73.猟犬
動物は大好きだ。その中で一番を挙げるなら、やはり犬。
マスティマで働く犬なら、警察や軍で用いられる犬種の可能性が高いだろう。シェパードが頭に浮かぶ。
フサフサ尻尾がたまらなく可愛い。あの尻尾が五つも並んでいる姿を想像して、にやけてしまった。
ああ、気持ちを引き締めてないと、ずっとそんな顔になってしまいそう。
まだ七時まで四時間以上ある。私は両頬を叩き、気合いを入れ直して仕事を続けた。
午後六時三十分。すでに日は落ちていた。
私は西の庭にいた。
昼間より雲は薄くなり、合間から時折月が覗く。城の窓からは、ほそぼそとした光が漏れている。見るからに怪しい雰囲気。
マスティマの城は古臭い石造り。内部の設備は整っているのに、外側はおんぼろだ。枯れた蔦に覆われたところや苔が生えて朽ちている部分がある。
淡いオレンジ色の光は離れれば見えなくなるという特殊なガラスの遮光効果。そう知らなければ、幽霊が出る名所といっても通りそうだ。
そういえば、バンシー騒ぎもあったなと思い出す。バンシーっていうのは奇声を上げて人を驚かせる女の幽霊のこと。その正体は私のマジな悲鳴だったのだけど。
深刻な騒ぎにならなかったのは、この城のロケーションのお蔭だと思う。感謝すべきは技術情報部なのだろう。環境整備は彼らの仕事の一つだ。
また月が翳りつつある。光を逃すまいと目的の場所へ急いだ。
レイバンから預かった鍵で扉を開ける。自動で電気が点った。
白い光の眩しさに一瞬目がくらむ。瞬きの末に見えたのは、狭いキッチンとそこにある業務用のステンレスの冷蔵庫だった。その大きさは小部屋の半分を占めている。
銀色の扉のところに、それぞれの食事の分量が書かれたメモが貼り付けられていた。
マグナム、ワルサー、コルト、センティ、ルガー。全部で五頭。名前がおっかない。詳しくない私でも分かる、銃や弾丸にちなんだものだ。誰の趣味かは瞭然。
マスティマの制服の上着を脱ぐ。防寒用として着てきたけど、この小部屋の中はさほど寒くない。
えっと、肉に栄養剤を混ぜ込む……と。メモにはグラム単位で細かい指示があった。
冷蔵庫を開けて驚く。彼らの餌となる肉の上質さ。高級レストランで使われるような牛肉。なんだかもったいない気もする。だけど、彼らは普通の犬とは違うと聞いていた。
レイバン曰く、誉れ高きマスティマ・ドッグ。きっと素晴らしい犬たちなんだろう。
腕時計をちらりと見る。まだ時間はある。彼らの姿を見るくらいなら。あわよくば少し遊べたなら言うことない。
私は冷蔵庫に肉を戻し、部屋の奥にある扉に向った。
なんだかドキドキする。扉を開けながら胸を高鳴らせる。
さあ中だと思ったら、もう一枚扉があった。格子の扉だ。犬が飛び出すのを防ぐための安全柵だろう。
内側は暗くてよく見えない。
格子扉を開くと明かりが点った。ここも自動照明だ。
最初に驚いたのはその広さ。奥にいくにしたがって高くなっている傾斜地。岩や草や木が自然のそれのようにある。だが、照らしているのは、もちろん人工の光だ。体育館のようなアーチ型の天井に電灯。
ぽかんと天井を見上げていると、すぐ脇の草むらが、がさがさと動いた。掻き分けて出てきたのは精悍な顔つきのジャーマン・シェパード。
やっぱりシェパードがいた。想像の通りでテンションが一気に上がる。
犬は立ち止まり、こちらを見つめている。賢さに溢れた黒い瞳。ゆったりと振られている魅力的で豊かな尻尾。私の心は一気にわしづかみにされた。
腰を落として、おいでと呼びかける。すると、その犬はゆっくりと近付いてきた。
もうすぐ、あの尻尾に触ることができる。私は歓喜に包まれた。
犬の足取りが速さを増していく。こちらに飛びつく気だろうか。私はその子を受け止めようと両手を開いた。
ところが、犬の四肢は地面を蹴った。易々と私の頭の上を通り過ぎていく。
キッチンに降り立ったその犬は私など気にもしないで、外へ通じる扉に駆け寄っていった。
「ちょっと待って」
私は焦って戻りかける。
だが、次の瞬間、背中を突き飛ばされていた。ドロップキックでも決められたような衝撃。
「うぐぅ」と無様な呻きが漏れる。
戸口のところで倒れたために、閉まってきた柵がわき腹に突っかかった。
両手を投げ出して突っ伏した私の上に、とんでもない重みの肉球がのしかかる。四つに分散された圧力。荒い息遣い。これも犬だ。
だけど大丈夫。外に逃げることなんてできないはずだ。犬に扉を開けることなんて……。
そう思っていたが、頭をひねって出口に向けると、さっきのジャーマン・シェパードが立ち上がっていた。両前足に挟んで器用にドアノブをまわしている。
扉はいとも簡単に開き、シェパードは嬉々として出て行ってしまった。
背中の大きな犬が動く。一歩一歩が重い。視界に入ってきたのは巨大な灰色の足。それもそのはず、グレートデンだ。四つん這いになった私よりも大きい。ライオンみたいな大きなストライドで外へと駆け出していく。
やっと体が自由になった私は、両手を付いて立ち上がろうとする。だが、その前に私を飛び越していくもの、また一頭。
金の毛のがっちりとした犬だ。開いた扉に向って一目散。いったい何頭出て行っただろう。パニックに陥った私は、まともに数も分からなくなっていた。
茫然と立ち上がった私の脛をこするようにして、さらに犬が抜け出そうとした。私は反射的にその首輪に手を伸ばした。
運良く指がかかり、引き留めることができた。
黒い毛色のドーベルマンだ。私の腕に牙を立てようとするが、腕を伸ばしている私には届くはずもない。とりあえず、一頭は確保した。そう思った瞬間、その犬はくるりと後ろ向きになった。
すぽんと音でも聞こえそうだ。それくらい気持ちよく首輪が抜けた。ドーベルマンは外に向かって一直線だ。
私も駆け出したが、間に合うはずもない。暗い庭を前にして、ショックのあまり立ちすくんだ。
マスティマの城を取り囲む庭は広い。これはもう庭とは言えないほどに。木立あり湖ありの、ちょっとした森のようなものだ。動物が隠れ潜むのにはうってつけの。
どうやったら彼らを探し出せるだろう。見つけられたとしても捕まえることができるだろうか。
だが、やるしかない。私は外へと駆け出した。
次回予告:逃げ出した犬たちの捕獲に奔走するミシェル。思いのほか手間取ったために、あの人まで出てきて……?
第74話「M・マグナム」
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