75.大晦日
新年を迎えるまで十時間を切った。今日は大晦日だ。
こんなに静かで暇な年末は過ごしたことがない。
厨房と続きの食堂のテーブルに肘を付いて、ぼーっとしている私。
廊下を行きかう人もいないし、食堂を訪れる人もいない。日に何度もコーヒーを飲みに来るグレイもいないから、コーヒーメーカーさえもお休みだ。
一昨日出て行ったレイバンも戻ってこないし。
今、城にいるのは最低限の人員。時間割りで近郊に家のある隊員たちが対応してると聞いている。
実質、城に残っているのは私とボスだけ。あの人のためにいるようなものだ。日に三度の食事のために。
なんだか寂しい。こんな年末なんて。
ボスは家族の元に帰らないんだろうか。そうしてくれれば、きっと私もイタリアに帰れるだろうに。
らしくなく、もんもんと考えてしまうのも時間が有り余っているせいだ。
テーブルに腕を投げ出して、溜め息をつく。
ボスの昼食が終わったばかり。私も残り物で済ませた。夕食まで何しよう。明日の御飯の下ごしらえまでしておこうか。でも、そんなことしたら、さらに仕事がなくなってしまう。
ここにいても仕方ないし、一度部屋に戻ろう。
私はのろのろと立ち上がり、自分の部屋に向った。
あくびが出る。退屈だ。
ベッド上で、ヘッドボードに背中を預けて座り、興味もないテレビを見ている。
今やっているのは天気予報だ。元旦は穏やかな気候とか言っているが、城に篭っている私には関わりがないと屈折した気分に浸る。
なんだか眠くなってきた。目蓋が重くなってくる。うとうとしかかったところに電話が鳴った。
仕方ない。出るとするか。しまりのない気分で受話器を取る。
「二十分後、ロビーに来い。女の格好でな。スカートなんか履いてくるなよ」
聞こえてきたのはボスの声だ。そう気付いて確認する暇もなく、電話はぷつりと切れた。
これじゃイタ電みたいじゃないか。そんなふざけた電話は無視……なんて、できるわけもない。上司命令だ。
私は急いで支度に取りかかった。
スカートはダメだといわれたので、悩んだ挙句、ジーパンにTシャツ、ショート丈のテーラードジャケットに決めた。
いつもの通り、鬘も装着して、メイクも済ませる。
この鬘もそうだが、女性ものの衣服は専らアビゲイルが用意してくれる。マスティマには彼女の他に女はいないことになっているからだ。荷物の出入りには、抜き打ちでディケンズ本社のチェックが入るので、危ない橋は渡るなと言われている。
彼女が持ってくるのはスカートやワンピースで、パンツ類は一切ない。
なので、これは私物だ。アビゲイルに釘を刺される前に、実家から送ってもらった女物のジーパン。本社のチェックも運良く通り抜けたらしい。しかし、こんな風に役に立つとは思わなかった。
私はロビーを見渡す。誰もいないと広く感じる。天井もこんなに高かっただろうか。
いつもなら、ここには必ず誰かがいる。端のソファでグレイが昼寝していることもあるし。
静か過ぎる。皆早く帰ってきてくれないだろうか。これじゃ本当に幽霊屋敷みたいだ。しんみりする私の後ろから足音が近づいてきた。
ボスだ。
なんだってこんな所に、しかもこんな格好で呼び出されなければいけないのか、ちゃんと理由を説明してもらわないと。
そう思いながら振り返る。
だが、姿を目にして、考えていた言葉が吹っ飛んだ。
いつもと違う格好。マスティマの制服である黒いロングコート姿じゃない。
チョコレート色のレザーのジップアップジャケットに、はいているのは濃紺のジーンズだ。この人にはカジュアルなイメージはないのに。
「そんな格好で行く気か?」
ボスは眉をひそめながら言った。
低い声に我に返る。行くって何処へ? 疑問に答えがないまま、放り投げられたものを反射的に受け取った。
掌に乗っていたのは鍵。
「行くぞ」
ボスは私を放って玄関目指して歩き出す。なんだか分からないが、付いていくしかない。
私は彼の背中を追いかけた。
着いたのは城の西側。マスティマ・ドッグの犬舎の傍にある大きな車庫だ。
彼は車庫の前に止っている一台の車の扉を開くと乗り込んだ。大型の白い四輪駆動車だ。
私は掌の鍵を見下ろして察する。まさか、これって……。
「運転しろ」
助手席からボスの声が飛ぶ。やっぱりそういうことか。
妙な汗が一気に噴き出した。私の声は悲鳴に近い。
「無理ですよ。車なんて運転したことありません」
「こんなのオモチャだ」
焦る私にボスの言葉が追い討ちをかける。
「早くしろ」
なんで私が。私はコックなのに。寝かしつけ役まで押し付けられて、その上運転手まで?
色々な思いが頭の中を駆け巡る。だけど、現実には勝てなかった。こちらを睨みつけているボスには。
マスティマの制服を着ていなくてもボスはボス。迫力だって変わらない。
仕方なく運転席に座る。安全第一。まずはシートベルトだ。すると、ペダルにぜんぜん足が届かない。慌ててベルトを外す。
じっとこちらを見ているボスに、何故か何度も謝りながらシートの位置を動かす私。すでに半ばパニック状態。
「ブレーキとクラッチを踏んで、キーを回す。ギアをローに入れて、ハンドブレーキを下げる。アクセルに踏み変えて半クラッチで発進。簡単だろうが」
一応順序だてて説明はしてくれた。だけど、まったく頭に入ってこない。
母の車の助手席が私の指定席だったから、やりかたは分かる。器具の名称も。余計なのは、助手席から襲い掛かる、この凄まじいプレッシャーだ。
えっと、最初はブレーキとクラッチだっけ……。
記憶を手繰り寄せながら、恐る恐るペダルを踏む。
「なに下見てんだ」
ボスの一喝。足元を覗き込んだのがいけなかったらしい。
だって足の感覚だけじゃ、どのペダルがクラッチ、ブレーキでアクセルか自信がないし。っていうか、こんな不安な私によくぞ運転させる気になると思う。
ボスは私の次の行動を待っている。気もそぞろになる。
ギアをローにして、アクセル踏んで半クラッチ。
「おい」
ボスの声とどちらが早かったか。
車は急発進した。それも後ろ向きに。
ギアを入れ間違えた。そう気付く暇もなかった。あったのは、なんで後ろにという疑問だけだ。次に襲ったのは衝撃。車庫の壁に激突して止まった。
ボスは後ろを見、それから私を見据えた。
「むちうちにでもする気か」
くすぶった怒りが立ちのぼるのが見えるようだ。
私はひとしきり謝ってから、逃げるように車を降りた。ぶつけた場所を確認に行く。
車が傷ついた上に、凹んでいる。車庫の波板の外壁も割れて、基礎の鉄骨が見えていた。これはアビゲイルに報告しないと。給料天引きは覚悟の上で。
一年の締めの日にこんなことになるなんて、気分が沈む。もう出かけるなんて気分にならない。だが、ボスの意思は変わらなかった。
彼は車庫から大型の黒いバイクを持ち出してきた。跨り、私に声をかける。
「乗れ」
これにボスと二人乗り? それこそ恐怖だ。固まる私に「轢くぞ」とエンジンをかけながら、彼は言う。
二者択一なら選ぶのは一つしかない。私はしぶしぶ彼の後ろに跨った。
次回予告:バイクで連れていかれたのはミシェルの知らない場所。彼女はそこでボスと古い知り合いだという女性に出会う……。
第76話「エマ」
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