78.地獄の夜明け
牧場の一角である、白い策に囲まれた砂の馬場。ボスがさっきの馬に跨っている。
真っ黒な大きな馬。まるで遊園地のアトラクションのようだ。その場で前に後ろに跳ね、乗り手を振り落とそうとしている。とんでもない高さ、四つ足でも滑りこけそうなほどの捻りに度肝を抜かれる。
だが、ボスのほうが上手だった。見ているこっちは冷や汗ものなのに、彼は表情一つ変えずにじっと鞍に留まっている。
「やってる、やってる」
柵の外で見ていると、後ろから声が聞こえてきた。
エマだ。彼女は私の隣に来ると、ボスと馬を見やって微笑んだ。
「ドーンも気合十分のようねぇ。頂上決戦でもやってる気分なんだわ」
「ドーン?」
「そう。ヘル・アット・ドーン。あの馬の名前」
毛先に行くほど明るい色になっていく黒く長い鬣は、白々とした曙を思わせないでもない。直訳すれば、地獄の夜明けの意味。なんだか凄い名前だが、あの馬なら合ってる気がする。
「ディーかうちの人しか乗れないのよ。能力は高いんだけど気性が荒くて、四人も病院送りにしてるの。ディーが気に入ってなければ置いてないわねぇ」
厩舎での、あの男の人の言葉に合点がいった。
「五人目にならずに済んだな」って。あれは病院送りにならなくて済んだなって意味だったのだ。
だけど、ボスがいないと置いていない馬って。それなりの乗り手だってことだろうか。もっとも、彼の場合は人に対するのと同じように、馬にプレッシャーをかけているのだと思う。
ひとしきり抵抗を試みた馬は、無駄だと悟ったらしい。従順に運動を始めている。
「ディーも途中でやめなきゃ、五輪出場くらいは果たしていると思うのに。勿体無いことよねぇ」
彼女の言葉に唖然とする。
「五輪って、オリンピックのことですか?」
「四年に一度の世界の祭典ね」
想像もしていなかった。ボスにそんな特技があったなんて。
馬は駈足に移っていった。頭を下げ、首を屈した馬の姿は彫刻のような優美さだ。ボスは円や八の字を書いたりして、自在に操っている。
「ディー」
やがて、馬場の中央にいた男性が呼びかける。さっきのごま塩頭の人だ。
その傍には八十センチほどの高さのあるバーの障害物があった。
ボスはそっちへ馬を進めていく。あれを飛ぶつもりらしい。馬の大きさから考えて楽勝だろう。
安心して見ていた私の前で、それは起こった。
馬は飛んだりしなかった。まるで何もそこにないように突っ込んでいったのだ。バーが前足に当たり、弾け飛んだ。
「出番だ。お嬢ちゃん」
男の人が馬場の内側から呼びかけてくる。
辺りを見回すが、彼の視線は明らかに私に向かっている。
「頑張って」
エマの応援に釈然としないままに柵をくぐる。出番って言われたって、何をしたらいいか分からない。バーをかけろと言うのだろうか。だが、それはすでに男の人が脇にどけている。とりあえず、彼の傍に向う。
「そこに寝てくれ」
彼は障害のバーをかける両脇の支柱の間を指し示す。
それって私に障害物になれってこと? さっきのバー、五メートルは軽く吹っ飛んだように見えたけど。
あんな大きな馬に踏まれでもしたら、大怪我になるんじゃ……。冷や汗が吹き出てくる。
突っ立っている私を馬上から睨みつけてくるボス。
それでなくても威圧感十分なのに怖い馬で高い位置。
こっ、これは、白馬に乗った王子様ならぬ黒馬に乗った魔王様か。相乗効果は抜群で、そんな妄想まで芽生えた。
男の人は黙って器具で馬場を均している。柵の向こうのエマは、にこにこ笑いながら手を振るだけだ。助け舟は来そうにない。
私は諦めて支柱の間に横になった。
こうなったら、ボスを信じるしか……。
いや、あの人なら私が怪我をしたって「馬鹿だ」の一言で終わり。気にはしなさそうだ。ここで何かあったら労災になるだろうか。城から出ているから仕事じゃない?
でも、これって部下イジメ、パワハラと違うんだろうか。裁判でも起せそうだ。そうなったら、ボスを相手に戦える弁護士を探さなくちゃ。そんな人見つかるだろうか。
頭が現実逃避を始めている。妄想が果てしなく広がっていく。
ボスのことを考えるのはやめよう。あの馬を信じるしかない。そう決めたものの、汗は収まらない。
厩舎での出会いを思い出す。人の肩にのしかかろうとした上、噛み付いた馬だ。ああ、あんなのを目撃しなければ、気持ちも違っただろうに。
なんだかまた気分が暗くなってきた。よし、こうなったらボスもあの馬も除外。男の人もエマも止めないのだ。彼らをこそ信じよう。
でも、ちょっと待って。この二人って普通だろうか。子供の頃からボスの知り合いだったというし、違う人たちだったりしたら……。また怖い考えがぐるぐると巡り始める。
はっとする。声にならない悲鳴を上げる。いつの間にかすぐ傍まで来ている。
目をつぶるのも見るのも、どっちも怖い。しかも馬は横走りしているし。それを真っ直ぐにするべく、ボスの片足がどかどかと馬の腹を蹴りつけている。
直前で正面を向いた馬は踏み切った。砂が舞い上がる。黒い腹と蹄の裏が見えた。
馬は私の上を鹿みたいな格好で大飛びした。散った砂がばらばらと降りかかってきて、慌てて目を瞑る。
「お嬢ちゃん、どいてくれ。バーをかけるぞ」
男の人の声に飛び起きて退避する。
それから、バーを飛ぶたびに高さは上がっていった。ついには私の背ほどに高くなり、それでも余裕で飛び越えているように見えた。
ある意味、凄い人だとは思っていたけど、本当の意味で凄い人だったんだなあと実感する。
柵の外に下がって見ていると、笑顔のエマが寄ってきた。
「惚れ直した?」
とんでもないことを尋ねてくる。
「惚れも直しもしてません」
私の答えに彼女は楽しそうに笑い声を上げるだけだった。
次回予告:ボスと牧場の関係を知るミシェル。そして、アビゲイルからの電話は彼女を動揺させて……。
第79話「キングストン牧場」
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