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『 静寂の詩人』

作者: 小川敦人

『 静寂の詩人』


春の訪れを告げる陽光が町を包み込み、人々は冬の重たい空気から解放されたかのように活気づいていた。桜の蕾はまだ固く閉じているが、その芽吹きを待ちわびる人々の表情は既に花を咲かせていた。

野村隆介は、アパートの窓から通りを行き交う人々を無表情で見下ろしていた。38歳になる彼は、中堅の出版社で編集者として働いていた。彼の担当は主に経済書であり、文学や詩集からは遠い世界にいた。

「春か...」

彼は小さくつぶやくと、窓を閉めた。部屋の中は整然としていたが、生活感に乏しかった。本棚には整然と経済書が並び、その隅に少しだけ、詩集が寄り添うように置かれていた。

隆介は学生時代、文学部で詩を学んでいた。卒業後、出版社に入社し、希望していた文芸部ではなく経済書の部署に配属された。当時は一時的なものだと思っていたが、いつの間にか十数年が過ぎていた。

彼は机に向かい、パソコンの電源を入れた。明日の会議の資料を作らなければならない。しかし、画面を見つめる目は焦点が合っておらず、心ここにあらずという表情だった。

「どうして春になると、こんなに落ち着かなくなるんだろう」

隆介は机の引き出しを開け、埃をかぶった古いノートを取り出した。大学時代に書きためた詩のノートだった。一度も人に見せたことのない、彼だけの世界。

翌日、オフィスでは春の新企画の会議が開かれていた。

「では、春の新刊ラインナップについて話し合いましょう。野村さん、あなたの担当分の進捗は?」

部長の問いかけに、隆介は資料を開きながら機械的に答えた。

「『次世代経済学入門』と『グローバル市場分析2025』の二冊です。著者からの原稿はほぼ予定通りに入っています。校正作業も順調です」

同僚たちが熱心に議論を交わす中、隆介の心は別の場所にあった。窓の外では桜の木が風に揺れ、その下を行き交う人々が春の喜びに浸っているように見えた。

「野村さん、何か意見は?」

突然の問いかけに、隆介は我に返った。

「すみません、もう一度質問を」

同僚たちは小さくため息をついた。野村隆介という男は、真面目で仕事は確実にこなすが、熱意が感じられないと評されていた。

会議が終わり、昼休みになった。同僚たちは「お花見ランチに行こう」と誘い合っていたが、隆介は「少し仕事を片付けておく」と断った。

オフィスに一人残り、隆介はパソコンに向かった。しかし、開いたのはエクセルではなく、ワードの白紙のページだった。彼は深く息を吸い、指を動かし始めた。


群れの声にまぎれずに

静寂の中に真を聴く

賢き者は歩むひとり

愚か者は叫びに踊る


学生時代に書いた詩の一節。この詩は彼の中に長く眠っていたが、この春、何かが彼の中で目覚めようとしていた。

土曜日、隆介は珍しく早起きした。カバンに古いノートを入れ、静かな場所を求めて家を出た。目的地は郊外の小さな丘の上にある公園だった。人気が少なく、町を見下ろせる静かな場所。

公園のベンチに座り、ノートを広げる。十数年前に書きかけて完成させなかった詩の数々。青臭い言葉の羅列に、隆介は苦笑いした。しかし、その中にも光るものがあった。

彼はペンを取り出し、新しいページを開いた。


春風は群れを誘う

陽光に踊る人々

私はただ見つめている

踊れない自分の足を


筆が進むにつれ、長く忘れていた感覚が蘇ってきた。言葉を紡ぐ喜び、心の奥底から湧き上がる思いを形にする充実感。

「野村さん?」

突然の声に、隆介は顔を上げた。そこには会社の後輩、渚菜緒子が立っていた。

「こんな所で何してるんですか?」

「ああ、菜緒子さん。ちょっと...」

隆介は慌ててノートを閉じかけたが、菜緒子の目は既にそれを捉えていた。

「詩ですか?野村さんって詩を書くんですね」

「いや、これは...」

言い訳をしようとしたが、菜緒子は既にベンチに座り、隆介の横顔を見つめていた。

「実は私も詩が好きなんです。でも、会社では言ってないんですけど」

その言葉に、隆介は驚いた。渚菜緒子は入社3年目の新進気鋭の編集者で、経済書の知識も豊富だった。彼女が文学に興味があるとは思ってもみなかった。

「野村さんの詩、読ませてもらえませんか?」

断りきれず、隆介は渋々ノートを開いた。菜緒子は真剣な表情で詩を読み、時折小さく頷いていた。

「素敵です。特に、この『群れの声にまぎれずに』という詩が」

「あれは...学生時代に書いたものだ」

「でも、今の野村さんにも通じるものがありますよね。いつも一人で、静かに仕事をしている」

隆介は言葉に詰まった。彼女の言葉は、彼自身が気づいていなかった何かを言い当てていた。

それから、隆介と菜緒子は時々公園で会うようになった。二人とも詩を持ち寄り、互いに批評し合った。菜緒子の詩は若さゆえの情熱に溢れ、隆介の詩は静謐さと深い思索が特徴だった。

