、いままでにないほど、湯を波立たせました。湯の音を借りて叫んでしまったかもしれません。

----帰ってきたね  と。

となりで、その子どもが

「パパ? 誰と話してるの?」

と尋ねました。

「うーん……むかしの友だちと、かな」

その言葉は、湯気のなかで溶けていったけれど、私にははっきりと届きました。私の百年のなかで、一度きりの、再会でした。

そして、それが、最後の会話です。


翌日、河原湯は一時閉鎖となりました。

静まり返った湯船の中で、私は最後の温もりをかみしめていました。長いあいだ、ここにいた。野沢の湯の熱さも、湯船に響く笑い声も、すべて覚えています。

トラックの荷台の上、私は外の空気に包まれました。冷たい風が頬をなで、これまで感じたことのない寒さに身を震わせました。石だけど。

ずっと温かい湯に浸かってきた私には、外の世界の冷たさが驚きでした。

「……ああ、確かに、私の湯は熱すぎたのかもしれないです」

ぽつりと呟きながら、少しだけ自嘲しました。

荷台の向こう側で、あの中国人の常連さんが小さな箱を手にしています。おやきですね!あの香ばしい匂いがかすかに届きました。

---あれが、おやきですか!私、一度も食べたことないですけど、好物なんです!初めて見ましたけど。

その言葉は、私の心の中の独り言にすぎません。彼は私に話しかけるでもなく、ただ静かに湯船のあった場所を見つめていました。

そこへ高菜さんもいらっしゃいました。高菜さんは言葉なく湯船に向かって深く頭を下げて下さいました。私はただ、彼の静かな気配を感じていました。

---みんな……ありがとう。

声にならない声で呟きました。彼らは私の存在を知ってはいるけれど、決して会話はできません。私はただ、聞き、見守ってきました。

トラックが動き出し、徐々に野沢温泉の景色が遠ざかっていきます。私は静かに思いました。


「人間というのは、私の思っていた以上に面白い……。おもしろくて愛おしいです」


新しい旅路の始まりを感じながら、私はこれまでの百年を振り返りました。

気付けば、私は東京の首都高を走っていました。 ビルの間を抜けて、あの子のいる空を眺めました。

もうすぐ、あたらしい私の役目の場所につきます。


<完>


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