79.キングストン牧場
キングストン牧場。それがこの牧場の名前だと知った。
現在は馬術競技用の馬の育成専門だが、数年前まで乗馬学校を開いていたという。
生徒達は各競技会で優勝をさらい、オリンピックのメダリストまで輩出したこともある、かつての名門。そんな中でもボスは将来を嘱望された有望株だったらしい。それが急にやめると言い出した。
「もう十年くらい前のことよ。その時はうちの人も気落ちしていたから。罪滅ぼしのつもりもあるのかしらねぇ」
馬場からの道すがら、私の隣でエマは呟いた。
「年末年始に夫婦二人だけっていうのも寂しいもの」
聞けば、彼女には一人息子がいるのだが、今は外国だという。それも遠いオーストラリア。そっちの人と結婚して住んでいて、年が明けてからでないと帰ってこないらしい。
「ディーには感謝してるわ。今年はあなたを連れて来てくれたことだしね」
笑顔で私の片手を握ってくる。
温かさは心にも染み渡った。彼女のためにできることを考える。それが可能な技術を持っていることに私は誇りを感じた。
曇り空はやがて薄暗くなっていき、すぐに真っ暗になった。冬の夜は早くやってくる。
私の本領発揮の時間だ。夕食の準備に入る。
エマは自分がやる、おもてなしをさせてと言っていたけど、彼女が利き手である右手がうまく使えないということはすぐに分かった。捻挫した手首がまだ本調子ではないのだ。
包丁だって危なっかしいし、鍋を持ち上げることもできない。私に任せて欲しいとお願いした。
決まったメニューは世界混合料理。餃子やパスタや天ぷら、それにイギリス料理の定番のフィッシュ&チップス。
エマや彼女の旦那さんの希望を聞いていたら、炭水化物盛りだくさんの、なんだか分からない内容になってしまった。
ストーブ用の薪を用意しているのが旦那さん。ゴマ塩頭にひげのいかめしい顔つきの人だ。名前はジェフリー。エマはジェフと呼んでいた。
この二人の会話は聞いていてびっくりする。彼は必要最小限の言葉しか口にしないのだ。エマが一方的に喋っている感じだ。
答えは全て「ム」。YESもならNOもその一言だ。
どうやって判断しているかは分からないが、二人の間だけで通じるものがあるらしい。
彼とボスとの会話もない。同じソファに腰掛けながらもボスは何一つ話しかけようとしない。かといって微妙な空気でもない。まったくの自然なのだ。
今、ボスはこの家の犬の相手をしている。白と黒の毛色のコリー犬だ。
耳掃除という大役を任されたのだ。マックスという名のその犬は、耳の中を触られるのが大嫌いだという。
ジェフに両脇を抱えられ、連れてこられたマックスは捕獲された宇宙人みたいな格好だった。すっかり脅えきって情けない声を出している。
ボスの膝に頭を乗せられ、観念したようだ。不安げにソファの上で尻尾を動かしながらもじっとしている。
少しでも動こうとするなら、ボスが喉の奥で短く唸る。それだけで硬直してしまうのだ。
犬に触れるなんて良いなあと見ていると、エマが横で微笑む。明らかにボスに気を取られていると勘違いしている。私は手元に目を戻し、料理に集中する。
言葉で否定すると余計に誤解を生むのだということは、遅まきながら悟っていた。
調理が終盤に差し掛かる頃、ボスの携帯が鳴り響いた。
すでに犬の耳掃除を終えていた彼は、ソファから立ち上がって部屋から出て行った。城で何かあったんだろうか。私の緊張も高まる。
しばらくして扉を開けたボスは、私を指で招いた。
エマに断って厨房から出て、傍に寄る。すると彼は携帯を突き出した。
「お前にだ」
誰からとも教えてくれないまま、私に携帯を押し付けると、自分はストーブの前に戻ってしまった。
エマが興味深そうに私たちのやりとりを見ている。
私はボスに習って部屋を出た。他の人には聞かれない方が良いかもしれないとの判断と余計な詮索を避けるため。
暗い廊下で携帯を耳に押し当てる。
「もしもし?」
「はーい、ミシェル。元気してるー?」
妙なテンションの甲高い声。一瞬誰だか分からなかった。
「城の電話にかけたら、マイケルは厨房にいないし、ボスは愛人と出かけたって言うじゃない。それで、もしかしたらと思ったら当たりね」
宝くじにでも当たったように楽しそうに笑う。やっと分かった。アビゲイルだ。いつもと違う高い声、その上早口だ。
「アビゲイル、ご機嫌ですね」
「義理の家族と飲んでるところなの。そっちはどう、楽しくやってる?」
休暇中の人には言われたくない。ボスと楽しく仕事してます……なんて返事、期待されても無理な話だ。
「まあ、どうにか。何か用事ですか?」
努めて冷静に答える。言葉のとげとげを注意深く取り払う。もっとも酔っている人は気にも留めないかもしれないけど。
「そうそう。どうしてもあなたに伝えたいことがあってね」
休暇中にかけてくるなんて、よっぽどの重要事項だろう。一言一句行き逃すまいと集中する。
彼女は意味ありげに一息置いて、言った。
「イギリスでは年が明けた瞬間、誰とでもキスして良いことになってるのよ」
「はい?」
思わず聞き返してしまった。それで私にどうしろと? 呆気に取られて、他に言葉を見つけることもできなかった。
「それじゃ、ボスと良いお年をねー」
その隙にアビゲイルは電話を切ってしまった。最後に不気味な含み笑いを残して。
これはもう酔っ払いからかかってくる、たちの悪いいたずら電話と同じだ。気にしないのが一番。
私は携帯を閉じると、扉を開けて部屋へと戻った。
次回予告:時はその時を迎える。アビゲイルの言葉に翻弄されるミシェルは……。
第80話「カウントダウン」
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