「野村さん、出版社に勤めているのに、なぜ自分の詩を本にしないんですか?」

ある日、菜緒子はそう尋ねた。

「それは...」

隆介は言葉を選んだ。「自信がないから」と言えば簡単だったが、それは半分だけの理由だった。

「僕は、多くの人に読まれる詩を書きたいわけじゃないんだ。自分の心と対話するために書いている」

「でも、それは勿体ないです。野村さんの詩には、人の心を動かす力がある」

菜緒子の言葉は隆介の心に深く刺さった。彼は長い間、自分の言葉が誰かの心に届くとは思っていなかった。経済書の編集者として、数字と論理の世界に生きていた。

「ニーチェの言葉を知ってるか?『群衆の中にいると、人間は軽くなる。賢者は孤独のうちに深くなる』という」

「知ってます。でも、私はそれに少し反対なんです」

菜緒子の答えに、隆介は驚いた。

「孤独も大切ですが、時には自分の言葉を他者に届けることで、新しい深さが生まれることもあると思うんです」

その会話から数週間後、隆介は一つの決断をした。彼は自分の詩を小さな文芸誌に投稿することにしたのだ。

「群れの声にまぎれずに」をはじめとする五篇の詩を選び、封筒に入れて投函する時、彼の手は少し震えていた。これは学生時代以来、初めての挑戦だった。

投稿から一ヶ月後、返事が来た。文芸誌の編集長は隆介の詩に深い感銘を受け、次号に掲載したいという申し出だった。

「本当に?」

隆介は手紙を何度も読み返した。自分の言葉が誰かの心に届いたという事実に、彼は言葉にできない喜びを感じた。

文芸誌が発売された日、隆介は書店に足を運んだ。自分の名前が活字になっている様子を見るのは不思議な感覚だった。

「野村隆介さんですか?」

書店で立ち読みをしていると、老人が隆介に声をかけてきた。

「はい...」

「あなたの詩を読みました。とても心に響きました。特に『群れの声にまぎれずに』という詩が」

老人の言葉に、隆介は戸惑いながらも嬉しさを感じた。

「ありがとうございます」

「あなたのような詩人がいるから、私たちは自分の内なる声に耳を傾けることができるんですよ」

その言葉は隆介の心に深く刻まれた。


---


春が過ぎ、夏が来て、そして再び冬がやってきた。隆介の生活は少しずつ変わっていった。会社では相変わらず経済書の編集を担当していたが、休日は詩作に費やすようになった。

彼の詩は徐々に認められ、小さな詩集を出版する話も持ち上がった。菜緒子も自分の詩を発表するようになり、二人は時に批評し合い、時に励まし合った。

冬の終わりのある日、隆介は再び窓辺に立っていた。一年前と同じ景色を見ているはずなのに、彼の目に映る世界は全く違って見えた。

「隆介さん、原稿ができました」

菜緒子が持ってきたのは、隆介の詩集の校正刷りだった。表紙には「静寂の詩人 野村隆介詩集」と記されていた。

「本当に出版することになるなんて...」

「当然です。隆介さんの詩は多くの人の心に届いています」

菜緒子は微笑んだ。彼女と隆介の関係も、同僚から友人へ、そして徐々に特別な関係へと変わりつつあった。

「でも、僕はまだ孤独を大切にしてい

「もちろんです。でも、その孤独で見つけたものを時々私たちに見せてくださいね」

隆介は頷き、詩集の冒頭を開いた。そこには、彼の原点となった詩が記されていた。


群れの声にまぎれずに

静寂の中に真を聴く

賢き者は歩むひとり

愚か者は叫びに踊る


「この詩から全てが始まったんだ」

「そして、これからも続いていくんですね」

菜緒子の言葉に、隆介は静かに頷いた。彼は窓の外を見た。春はもうすぐそこまで来ていた。今年の春は、彼にとって特別な意味を持つだろう。

詩集の出版。そして、菜緒子との新しい関係。

隆介は心の中で新しい詩を紡ぎ始めていた。


静寂は友であった

孤独は師であった

しかし今、私は知る

言葉は橋となることを


群れを離れ、深めた心

再び群れに還りゆく時

そこに真の賢者の姿

静かに、しかし確かに響く



窓の外では、冬の名残の雪が静かに舞っていた。しかし、隆介の心の中では既に春の息吹が満ちていた。彼は深く息を吸い、そして静かに詩を書き続けた。

彼の詩は、いつしか多くの人々の心に届くようになった。しかし、隆介は相変わらず静かに、自分の内なる声に耳を傾けながら生きていた。ニーチェの言葉を胸に、しかし同時に、自分の言葉が他者に届く喜びも知った彼は、真の詩人として歩み始めていた。

詩人野村隆介の旅は、まだ始まったばかりだった。

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