馬車は運ぶ、ふたりの夫婦と三つの想いを
雲ひとつない晴れた空の下、のどかな風景の広がる農村で一組の中年夫婦が馬車を待っていた。
「どうも。お待たせしましたね、フレッドさんとケイトさんですか? 私が御者のセドです」
やがて夫婦の前に現れたのは青鹿毛の馬が一頭でひく立派な馬車だった。御者席からセドと名乗る青年が降りてきて、夫婦の名を確認する。
「あ、あぁ……確かに俺がフレッドだが、本当に間違いないのか?」
少しどもりながら夫のフレッドが確認した言葉に、赤毛の青年はやわらかな印象の笑顔を浮かべながら問い返す。
「間違いないとは?」
「だってこんなに立派な馬車だとは思ってなくて……町の市場へ野菜を売りに行くだけなのに」
妻のケイトが不安そうにつぶやく。彼女がうろたえるのも無理はない。
普段夫婦がとなり町へ行く時は行商人の馬車に便乗させてもらうか、他の者と連れ立って村の共有財産である馬車を使うかのどちらかだ。行商人の幌馬車と比べても目の前の箱馬車は明らかに立派だし、村の馬車にいたっては比べるべくもない。なにせ村の共有財産は屋根どころか幌すら付いていない、荷車を馬にひかせたような馬車なのだから。
「気になさらないでください。ちょうどこの村まで所用で来たところなんです。もともと帰りは空の予定でしたから、少しでもお金がいただけるならこちらとしても助かるんですよ」
そんな彼女の心配を吹き飛ばすようにセドはあっけらかんと笑った。それを見てようやく夫婦も緊張を解きほぐす。
「積み荷はそれですね。こちらに入れますので少しずつ渡していただけますか?」
夫婦の後ろに積んである麻袋をチラリと見た後、セドは御者台の下にあるトランクを開く。だが当の夫婦は戸惑いを浮かべるばかりだった。
それも仕方がない。夫婦の後ろにある麻袋は優に二十を超えている。とても御者台の下に収まるような量ではないのだ。
「いくら何でもそこには入らないだろう。乗るのは俺と嫁だけだから、残りの座席に積ませてもらえるか?」
「大丈夫ですよ、それくらいの量なら入りますから」
妙に落ち着いたセドに促され、しぶしぶながらもフレッドは野菜がたっぷり詰まった麻袋を手渡していく。
困惑するフレッドをよそに、セドは受け取った麻袋を次々とトランクへ収めていく。
「……まだ入るのか?」
その数が五つを超えた時、フレッドはその異常性に思わずつぶやいた。どう考えても外見から推測できる収納量を超えていたからだ。
やがてすべての麻袋が収まり、セドがトランクの扉を閉じると夫婦はそろって目を丸くしていた。
「え? なんで? どうなってるの?」
妻のケイトが口にした疑問へ、セドが種明かしをする。
「私、これでも才能持ちなんですよ」
それを聞いた夫婦の顔に影がさす。
「ああ、なるほど」
「そうです、か……」
不可思議な現象に納得を見せながらも、才能という言葉がふたりの胸を見えない針となって突き刺す。
この世界には才能という特異な力を発現させる人間がたまに現れる。才能は人によって千差万別で、有用なものもあれば役に立たないものもあり、危険なものもあれば取るに足らない程度のものもあった。
平凡な村人には縁のないものだ。しかし一年ほど前、夫婦のひとり娘が突如才能を発現させた。
娘のアリアが得たのは《一定範囲の天候を操る》という有用でしかも危険な才能だった。
農業を営む一家にとっては非常に有用なだけの才能だが、使い方次第では敵対する相手の土地を干上がらせたり、人為的に洪水を起こすこともできるだろう。心正しき者が使うならこの上ない恩恵を人々に与えるが、邪な心を持つ者が使えば人為的な災厄を起こすことすらできる。
それを危険視した国が夫婦からアリアを引き離した。国内の有力貴族にアリアを引き取らせ、養子縁組した上で貴族令嬢として守ることにしたのだ。
夫婦が望んだことではない。アリア本人が望んだことではない。だが一介の平民でしかない一家には拒否するという選択肢は与えられなかった。
フレッドもケイトもアリアと離れ離れになどなりたくなかった。貴族と養子縁組などすればアリアはもはや平民の夫婦が会える相手ではなくなる。望みもしない今生の別れなど、誰が喜ぶだろうか。
だが、国からの使者は強硬な手段に訴えるのではなく、粘り強く言葉で一家を説得した。このまま農村で無防備に暮らすアリアが良からぬ考えの者にさらわれ、自由を奪われたあげく道具の様に使いつぶされる可能性を突きつけられ、夫婦はことの重大さに気付かされる。危険なのはアリア自身だけではなく両親もだと説明されると、親思いの彼女は反論もできなくなった。
使者の説得が続くこと数日。最終的にはアリア自身の安全のために、と身を切られる思いで夫婦は受け入れるしかなかった。
アリアが才能を得て貴族の養子となり、村を出て行くまでわずか一ヶ月にも満たない間の出来事だった。今から一年ほど前の話である。
最初の一ヶ月は夫婦共に泣き暮らした。フレッドが立ち直るのに二ヶ月、ケイトの悲しみが薄れるまでに半年の時間が必要だった。
今では別れた直後ほどの辛さはないが、それでもこうして才能というものを目にし耳にするとアリアのことを思い出さずにはいられない。目を潤ませるケイトの肩をフレッドは抱き寄せる。
「では出発しましょうか。途中で休憩を挟みますが、日暮れ前には町へ到着する予定です」
「うん……よろしく頼むよ、セドさん」
事情を知らないであろう御者の青年に、フレッドは気を持ち直して返事をする。促されて馬車の中へと入っていった夫婦は、予想以上に綺麗で座り心地の良さそうな座席にまたも驚く。
「これはまた……馬車の中もすごいな」
「……本当に銅貨五枚で良いのかね? あたしはちょっと怖くなってきたよ」
馬車の中は向かい合わせの三人掛け座席と外の景色を楽しめるように小さな窓がついている。窓の下には小さなテーブルがせり出しており、その上には金属製の水差しと木のコップがおいてあった。
「のどが渇いたらそちらの水差しをお使いください。私に用事があるときはこちらのベルを鳴らしてくださいね」
戸惑いを隠せない夫婦にそう言い残すと、セドは扉を閉めて御者席へ移動していった。
間を置かず馬車がゆっくりと動きはじめる。小窓から見える見慣れた景色が少しずつ遠ざかっていった。
「……揺れないな」
「……乗り心地がとても良いわね」
ふたりともこれまでに何十回と町まで馬車に乗って行ったことがある。この村のような田舎の道は草が生えていなければまだ良い方で、ところどころに大きめの石が転がっているし、木の根が地面から顔を出していることすらある。轍ができるほど馬車の往来があるわけもなく、とにかく道の凹凸は激しい。石畳で綺麗に舗装された町の大通りならともかく、原野の道を馬車で進むというのは結構な慣れと忍耐を求められるのだ。
「立派な馬車ってのは揺れも少ないもんなんだな」
フレッドは感心しながらも貴重な機会を楽しむことにした。出発時に予期せぬ動揺を強いられたが、馬車でゆられるうちに落ち着きを取り戻していた。ケイトも同様に今は外の景色を眺めて笑みを浮かべている。先ほどのショックからは抜け出せたようだった。
「これ……飲んで良いってセドさん言ってたわよね?」
「そうだな、コップまで用意してくれてるなんてなあ。お貴族様向けの馬車ってこんな感じに至れり尽くせりなのかな?」
「どうかしら? 町で見かけたお貴族様の馬車はもっとゴテゴテした飾りがいっぱい付いてたわよ」
「だとしたらこれよりもすごいってのか? この座席なんてフッカフカだぞ。これ以上ってどんなんだよ」
「本当に座り心地が良いわね。うちのベッドよりも気持ち良く眠れそうだわ」
「……」
フレッドが座席の幅を確認するように目を向ける。
「ちょっと、本当に横にならないでよ? よだれなんて垂らして汚したらすごい金額払わされそうだもの」
「……わかってるよ。ちょっと感触を確かめてみたかっただけだって」
釘を刺されたフレッドが話題をそらそうと水差しに手を伸ばす。
「み、水をもらおうか」
木のコップに向けてフレッドが水差しを傾けると、中からかすかに柑橘類の香りをまとった水が流れ出る。
「水……だよな」
ほのかに違和感を覚えながらも、コップに口を付けたフレッドが水を飲み込んだ後で思わずつぶやく。
「うまい……なんだこれ?」
「わあ、ホントにおいしい。水……にしては柑橘系の香りがするし」
同じように水を口にしたケイトもその味に驚きの表情を浮かべる。
「もう一杯もらおうかな」
「ちょっとあんた、早々に飲みきったら後から困るわよ」
「いや、そうは言ってもよう……」
半日とはいえ馬車の旅はまだまだ続くのである。途中で休憩をする時に水を補充することはできるだろうが、その際に汲むのは普通の水である可能性が高い。
そんなことも思い至らないのか、ガブガブと水差しからコップへと注いでは飲み干す夫にケイトは呆れ顔を見せる。
「気のせいかな……減ってねえような?」
「そんなわけないでしょう」
どこまでも能天気な夫にケイトはあからさまなため息をついた。
そうして馬車にゆられることしばらく。突如としてセドの声が馬車内に響いた。
「フレッドさん、ケイトさん、注意してください! 狼の群れが馬車を囲むように近付いています!」
「なんだって!?」
「え、狼の群れ?」
「危険はないと思いますが念のため出入口の扉に内側から鍵をかけておいてください! 絶対に外へは出ないでくださいね!」
車外から叫んでいるにしてはやけに明朗なその声に違和感を抱く間もなく、馬車が停止した。
フレッドが恐る恐る小窓から外を覗くと、狭い視界の中に三頭の狼が見える。
「か、鍵を!」
慌てて扉へ飛びつき内鍵をかける。小窓の方は鍵など付いていないが、狼の大きさを考えれば馬車内に入り込まれる心配はなさそうだった。
「何頭いるんだ……?」
フレッドから見えるのが三頭でも、当然それが群れのすべてであるわけがない。馬車を囲んでいるのだろうから十頭以上は確実にいるのだろう。
「あんた……この馬車、大丈夫かな? 狼が馬車を壊して入ってくるなんてことは……」
「大丈夫、大丈夫だ。俺がついてるから!」
空元気で妻を励ますフレッドだったが、その言葉にはなんの根拠もない。それよりも、とフレッドは御者の青年を案じる。馬車内にいるフレッドたちと違い、御者のセドはなんの守りもなく狼の群れに囲まれているのだ。
どうしてすぐにこちらへ入ってこなかったのか?
まさか自分たちを置き去りにして自分だけ逃げたのか?
そんな疑念がフレッドの頭に浮かび出す。
その時である。獣の情けない鳴き声が周囲に響いた。
何事かと小窓を覗いたフレッドの目に入ってきたのは、次々と矢に射貫かれる狼の姿である。御者台の方から鋭い射出音が聞こえた次の瞬間には狼の悲鳴が届き、単純な繰り返し作業のようにそれが続いた。
正射必中を具現化したかのような業で狼を仕留めているのは誰か。そんなことは確かめずともわかりきっていた。御者台にいるのはただ一人、御者のセドだけなのだから。
時間にすればほんの少し。だがその間にどれだけの狼が射殺されたのだろうか。仲間の多くを射貫かれた狼の群れは不利を悟って逃げ出していった。
「お待たせしました。狼は追い払いましたので出発します」
相変わらず良く響く声が届く。それに合わせて再び馬車も動き出した。セドの声には怯えも疲れも感じられず、その落ち着きようにフレッドとケイトも安心感を覚えた。
「はぁー、すごいな。ひとりで群れを追い払ったのか……」
乗り心地抜群の馬車、妙においしい無料の水、そしてひとりで狼の群れを追い払える御者。何もかもが常識外れのこんな馬車に、たったの銅貨五枚で乗せてもらえたのは幸運以外の何ものでもない。フレッドは精霊たちへ感謝の祈りを捧げた。
それからまたしばらく馬車は荒れた道を進み、太陽が直上へ昇りきった頃に休憩を取るため停止した。
「ここでお昼を食べて少し休憩します。このあたりはわりと安全ですが、遠くまで離れないでくださいね……って、おふたりならご存知ですよね?」
セドの言う通り、フレッドたちは村と町を往復する際に必ずこの休憩所を使っている。今さら注意を促されるまでもなかった。
「ああ、何度も来てるからな」
「ですよねー」
そう言いながら快活に笑うセド。狼の群れを弓ひとつで追い払った実力者とはとても思えない人当たりの良さに、フレッドもケイトもつられて笑顔になる。
「じゃあ私は馬に水を飲ませてきますから、気楽に休んでいてください。食事をするなら馬車の中にあった水差しを使ってもらっても構いませんよ」
「おぉ、助かる」
「あのお水、すごくおいしかったわ」
「でしょう? 柑橘果汁入りの特製なんです。無くなったら替わりもありますので、遠慮なく飲んでくださいね」
「そりゃありがたい」
そんな会話をにこやかに交わし、セドは馬だけを連れて近くの水場へと連れて行った。
残された中年夫婦は凝り固まった体を解すと、馬車近くの倒木に腰掛けて軽食を取り始める。
この休憩所は領主が整備した街道施設のようなものだ。建物があるわけではないが、周辺の樹木を伐採して視界を確保し、同時に何台もの馬車が停留できるようになっている。近くには小さな川が流れ、旅人や馬車を引く馬が飲み水を確保して一時体を休めるのにはもってこいの場所だった。
そのため複数の馬車が同時に休憩している光景も珍しくないのだが、今に限って言えばフレッドたち以外には誰も居らず、完全に貸し切り状態となっている。もっともそれとてわずかな間のことだった。
「ん? なんだありゃ?」
ふとフレッドが休憩所へ近付いてくる一団に気付く。
「隊商……にしては物々しいわね」
ケイトの指摘する通り、隊商にしては馬車の周囲を固める護衛たちの雰囲気がおかしい。その上、数も多すぎる。
だが次第にその集団が近付くにつれ、ふたりの顔に緊張が浮かび出した。
「おいおいまさか……お貴族様の馬車かよ」
フレッドの表情が陰りをみせる。
姿を見せた一団は、やたらと豪奢な装いの馬車を中心としていた。馬車の左右には騎乗した騎士らしき人物の姿があり、その周りをさらに囲んでいるのは帯剣した兵士だった。騎士と兵士を合わせると十人を超えている。その数に守られるということは馬車の中にいる人間が間違いなく貴人なのだろうと察せられた。
フレッドたちのような平民にとって貴族というのは先ほど遭遇した狼のようなものだ。できることならかかわり合いになりたくない、自分とは関係のないところで暮らしていて欲しい、互いに関与することなく別世界の存在として触れたくない。そういったものだった。
「セドさんが戻ってきたらすぐに出発してもらおう」
貴族の馬車と同じ休憩所に居たい平民は少数派だろう。どんな難癖を付けられるかわからないし、問題が起これば間違いなく平民の方が不利益を被ってしまうのだから。
フレッドたちは軽食を口に詰め込むと馬車の中へ避難しようと腰を上げる。
その時、貴族の馬車から扉を開いてひとりの人物が姿を現した。
その姿を見てフレッドの動きがピタリと止まる。同時にケイトの手からコップがポトリと落ちた。
馬車から降りてきたのはひとりの少女。涼しげな淡い水色のドレスをまとった彼女の顔を見てケイトの口から言葉が漏れる。
「アリア……」
それは離れ離れにならざるを得なかったひとり娘の名前だった。
馬車から降り立ったかつての娘は、日に焼けた肌がすっかり白くなり見た目だけなら深窓の令嬢を絵に描いたような姿になっていた。痛んでいた褐色の髪は丹念に手入れされているのか輝くような艶を放っている。その髪に挿された櫛は平民のふたりが一生手にすることもできないであろう煌めきを見せていた。
それでもわかるのだ。
どれだけ着飾っていても見間違うはずがない。ただそこにいるだけで、それが自分たちの娘であると魂が訴えていた。
ふたりの視線がアリアに注がれる。一瞬でもその姿を見逃すまいと食い入る様に見つめ続ける。
貴族に向けてそんなことをすれば、本来ならばだだではすまない。無礼打ちの理由としては十分だからだ。だがそれでもふたりはやめられなかった。もう一生目にすることができないと思っていた娘がそこにいるのだから。
幸か不幸か相手はフレッドたちの不躾な視線にも反応せず、休憩所の一角へ持ち運び用のテーブルセットを設置しはじめた。騎士と兵士が周囲ににらみを利かせ、侍女らしき女性がテーブルについたアリアへ茶を供する。不思議とフレッドたちへのおとがめはなかった。
どれほどの時間が経っただろうか。ゆっくりとティータイムを終えたアリアはしとやかな動作で立ち上がると侍女を伴って休憩所の周りを散策しはじめる。時折腰をかがめて何かを窺っているが、さすがに距離が遠すぎて何をしているのかはわからなかった。
「畑の横を元気に駆けまわっていたあの子が、すっかりお嬢様っぽくなって……」
たおやかな振る舞いを身につけた我が子の様子に、ケイトは嬉しそうに頬を緩ませる。
アリアの一挙手一投足に反応して周囲の護衛たちが動き、立ち位置を変える。娘が別世界の人間になってしまったことをそれが物語っているようで、フレッドは胸に痛みを覚えた。
言葉はない。ただ奥底から湧き上がってくる切なさと安堵に締め付けられながら、ふたりは血のつながった娘の姿を見守り続ける。
静かだった。護衛たちの物々しさが気にならないほどに時間は穏やかに流れる。鳥のさえずりとそよ風に揺れる木々の葉音だけが場を支配し、ふたりは侍女と笑い合う娘の声すら聞こえてくるような錯覚に陥る。
だがそんな静けさは唐突に終わりを告げた。
突如護衛たちが慌ただしく動きはじめ、その腰から剣を抜いて周囲を窺う。
「襲撃だ!」
「迎え撃て!」
「お嬢様のそばを離れるな!」
護衛たちの怒号が響くのにあわせて、武器を打ち合わせる金属音が聞こえてくる。フレッドたちが状況を理解するよりも早く武装した集団が護衛たちに襲いかかっていた。
「な、な……!」
村に迷い込んだ猪を相手にしたことくらいはあっても、人間相手の荒事など経験のないフレッドは絶句する。
「あ、あんた……アリアが!」
ケイトの声にフレッドは娘の方へ目を向ける。襲撃者たちの狙いは護衛たちに守られるアリアなのだろう。護衛は今のところ襲撃者の攻撃をしのいでいるが、状況はなかなかに切迫していた。
フレッドは理解する。かつてアリアを迎えに来た使者が言っていた危険とはこういうことなのだと。
「アリア!」
身分も立場も忘れて本能のままに娘のもとへ駆け寄ろうとしたフレッドの前に、襲撃者のひとりが立ち塞がる。振り上げられた剣が自分へ向けられていることに気付くが、騎士でもないフレッドは体を硬直させることしかできない。
その瞬間、空気を切り裂く音と共に襲撃者の腕へ一本の矢が突き刺さる。
「ぐっ」
うめき声を上げながら襲撃者が矢の飛んできた方向へ顔を向ける。それを待っていたかのように再び矢が襲撃者に飛ぶ。今度の矢は心臓を一撃で射貫き、襲撃者の命を簡単に刈り取った。
「危なかったですね、フレッドさん」
間一髪で危機を脱し、呆然とするフレッドのもとへ御者のセドが駆け寄ってくる。その傍らには馬車を引いていた青鹿毛の馬、その手には一張の弓があった。
休憩所に来てから弓なんて持ち出していただろうか? そんな場違いな疑問が一瞬脳裏に浮かぶが、すぐに霧散する。命が危機にさらされた恐怖の方がフレッドには大きかったのだ。
「おふたりとも、この場を動かないでください。私が必ずお守りしますので」
セドは落ち着いた態度でそう断言すると、弓に矢をつがえて放つ。一直線に飛んだ矢がまたも襲撃者の胸を貫く。
「あ、ああ……」
当惑するフレッドはただそう返すのが精一杯だった。
「レティ、近付いてくるやつらはお願いしますね。頼りにしてますよ」
セドが青鹿毛の馬にそう語りかけると、返事をするかのように鼻息を立てる。
そこからはまるで夢でも見ているような光景と共に事態は推移していく。
セドの放つ矢は魔法でもかけられているかのごとく襲撃者の体に吸い込まれ、彼が一射する度にひとりまたひとりと襲撃者は確実に数を減らしていった。
震える妻を抱き寄せながら事態の推移を見守るフレッドは、セドの射る姿に美しさすら感じていた。
突如、馬が嘶いた。続けて重い衝撃音がフレッドの耳に届く。
何事かと音のした方へ反射的に振り向くと、そこには倒れて痙攣している襲撃者の姿。その革鎧に蹄の跡らしきくぼみがハッキリと刻まれている。どうやらレティと呼ばれていたこの青鹿毛が守ってくれたらしいと、戦いが素人のフレッドにも理解できた。
「すごいな、お前……」
思わず感嘆の言葉が漏れると、レティは当然だとばかりに鼻息を荒くする。
「まるで人間の言葉がわかってるみたいね……」
心強い御者と馬のおかげで恐慌から抜け出せたケイトが不思議そうにつぶやいた。
ようやく周囲の状況へ注意を払えるようになったフレッドは、事態が沈静化に向けて進んでいることに気付く。襲撃者たちの数は明らかに減り、今もなおセドの矢によって数を減らしつつある。護衛が襲撃者に数で優位を得はじめると勝負は完全に明らかとなった。
「ふぅ……。おふたりとも、お怪我はありませんか?」
襲撃者たちが完全に無力化され、弓を下ろしたセドが夫婦に声をかける。
「レティもおつかれさま。助かったよ」
労いの言葉をかけられたレティは褒められたのがわかるのか、返事代わりにセドへ鼻をこすりつけた。
「このまま休憩を続けるわけにもいきませんし、少し早いですが出発しましょう」
再び夫婦に声をかけると、セドは馬を伴って馬車へ向かい出発の準備に取りかかる。
視線を娘の方へ向ければ、どうやらあちらも早々に立ち去ることにしたようだ。それは当然だろう。巻き込まれたフレッドたちと違い、あちらは標的になった当事者なのだから。
しかし彼らの行動が必然であっても、フレッドとケイトにとってはまた事情が異なる。もはや目にすることもできないだろう、そう諦めていた娘に巡り会えたのは奇跡のような偶然である。その奇跡を一瞬でも長く享受したいと願うのは、娘の親として当然のことであった。
だがフレッドたちの思いとは裏腹に護衛たちは手際よく動いている。負傷者の手当てを行い、再びの襲撃に備えて周囲を警戒しながら手早く準備に取りかかる様は、さすがに貴族令嬢の周囲を固める護衛というところだろうか。
そんな護衛たちの中から、騎士らしき装いの男がひとり抜け出てフレッドたちの方へと歩いてきた。
「近付いてくるな……騎士様か、あれは?」
「あんた、どうしよう……。アリアのこと見てたのを咎められるんじゃあ……」
「……親が娘に目を奪われて何が悪いんだ」
「でも、アリアはもうお貴族様の一員なんだよ。さっきもずっとこっちを見もしなかったし、あたしたちに気付いてないのかも?」
「気付かないわけがあるか。親子だぞ、十四年も一緒に暮らした親子なんだぞ! たった一年会わなかっただけで顔を忘れるわけないだろう!」
自分自身を叱咤するように叫ぶが、フレッドの頭にも一抹の不安がよぎる。この一年、貴族令嬢として暮らした娘がすっかり貴族社会に染まってしまったという可能性を。すでに住む世界が違ってしまったアリアが、自分の両親を無礼な平民として見下す貴族になってしまった可能性を。
「そんなわけ……ない……」
言葉の勢いを失うフレッドたちのもとへとうとう騎士がやってきた。
思わず身構えるふたりに向けて、騎士は手を差し出す。その手には小さな青い花が三つ乗っていた。
「あの……」
意味をはかりかねたケイトが態度で問いかける。
「当家のお嬢様が『ご迷惑をお掛けしたお詫びに』と」
困惑するばかりのケイトは、騎士がさしだした花を言われるがままに受け取る。手のひらに収まるほど小さな三つの花へ目を向けている間に、騎士は「ではこれで」と言い残し立ち去っていった。
どうやら出発の準備が整ったらしく、騎士が戻るのにあわせて護衛が隊列を組み馬車の周囲を固めた。その中央でアリアが騎士にエスコートされて馬車へ乗り込もうとした時、彼女が足を止めて不意にフレッドたちの方へ顔を向ける。
一年ぶりに親子の視線が交差した。
その時、フレッドもケイトも時間が止まったかのような錯覚を抱く。
そこにふたりの愛した娘がいた。貴族令嬢として磨き上げられ見違えるほど可憐になっていても、間違いなくその瞳は彼らの娘であった。
アリアがふんわりとした微笑みをふたりに向ける。一年前までの抜けるような笑顔ではない。だがそれでもふたりにとっては何ものにも代えがたい愛娘の笑顔である。
長いようで一瞬の出来事は終わりを迎え、アリアが馬車に乗り込むと間を置かずに動き出す。遠ざかっていく馬車と一団を見送りながらフレッドは妻の肩を強く抱き寄せた。
立ち尽くしていたフレッドたちへ出発の準備を終えたセドが声をかける。
「そろそろ出発しますが、よろしいですか?」
「…………ああ、良いよ」
「先ほどは怖い思いをさせて申し訳ありませんでした。でもしっかりと町までお送りしますので、安心してください」
「いや、謝ってもらうようなことじゃない。むしろ感謝しかないよ。本当に……今日ここに来ることができて……良かった……」
最後には言葉を詰まらせるフレッドに向けて、セドは意外なことを口にする。
「それはなによりです。……実は来年も同じ時期におふたりの村へ行く用事がありまして、差しつかえなければその時またご一緒しませんか? お代は今日と同じ額で結構ですから」
「え……でもさすがにそれは」
「あたしたちにとってはありがたい話だけど、セドさんにメリットがないんじゃ?」
「ご心配なく。村へ行く用事というのが結構高額な依頼でして、往復分の利益は確保できるんです。名は明かせませんが、貴族のご当主直々のご依頼ですから」
「は、はあ……」
「ただちょっと変わった依頼でしてね。条件がふたつあるんです。ひとつはその家のご令嬢が年に一度領地の視察をするこの時期であること。もうひとつは帰り道に必ずこの休憩所へ立ち寄ることなんですよ」
「そう、なのか……」
どうしてそんなことを自分たちに明かすのか、フレッドにはセドの意図が理解できなかった。
そんなフレッドの反応に、セドは少し困ったような笑みを浮かべる。
「平民にとって貴族というのは横暴だったり冷酷だったりと、あまりかかわり合いになりたくない存在だと思いますが……」
セドはフレッドの目をまっすぐに見て言外に訴える。
「世の中、横暴で冷酷な貴族ばかりじゃないんですよ。中には人の心を思いやれる、情に厚い方もいらっしゃいます。この依頼をくださった貴族のご当主もそのおひとりです。『平民を貴族へ軽々しく会わせるわけにはいかない。だが国の都合で親子を引き裂いてしまった以上、せめて年に一度、遠目に互いの姿を見るくらいは』と」
その言葉でようやくフレッドたちもセドの言わんとするところがわかった。
「そ、そのお貴族様の名は?」
「申し訳ないですが明かせません」
ケイトがすがるような声で問いかけるが、セドは当然のようにそれを断る。
しかしセドが先ほどからほのめかしていた言葉から、アリアを引き取った貴族とセドへ依頼をした貴族が同一人物であろうことをフレッドは確信していた。娘との再会は奇跡でも偶然でもなく、貴族の恩情によってお膳立てされた必然だったのだろう。
それに対しては怒りも憤りもない。ただ望外の喜びに感謝を抱くだけだった。
「あのお嬢さんは……お嬢さんが家でちゃんと大事にしてもらっているか、セドさんは知ってるの?」
アリアを引き取った貴族と、セドへ依頼をした貴族が同じ人物だとは誰も言っていない。だがケイトもフレッド同様に、セドがそれとなく伝えようとしていることに気が付いている。
おそらくこの御者は事情をすべて知った上でここにフレッドたちを連れてきたのだろう。
だからこそ、少しでもアリアの今を知りたいとケイトはセドに問う。我が子とは言わず、たまさか見かけただけのご令嬢の話として。
「あの家のご当主は人格者と評判のお方です。養女となった彼女に対しても多大な配慮をされているようですし、義理のご兄弟とお嬢様の仲も良いようです。貴族の家では当主の意向が屋敷全体のありようにも影響しますので、元平民だからといって彼女をないがしろにするような使用人もいないでしょう」
その言葉を聞いてフレッドたちは安堵する。
離れ離れになってしまったのは辛い。だが少なくとも娘が幸せに暮らしてくれているのなら、フレッドの胸を締め付けるこの痛みも少しは和らぐだろう。
「おや、それは……」
セドの目がケイトの手に乗った小さな花に向けられる。
「ヒヤシンスの花ですね」
「ヒヤシンス?」
ケイトは騎士から手渡された三つの花に目を落とす。
「このあたりに咲いていたんでしょうね。一本の茎にたくさんの花が付いているんですが、その一部を摘み取ったものですよ、それは」
「ああ、あたしも旦那も花には詳しくなくって――」
娘はわりと詳しかったんだけど、と続けようとしたケイトは続くセドの言葉に感情を大きく揺さぶられる。
「特に色が鮮やかな花を選んで摘んだんでしょうね。青いヒヤシンスの花言葉は《変わらぬ愛》。良い花言葉です」
それを聞いた瞬間、ケイトの涙が堰を切ったようにあふれ出す。セドの言葉でなぜアリアがこの花を贈ったのか気付いたからだ。
「うっ……ううっ……」
たとえ言葉に出せずとも、たとえそばに寄って抱きしめられなくとも、自分たち親子の絆は変わらない。たとえこの先交わることのない平民と貴族であっても、互いを大切に想う心も変わることはない。きっと花が三つなのはそれぞれが親子三人を示しているのだろう。
「ア、アリアっ……ううっ……アリ……ア……!」
娘の偽りない気持ちを受け止めてケイトが嗚咽を漏らす。その体を正面から抱きしめながらフレッドも静かに涙を流した。
抱きしめるケイトの体は全身で心の苦悶を訴えているようで痛ましい。手を離せば崩れ落ちそうなケイトの儚さに、フレッドはまだ娘が幼かった頃を思い出す。泣き虫だった娘をひざの上であやした思い出。そのまま泣き疲れて寝入る娘を抱えたときの温もりは、フレッドにとって何ものにも代えがたい宝物だった。
どんなことがあっても守るつもりだった。だがその宝は宝自身が才能を得たことによって、あっけなく手元から奪い去られてしまった。権力も財力もないフレッドには宝を自分で守る術などない。結局娘を手放すことでしか守れなかったフレッドは深い無力感に落ち込んだ。
だがそんな情けない父親を娘はそれでも愛していると伝えてくれたのだ。ただそれだけのことがどれだけフレッドの救いになることだろう。
離れ離れであることには変わりない。平民と貴族の間にある壁は高すぎてフレッドひとりがどう足掻いても越えられない。
それでも。たとえ年に一度でも、たとえ遠目からであっても、姿を見ることだけは許されるのだ。それだけでもフレッドたちにとってはこの先の人生を歩み続ける意味がある。
フレッドが娘にできるのはその幸せを祈ることだけだ。今頃馬車の中で同じように泣いているのかもしれない娘の幸福を願って、フレッドは精霊たちへ真摯な祈りを捧げる。
抱きしめ合うふたりの間に挟まれたケイトの両手には、家族三人の心を具現化したかのような三つの花が包まれている。それが三人に残された唯一家族をつなぎ止める縁のようにフレッドには感じられた。
――花の精霊よ、願わくば彼の親子の愛にふさわしき幸いのあらんことを